被召喚者の坩堝
(何も無い人生だった)
男は薄れていく意識の中で、ぼんやりと思った。
小さな子供が、赤信号で横断歩道に飛び出したのだ。
車が走って来ていた。
赤いスポーツカー。
とっさに体が動いていた。
子供のパーカーのフードを掴んで、手前に強く引き寄せた。
そして、その反動で、前方につんのめった。
衝撃。
痛み。
視界が消える。
(次に生まれ変わったら……)
ゴツ
浮遊感があった。
ゆっくりと、揺れている。
柔らかい膜のようなモノに体が触れた。
触れた瞬間、体は膜の中に吸いこまれた。
そんな事が何度か続いていくうちに、男の意識が少しはっきりしだした。
(生きているのか?)
目を開けているはずなのに、何も見えなかった。
それでいて、不安は無かった。
遠くから声が聞こえた気がした。
声と呼べるよほどはっきりしたものでは無い。
願いや、意志、自分を求める感情が、振動となって体を震わせているような。
(喚ばれている)
それが解った。
今までいた場所とは違う所から、自分を喚んでいる事が、何故だかはっきりと解った。
膜のようなものが破れた。
視界が開けた。
五感が戻った。
遙か下方に、緑の草原のようなものが見えていた。
自分は高い場所にいる。
いや、違う。
高所から、落ちている。
空気を切り裂く音が耳に響く。
落ちている。
落ちている。
男は声を上げた。
その声が、すぐに途切れた。
息が出来ない。
落下の速度で息が出来ないのでは無い。
この周りにある大気は、臭いがある、味がある、重たくて粘り気があって、喉にからみつく。
この大気は、自分が知っている空気では無い。
酸素を取り込めない。
すぐに、意識が途切れ途切れになる。
酸欠だ。
激しい頭痛がする。
そして、落下の加速度が増して行く。
加速。
加速。
加速。
もう男に意識は無かった。
激突。
石を敷き詰められた広場の端で、男は血と肉を飛び散らせた。
「今日はあれで何人目だ?」
豪奢な服を身に纏った老人が、静かに訊ねた。
「3人目です、大司教様」
小柄で背中が曲がった男が答えた。
「そうか、なかなか、降臨してくださらないな……」
「はい、しかし、いつか、我らを救う勇者様が、あの空から、降臨されるはずです」
「何故、勇者様を召喚するのに、あんなに犠牲が必要なのか」
大司教が広場に散らばった肉片に目を向け、汚物を見るように顔をしかめた。
「魔王軍の侵攻はどうなっている?」
「西方大陸は魔王軍の手に落ち、中央大陸に迫る勢いです、もう対岸の火事では済ませられない事態です」
「勇者召喚の儀式は、どれくらいのペースで行っていたかな?」
「毎日10回の儀式を執り行い、それによって召喚されるのは、平均で3人です……、そして、まだ勇者の召喚は成っておりません、今日で66日目でした」
「……、そうか、では、儀式の数を10倍に増やせ、もし勇者様が降臨されなくても、あれらの血肉を呪詛に換え、この国の魔力結界の礎として使えば良い」
「はい、明日からそういたします」
大司教は、勇者では無かった物に背を向けた。
「空から落ちて、ただ無惨に死ぬのが、勇者のわけがない」