5深禄
神田深禄、22歳。
この理の世界、気海に訪れる前、彼女は大学生だった。
1年間の浪人生活を経て入学した、第一志望ではなかった大学で、深禄は大学3年生の夏休みを満喫しようとしていた。
望んでいた大学に合格せず、そんな自分を受け入れながら過ごした2年半。
そして、今度は就職活動という形で、新たな人生の選択が迫られ始めていた。
気海に転移させられたのは、そんな最中。
深禄はどこにでもいるような人間である。
地毛の黒髪は肩より少し高い位置まであり、身長も平均的。
浪人生時代に少し太り、大学生になってからダイエットを開始した。
誰にも話すことはない話だが、今は努力の成果もあって胸に脂肪を残して痩せることができたのが、ちょっとした自信になっている。
また、深禄はアニメやゲームが大好きである。
深禄は幻想世界に強い憧れを抱いており、そんな世界の一片であるアニメや漫画、ゲームなどの物語を愛していた。
しかし、推し活といったような自分の好きなものを追いかけている輝かしい人達ともまた違った。
アニメやゲームの世界に憧れつつも、その世界の眩しさに気後れして平凡な日常を歩んでいた、そんなような人間。
物語の世界の人々は素敵な人が多い。
容姿が綺麗なのもそうだが、声も綺麗で特徴的。
精神的にも強く自分の価値観を持っている人が多い。
深禄はそんな世界に憧れながら3次元を生きていた。
強い女性も3次元から2次元へと、一つ次元が違えばかっこいいと受け入れられる。
深禄が住んでいた小さな世界では、強い女性や賢い女性はあまり好まれていなかった。
また、幻想の世界では重力といったような、さまざまな化学や自然的な世界の理に縛られない強さもある。
努力や根気、友情で物事をなんとかしてしまったり、はたまたは超能力があったりと、そんな様々な強さは眩しい憧れだ。
しかし、当たり前であるが深禄はそんな2次元の登場人物のようにはなれないし、仮に力を手に入れたって戦うのは気が向かない保守的な性格だった。
暴力的なことは嫌いだし、闘争心が高まっている自分は社会的には好かれない。
だからそんな状態の自分は嫌いだった。
そうやって、かっこいい人々に憧れながら生きてきた。
「一晩寝ても覚めない夢…」
部屋には障子の向こうから朝日が差し込んできている。
こんなにも意識ははっきりとしているのにも関わらず、深禄は昨日エラに案内された部屋にいる。
「夢…じゃぁないのかぁ…」
昨日はあまりにもいろいろなことがあった。
あんな爆風に包まれたのも、あんなにも立派で、しかしどこか無機質な部屋に通されたのも初めてのことである。
(あ、そういえば普通に馴染んでたけど、マスター)
(あの人はどういう生き物というか、存在なのだろう)
(ヘリコプターに乗ったのも初めてだったし、お腹に手を突っ込まれたのも未知の体験だったなぁ…)
「そういえば…」
(そういえば、昨日のキス…あれも…)
「いくら助けるためとは言ったってねぇ…」
自分の唇に触れてみる。
今更ながら、顔が熱い。
長い事2次元のイケメンや美女を追いかけてきた自分に、思いがけずに3次元?のイケメンと驚きのハプニングが起こったのだ。
ちなみに、深禄はその人生において交際経験がなかった。
深禄自身があまりモテなかったというのもあるが、男性が怖かったため、深禄自身が異性を自分から遠ざけていたのだ。
(そもそも、あの降閾亮という人もエラさんも美形すぎる!!!)
夢だと何度も言い聞かせたけど、夢にしては精巧に作られすぎている。
亮という人物は性格的にあまり親しみやすい人物ではなかったため、これからについて様々な問題を想像することができたが、ここではあの青年に護衛されながら深禄は生きていかないといけない。
(あんなイケメンと一緒にいたら落ち着かないだろうな…よく考えたら。昨日は夢だと思ってたから大体にも話しかけられたけど…)
(でも、そんなの全然関係ないっていうか、むしろ動き回るなとか言ってきそうだな、あの人)
深禄は順番に記憶を整理していく。
「そういえば、お母さんとキヨ、心配してるかもな…」
深禄は5人家族で、父と母、弟、そして父方の祖父と暮らしていた。
キヨとは、神田清孝という2歳下の弟のことである。
深禄は家族の中でも特に母親と弟を大切に思っていた。
「そうだ。もらったスマホを見てみよう」
深禄は何となく、今は家族のことは考えてはいけないような気がした。
右も左もわからない世界でホームシックになるのはあまりにも危険なことである。
気を取り直し、寝転がりながらスマホをいじってみる。
その使い勝手は、前の世界のスマホとなんら変わらなかった。
「ここが電話帳で。マップ機能もあるんだ…」
電話帳には、昨日エラが話していたように、確かに複数の連絡先が入っていた。
マップを見てみると、意外とこの地域が広いことがわかった。
「ここはA区…なのね…」
どうやらここはA区という場所らしい。
この「A」が何の頭文字なのか、どんな意味が込められているのかは不明である。
この屋敷に来たとき、周囲は緑が多く、あまり住宅やお店といったようなものは見当たらなかった。
(昨日訪れたビルとは反対で、静かな場所なのかな)
「とりあえず今日はこのお屋敷について知ろう!」
(エラさんは1週間程度は屋敷内にいて欲しいって言っていたし、命を狙われているというのならばあまり動き回らない方がいいよね)
昨日庭で見かけた訓練のようなものに参加していた人々についても知っておきたい。
そして、どういうふうに設備を使ったらいいのかということも新参者としては確認しておきたいところである。
(私には全然興味なさそうだけど、亮さん(王子様)もいることだし、まぁ、この世界を楽しまなきゃ損よね)
様々なものに日々追われながら、本当に欲しいのかもわからないものに欲を見出し惑わされ続けた以前の世界。
理想的な美しい言葉は沢山溢れているが、現実的には自分一人いなくてもどうとでもなる世界。
そんな存在なのに、何かにならなくてはいけないというプレッシャーが常に注がれる世界。
多くに感謝してはいるものの、同時に急に暗転し、モノクロになってしまう前の世界での生活のことを考えると、亮という青年がいるという輝きがある世界は少し魅力的にも映るものだから不思議だ。
以前深禄が住んでいた世界でも綺麗な人は沢山いたが、深禄が本当に美しいと思える人に出会えたのはこれが初めてだった。
それに、深禄は不思議と亮という人物に対しては、以前の世界で異性に感じていたような恐怖や不安は感じなかった。
この気持ちは単純に相手が美形だからとかそういう単純な理由からではないだろう。
「ふっふっふっふっ」
誰もいないからとニヤリと口角を上げながら深禄は密かに妄想にふけっていた。
すると、
―トントントンー
「ん?」
「おはようございます。ミロクさん。起きておられますか?」
ドアの向こう側からエラとは違う、女性の声が聞こえてきた。