1.封筒
専門学校を卒業した後、中堅のIT企業に就職し6年ほどプログラマーをしてきた。小さいころからずっと突出するものはなく、どちらかといえば出来の悪い人間として生きてきた。そのため、大学も全て落ち、気持ち半ばで専門へ行った。好きなことを職業にできているものの、労働時間は法律を優に超え、俗にいうブラック企業だった。
「腹減ったなァ。」
気温は氷点下を下回り、独白による俺の息は白く霞んですぐに消える。『まるで自分の人生のようだ』と、陳腐でネタともいえるような言葉が体内で渦巻き、呆れから少しだけ口角が上がる。
何も変わらない、よく言えば平穏な一日として終わるはずだった。
「すみません。」
一人の女性が俺に話しかけてきた。辺りが暗い中、女はキャップ帽をかぶっていたので顔はよく見えなかった。
「は、はあ?」
「こ、この封筒を、書いてある住所まで届けてくれませんか……。」
「なんすかこれ。」
「い、いいから!おお、お、お願いします。」
慌てた様子の女は、それだけいって足早に去ってしまった、押し付け気味に渡されたその封筒を顔の前に持っていき、目を細めてぼぅっとみる。何の変哲もない、よくあるA4の茶封筒だ。中には数枚の紙が入ってるように見られる。
「ったく、なんで俺がこんなことを……。」
既に姿の見えなくなった女に、届くはずのない愚痴を吐き捨て、俺はとぼとぼと歩き始める。封筒の裏に書かれてる住所を確認するとそう遠くない場所だった。
俺の肌にまとわる空気は依然、酷く冷たいままだった。
20分ほど歩いただろうか。目的の住所につくと、そこは少し大きめの一軒家だった。外装は古めで、ところどころ朽ちている箇所もあった。
「なんなんだここは。」
怪訝な顔を隠さずに、俺は門前のインターホンを2度押す。チリンチリンと中から聞こえ、ほぼ同時に足音が聞こえてくる。
「あ、すみま――」
「てめえ誰だ。女は?」
「あ、いや、あの、道で女の人に届けろって言われて、これを。」
「はぁ?頼まれただと?ったく、まじかよ……。」
中から出てきた男は、いかにもやんちゃしてそうな強面で、俺が一連のことを説明すると、何か困ったような顔をした。
「おい、中入れ。」
「え、いや、俺はこれで」
「いいから!さっさと入れや。」
「は、はあ。」
不安が渦巻きながら俺はドアを通るが――
「オラァァッ!」
鈍い音が耳の近くでなり、俺の平衡感覚はどこかへ消え去った。上下が分からず、気が付いた時には床にだらしなく倒れこんでいた。
「よお、おっさん。お前五月雨の手先だろ。作り話が分かりやすすぎんだよ。」
「は、はぁ!?俺は本当に頼まれただけ――」
俺が言い終わるうちに2発目の拳が顔面に、そして蹴りが横腹に突っ込んでくる。
「うっ……あぁ……。」
「なぁ!?ゲロっちまえば殺しはしねえからさ、手間かけさせんなよ。」
男は眉を八の字に曲げ、諭すように俺の顔を覗き込む。胃液が逆流してしまい、気持ち悪さが限界となる。
「ほ、本当なんです……、ほんとに何も知らなくて……。」
「はぁ……仕方ねえな。葛城さん!ちょっといいすか!?」
男は葛城という名を呼び、足早に家の奥へ行ってしまった。玄関先で倒れこむ俺は、動くこともできずに放心状態だった。
「なんなんだよマジで……。」
自分でも聞こえないほど小さい声で呟き、情けなさで涙が出る。泣いたことで情けなさが加速し、また涙が出る。
ガチャッ
静かに涙を流していると、先ほどの男と、おそらく葛城と推測できる男が家の奥から戻ってきた。
「こいつが?」
「はい。例の紙を届けてきて、おそらく五月雨の手先かと。」
「ほんとかぁ?こんな普通のやつが?」
「うーん。どちらにせよ何とかしないとですよね。」
「めんどくさいけど、殺すか。一番それが楽や。」
「わかりました。」
2人の男は物騒な話を続け、俺を殺すという選択になると、葛城ではない男――天パの男が俺に猿轡をかませ、鋭そうな刃物を出す。
「すまねえな。これが一番安全なんだわ。苦しませないようにするからよ。」
「んんー!!」
俺の必死の叫びは悲しくも言葉にならず、ただ猿轡に吸収されるだけだ。
「オラァァツ!」
「んんんー!!」
天パが俺の首を切り裂こうとする瞬間、俺は傷みながらも足を動かし、天パの脛を蹴りつける。
「いって……おいテメエ!!」
「あああああああああ!!」
俺の足に、太ももに刃物が突き刺さっている。とてつもない暑さが傷口を襲い、そしてしびれを感じる。
「あーあ、静かにしとけば楽に死ねたのによ。」
息が荒れる。額には大量の汗が吹き出し、長めの前髪が張り付く。
「じっとしてろよ。」
「ああ……。」
薄れる意識の中、俺の頭には両親と妹のことだけが漂っていた。親孝行もろくにできず、妹との仲も険悪のまま。これで死ぬにはあまりにも未練が残りすぎる。そんなことを思い、また微かに涙が流れる。
「チッ……泣くなよ。」
俺が泣いてることを悟った天パは、めんどくさそうに刃物を持ち直す。
ガシャァン
ガラスが割れる音が家の奥から聞こえ、間髪入れずに複数の足音が聞こえ、何人かの男たちの罵詈雑言が聞こえる。幻聴かとも思ったが、家の奥から出てきた複数の男たちが、天パと葛城を取り押さえる。
「オラァッ葛城!手出しちまった……なぁ?」
「あ、えーと。おい!五月雨!こっちこい!」
葛城を取り押さえた男が五月雨という人物を呼び、そして俺の顔をもう一度見る。怪訝な顔をして、何かとんでもないミスをしたかのように焦り顔を浮かべる。
「あー?んだよ神本、ってこいつ誰。」
「おいおいおいやべえよ……女が逃げた。」
「あーなるほどね。よ!斎藤!」
五月雨という男は俺に向かって手を挙げながら笑顔で挨拶をする。が、俺は斎藤ではない。神本という男が俺の猿轡を外す。
「お、俺、斎藤じゃ――」
「よしっ!斎藤!帰るぞ!」
「へ?へ?」
「おい、五月雨マジか?」
「立てる?斎藤。」
「あ、はい。」
俺は傷む太ももを庇いながら立ち上がるが、痛みに負けて崩れそうになってしまう。
「おいおい。肩貸してやるよ。しゃあねえ。」
神本は意識がもうろうとしている俺の肩を組み、ゆっくりと歩きだす。
「葛城、曽根本。お前上に言っとけよ。ほかの組のモンに手出しましたってよ。」
「いや!そいつ一般人だろうが!?」
「パンピーもまずいに決まってんだろ。それにこいつは俺らの仲間だよ。」
「はぁ?後出しだろそんなの!?」
「うるせえな。神本、行くぞ。」
「はいよ。おい、斎藤、歩けるか?」
「いや、無理です。」
「は?え?」
神本に肩を貸してもらい、覚束ない足取りで家の玄関をくぐる。天パ――もとい曽根本と葛城が、俺を訝しむように睨んでいるのが見え、俺は意識を失った。