Episode60.絶対に許さないわ
ロサミリスがお風呂を楽しんだ後に、その事件は起きた。
ある程度タオルで拭いたあとに、夜着を着用して鏡台の前に座る。髪を乾かすのはニーナの仕事で、座って待っていればすぐにやって来るはず。なのに、ニーナが来る様子がなかった。
「ニーナ?」
ロサミリスは、風呂に入っている時だけは黒い手袋を外し、ニーナに預けている。
何故か分からないけれど、胸騒ぎがした。
「ロサミリスお嬢様!」
「っどうしたの!?」
脱衣所に勢いよく飛び込んできたのは、ニーナだった。
目は真っ赤に腫れ、腕からは真っ赤な血が流れている。
「申し訳ございません、お嬢様……!」
幸い腕から流れている傷は浅いから処置は簡単だったけれど、ニーナは過呼吸になりかけていた。
背中をさすってあげたかったけれど、手袋がないのでロサミリスはためらった。
「落ち着いてちょうだい。ゆっくり息を吐いて……吸って………」
ひとまず声掛け。
ニーナが落ち着いたのを見計らって、話を切り出した。
「何かあったの?」
「宿の外で、微かに悲鳴が聞こえたんです。お嬢様は湯あみの最中でしたし、近くに護衛のみなさんがいらっしゃったので、気になって一緒に外に出ました。そしたら、暗闇から突然誰かが襲ってきて……」
「襲われたの!?」
「お嬢様の、大事な手袋を奪われました……」
「なんですって……」
「視界を奪われてしまったので、顔は確認できなかったです。追いかけようにも、その時にはすでに……」
「いいのよ。……ニーナに怪我がなくて本当に良かった」
「ごめんなさいごめんなさい! 私がもっとしっかり手袋を持っていれば、もっと気を付けていれば……っ!」
ニーナが、ロサミリスの体を抱きしめる。
ニーナは知っているのだ。
黒い手袋がロサミリスにとってどれほど大切なものか。手袋がないと呪いを抑え込めない。黒い手袋をロサミリスが使い始めてから、ニーナの顔や身体にあまり触れないようにしていたことも、ニーナは知っている。
「お嬢様は何にも悪いことはしていないんです。お嬢様は、……私のお嬢様は美しく、気品に満ち溢れ、誰よりも優しいお嬢様なんです! なのに、あんまりです。どうしてお嬢様がこんな目に……っ!」
ニーナにとって、ロサミリスは初めて仕えたお嬢様だ。
先代侍女が年齢の為に現役を退いたあと、ニーナがロサミリスお嬢様の侍女として抜擢された。
嬉しかった。
ラティアーノ伯爵には恩義を感じている。雨風をしのげる寝所と食事を貰い、家族を養うのに十分な給金を貰っている。そんな、伯爵の大事な娘。ニーナから見て年齢が二つ下であるロサミリスお嬢様のことは、主人であり、妹みたいに大事に思っている。可愛くて、頑張り屋さんで、芯が強くて、諦めが悪い、大切なお嬢様。
(呪いなんて、信じたくなかった。でも、ロサミリスお嬢様の顔を見て、お嬢様の手に黒く光る模様を見て、ああ、本当にお嬢様には呪いがあるんだって……)
せめて、ロサミリスお嬢様が不安にならないようにしっかりしよう。
お嬢様の手と黒い手袋の秘密は誰にも明かしてはいけないから、お嬢様が湯あみをなさっている時は、預かった手袋を両手で握り締め、誰かがお嬢様に近づかないように、ニーナは細心の注意を払った。
なのに、このザマだ。
心配してあげるべき存在に、逆に心配されてしまい、ニーナは悔しくて泣いていた。
そんなニーナの想いを、ロサミリスは分かっていた。ニーナの体に触れない程度に腕を回して、抱きしめ返す。「大丈夫よ」と声をかければ、ニーナの涙は収まった。
「今はまだ、手袋がなくても大丈夫よ。明日、テオドラ先生に相談するわ。新しい手袋を作って貰えばいい話だし、わたくしの持ち合わせている情報があれば、呪いを消し去る方法を先生が見つけてくださるはずよ」
