Episode53.黒い手袋と呪い(ジーク視点)
「その黒い手袋は?」
ジークがその質問をしたのは、一か月間の領地周りから彼女が帰ってきてすぐのことだった。しっとりと濡れたような黒い髪を耳にかけ、見つかってしまいましたか、とも言いたげな表情で愛しい女性は笑う。
ロサミリスは己の手を労わる様に手を重ねた。
「たまには、このような色の手袋もよいものだと思ったしだいですわ。ふふっ、どうですか? 漆黒の手袋、なかなか良いと思いません?」
目を伏し目がちにしながら少しだけ目線を逸らすのは、彼女が何か隠している時の癖だ。ジークには分かる。
こういうとき、ジークが目をかけるのはロサミリスの侍女ニーナの様子だ。愛しの婚約者様は芯が強く、決して人に弱みを悟られまいとするので、本人を見るだけでは埒が明かない。彼女の侍女であるニーナは、常日頃から主人がどんな状態なのか知っている。ニーナはロサミリスほど動揺を隠せない性格だ。
(顔が暗い。視線が左右に動いている。やっぱりロサに何かあったな……)
気になるのは、ロサミリスの黒い手袋だ。
色が黒だから、という意味ではない。
上手く誤魔化しているようだが、手袋から魔力を感じる。
(何かを抑え込むための封印術か…………ロサが施したものではないな。まったく別の人間によって施されたもの。問題は、抑え込んでいるのは何か、か)
二人の様子を見ると、ロサミリス自身と侍女ニーナはソレが何か分かっている。
(まさか…………)
◇
「ロサミリス様の黒い手袋ですが、専門の魔導師に目視確認させたところ、ジーク様が睨んだ通り封印術が仕込まれておりました。おそらく呪いを封印するものだと推測できますが、魔法ならともかく、呪いに関する情報は今の時代に手に入る様なものではありません」
「焚書か」
「呪いは存在自体が噂や伝承の類です。正直、封印術で呪いを封じ込めることが出来るというのは、大学の研究論文でしか見ない話です。しかも古代魔法を核にしたもので、扱える者はごく少数。魔導学者ですら研究テーマにすることは稀でしょう。よほど物好きでもない限り」
その言葉を聞いて、ジークは背もたれに深く寄りかかった。
側近であり、物心つくころから執務関連の整理をしている彼を、ジークは深く信頼している。
おそらく、最悪の想定は当たっているだろう。
(ロサが何らかの呪いを宿している。ロサはそれを知っていて、俺に気取られないようにしているのか)
彼女のことだ。
心配かけないようにしているのだろうが、だとしたら少し悲しい。
(他人の事を言えた義理ではないが…………なかなかどうして、ロサは他人に頼ることを良しとしないな)
相談はおろか、困っている素振りすら見せない徹底ぶり。
ジークに気をくばり、心配をかけさせるような事はしない。将来の公爵夫人となることを考えれば、芯が強くしっかり者である彼女の気質は、手を叩いて歓迎されるものだろう。だがジークにとっては、素直に喜べるものではなかった。
頼られないということは、信用されていないということでは?
彼女に限ってそんなことはないだろうが、どうしてもそんな風に思えてしまう。彼女だけでなく、ジーク自身も他人に己の事を明かさない人間だったため、強く言える事ではないのだが──
愛した女性に頼られて、嬉しくない男がどこにいる? 少なくともジークは相談してほしかったし、甘えてほしい。周りからは冷たいだの何を考えているのか分からないと言われてきたが、ジークは好きな相手にはとことん尽くすし、頼られたいタイプだった。ただ表情には出ないから、冷たい男だと勘違いされやすいだけ。
(ロサ……)
ぴんと伸びた背筋が気高く、艶やかな夜色の髪が美しく、理不尽を嫌い、弱き者を見つけると手を伸ばさずにはいられない。凛とした雰囲気の裏側で、ときたまに見せる照れた顔が愛らしくて、笑顔を向けられると心が温かくなり、そして同時に、守ってあげたくなる。
「分かった。ありがとう、下がってくれ」
それから、お互いの日程の都合でまとまった時間が取れないまま、時が過ぎた。
(本当に、嫌なタイミングで勅令を受けたものだな……)
彼女と呪いの話をするタイミングを計っていたとき、突然フェルベット陛下からご下命がくだった。内容は、第四皇女リリアナの話し相手としてロサミリスを召し上げる、というもの。1か月間という限定であるものの、これでは彼女と話すことが出来ない。
皇宮にいるロサミリスから手紙が来た。
皇女や侍女たちと仲良くやっているという内容が、流麗な筆致で書かれていた。
安堵した。
あともう少しで期限の1ヵ月が過ぎようという頃合いに、フェルベッド陛下から呼び出しを受けた。
「突然呼び出したことを、まずは詫びよう。ジークフォルテン卿」
執務室の椅子に深く腰掛けながら、フェルベット陛下は穏やかな笑みを浮かべていた。
ジークは小さく頭を下げる。
「陛下がお呼びとあらば、駆け付けるのが公爵家の務め」
「その心意気はさすがと言うべきだね。ああそうだ、本題に入る前に礼を言わせてほしい。君の妻──ロサミリス夫人はよくやってくれている。リリアナが前向きに人と会話し、侍女と親睦を深めるのもまた重要なこと。ゆくゆくは皇女として公の場に立つのだから、彼女に任せて正解だった」
「……。陛下、まだ彼女は」
「知っている。式、まだ挙げてないんだろう? いつだ?」
「来年を見込んでおります」
「そうか。ぜひに招待状を送ってくれ、顔を出せるように調整しよう」
「ありがとうございます」
フェルベッド陛下は穏やかな人だ。
先代の皇帝、ゲオルグが苛烈な思想を持ち主であり、己の意見を聞かない者は切り捨てていたと聞いたことがあるが、息子のフェルベッドにはその気性が見られなかった。
「さて、本題に入ろう。今回君を呼び立てたのは他でもない、ジークフォルテン卿のその魔導の才能を見込んでのことだ」
ジークは魔導師ではない。
魔法の授業は帝国の義務教育の一貫のようなもので、魔導師に興味があるわけではない。
しかしながら、ジークには膨大過ぎる魔力と類い稀なる才能があった。
聖ロヴィニッシュ帝国は魔導の力でのし上がった巨大国家。軍事的、あるいは学術的にも、魔導の才能がある者は引く手あまたで、周りは放っておかない。事実ジークは、3年前にシェルアリノ領内で姿を現した災害級魔獣を単独討伐して以来、さまざまな機関から声をかけられている。騎士団、皇宮近衛隊、魔導協会、魔導大学の教授などなど。
それらすべて、丁重に断っていた。
魔導師としての大成には興味がない。
騎士団や皇宮近衛隊のような、大きな組織に所属する気もない。
ただロンディニア次期公爵として、領民のため、帝国のため、為すべきことを為すだけだ。
「加えて、騎士団や魔導協会のような組織に所属していない点も良いところさ」
「私に何をせよと、陛下はお命じになられますか」
空気が重くなった。
「呪いって、信じたことがあるかい?」
つい先日耳にした言葉に、ジークの眉間に皺が寄る。
「邪神ミラがこの世に産み落とした怒りと悲しみ──それが呪い。魔法ではない、未知の力。肉体が朽ち果てようとも、魂に染みついた呪いは残り続ける。輪廻転生しても、魂は生浄の楽園に向かう事はない。永遠に呪いによって蝕まれ続けるという。皇宮の書庫室の奥に保管されている、文献の一節さ」
「書庫室……」
「ちょうど12年前、とある一人の男によって書庫室の禁忌棚から本が盗み出された。大昔、我が帝国によってうち滅ぼされた反帝国主義の組織の経典、その原本」
「邪神を崇拝する不届きな連中ですね。帝国史でも有名な話です」
「盗んだのがその経典だけだったというのが、この話のミソでね」
「つまり、再び邪神を崇拝する組織が暗躍し始める、と?」
「ああ。この間の新聞は見たかい?」
「はい、帝都で大規模な宗教集会が開かれ、傷害事件が発生したのですよね」
宗派の名前は伏せられていたが、事件の全容は写真付きで新聞の大見出しに載っていた。
とても驚いた。
「彼らが動くとき、必ず帝国ではよくないことが起きる。未曽有の感染症の流行、洪水や大飢饉。おそらく邪神の御心に語り掛けることで、邪神が世界に多大な影響を与えると考えられている。私は影を使って、経典を盗んだ男を探し出し、突き止め、息の根を止めた。だが、そこに経典はなかった」
影、というのは皇帝だけが命令権を持つ裏組織だ。
表立ってできない汚れ仕事を背負い、帝国の秩序を守るのが彼らの仕事。
「『経典はラティアーノにあり』──この言葉をつぶやき、男は死んだ」
「!」
「ラティアーノ伯爵領に根城がある、という意味だと思っている。ジークフォルテン卿を呼んだ一番の理由がこれだ。なにかあれば協力を仰ぎたい、その擦り合わせの意味も兼ねて呼び出した」
「これはまた、あまり聞きたくない単語ですね」
「ラティアーノ伯爵とラティアーノ次期伯爵にはすでに話してある。なにか情報を掴んだら寄こしてもらうつもりだ」
「分かりました」
「それともう一つ」
「?」
「皇宮の書庫室、さらに書庫室の奥にある禁忌棚の入り口はそれぞれ二重の魔導認証だ。固有の魔力の波形を保有した人物でなければ者は立ち入れない」
「12年前、経典を盗み出すのを手伝った人物が皇宮内いると……?」
「ああ。しかも我が弟によると、今でも皇宮内に籍を置いている人物だそうだ」
「カルロス皇弟殿下ですか?」
「そうだ。そもそも邪神絡みを仕切っているのは、私ではなく弟のほうでね」
ジーク自身、カルロス皇弟と言葉を交わしたのは数回程度だ。
周りの人から「皇族なのに威厳がない」と言われていた人物だが、ジークはそう思わなかった。あれは自分の実力を隠しているタイプだ。おそらく優秀な兄に対してそれなりの弟を演じているに過ぎない。
「今日は私が出張ってしまったが、次からは弟から連絡がいくと思う。言い訳をさせてもらうと、公務が忙しくて弟に頼っているんだよ。いやはや、皇帝なのに情けない限りだ」
「そんなことはありません。御身あってこその帝国ですから」
「ありがとうジークフォルテン卿。では、この辺りで失礼させてもらうよ」
フェルベッド陛下は本当に公務で忙しいようで、早歩きで廊下を歩いていく。
ジークは敬礼のまま足音が遠ざかっていくのを確認し、背中が見えなくなったところで踵を返す。
(ロサが間借りしている部屋は向こうか……)
期限となる一か月は、明日。
自宅に帰って寝て起きれば、彼女は胸の中に帰って来るというのに。
一目だけでも、彼女の顔を見たくなった。
ジークは《黒蝶の姫君》の姿を探す。
中庭までやってきたところで、見知った声を聞いた。
(ロサの声と、男の声か…………?)
親しい雰囲気は感じられないが、誰か他の男がロサミリスと話している。
焦がれる気持ちがすぅっと消え去って、めらめらと嫉妬の炎が燃えあがるのを感じる。
(非常に不快だ)
顔をむすっとさせて、ジークはその場へ直行した。