ロサミリスは唇を噛んだ。
生まれて初めて、こんなに腹立たしいと思ったことはない。
(わたくしの大事な侍女を泣かせた奴を、絶対に許さないわ)
羽織るものを着て、ロサミリスが脱衣所を出た瞬間──
「ロサ、待て」
「ジーク様!?」
腕を掴まれていた。
起きていたのかと、ロサミリスは目を見開く。
「焦るな」
「でも、早く行かなければ──」
「ここでロサが外に行くのは相手の思うつぼだ。それにそんな薄着で、髪が濡れたままの女性を、こんな夜遅く外に出せると思うか?」
言われて、ロサミリスは気付いた。
確かに今の恰好は、とても外に出られるような恰好ではない。
(あ…………手の甲……………見られた……)
ロサミリスの手にある、呪いを抑え込むための黒い魔法印。見た目が綺麗とは言い難い代物で、ジークには見られたくなかった。腕をがっちりと捕まえられているため、隠そうと思っても隠せない。彼にじっと見つめられることが耐えられなくて、ロサミリスは視線を外す。高ぶっていた感情も静まっていった。
「一瞬だけだが、ニーナが襲われる前に怪しい奴を見た。手袋を奪った奴はたぶんそいつだ」
「…………夜盗の類、でしょうか」
「違うな。金品を狙った盗賊の仕業なら、一人で乗り込んでこないだろう。手袋だけを盗んで逃げる物盗りなんていない。ロサを狙った犯行としか思えない」
「狙いはわたくし…………?」
「ああ。ロサはニーナの傍にいてやれ、俺が追いかける」
そう言うとジークは、ロサミリスの体を引き寄せた。
続いて、指と指を絡ませる。
恋人同士がするような、手の繋ぎ方で。
呪いを怖がってなどいない、とでも言うかのような動きに、ロサミリスの鼓動が跳ねた。
「すぐに戻る」
耳もとで囁かれたとロサミリスが気付く頃には、ジークは二階の窓から外へと飛び出していた。
ジークが帰ってきたのは、それから30分後のことだった。
怪我した様子がなくてほっとするロサミリスだったけれど、ジークが握っていたものを見て、ハッとする。彼の手の中には、鋭利な刃物で切り裂かれたような、無惨な姿になった手袋があった。
「戦いになったのですか?」
「少しな。だが俺が魔法で応戦すると、相手がこの手袋を捨てて逃げ去っていった。元から、手袋を切り裂くだけの手はずだったのかもしれない。あるいは、宿から出てきたのがロサではなく俺だったから、作戦を切り替えたのか。いずれにしても、とても計画性のある動きだった」
「本当に夜盗の類ではなかったのですね…………」
「ああ。あと、男が妙なうわ言を話しているのが聞こえた」
「うわ言……?」
「『敬虔なる信徒に栄光あれ』──と」
「!」
敬虔なる信徒。
邪神ミラを崇拝する宗教組織として、何百年も昔に存在した。だが、国教であるシズール教を食いつぶすほどの勢力を伸ばしたこと、依存性のある薬の密売人、殺人鬼などの重犯罪者を抱え込んでいた事から、帝国から危険視され滅ぼされた組織の名前だ。
「ということは、コレもソニバーツの差し金という可能性が高くなってきたな」
「そんな……!」
「敬虔なる信徒といえば邪神。邪神と言えばこの間の帝都での宗教集会だ。それを指示したと思われる男がソニバーツ侯爵なら、必然的に今回の一件もヤツの指示ということになる」
口ぶりは冷静だけれど、ジークは相当に怒っている。
目に魔力が込められて薄っすらと輝いていた。
「あの男、なぜロサを狙うんだ…………」
「もしかしたら、コレかもしれません」
ロサミリスが示したのは、己の手だった。
〈腐敗〉の呪いは、神ミラが根源なのだ。
ジークは「認めたくない」と言いたげに、小さなため息を吐いていた。
「とにかく、ロサの手袋を作ってくれたというテオドラ先生のもとへ急ごう」




