Episode47.はい、あーん
リリアナの部屋に通い出してからというもの、ロサミリスはリリアナに対して素直な気持ちで接していた。砂遊びやおいかけっこ、魔法を使った撃ち合いなど、できるだけ体を動かせるものを優先して実施した。
皇宮に住み込むようになった三日目の夕方には、全力で行った泥合戦のせいで汗まみれの泥まみれになった。あらかじめ用意してもらった仕切りの中で泥を落とし、湯船につかり、体を清めると、疲れ切ってしまったのかリリアナはさっさとベットに潜り込み、すやすやと寝息を立て始める。
可愛らしい寝顔を微笑ましい思いで見つめ、滑らかな髪を撫でる。
ベットから離れ、何か軽食を持ってこようと寝室から出ると、部屋の掃除を行う侍女と目が合った。
「…………リリアナ様はいかがなされましたか」
「お休みになりましたわ。今日は元気に遊びまわったので、お疲れになられたのでしょう」
「さようにございますか」
リリアナには複数人の傍付き侍女が仕えている。
そのなかで専属侍女と呼ばれる女性が、他の傍付きを統括する役割を担っている。専属侍女は他の傍付きより一段と身なりが煌びやかで、所作も洗練されている。皇族の専属侍女は侍女の花形とも言われ、一目置かれる存在だと聞き及んでいるのだけれど。
(この方、とても優秀な侍女だと思うけれど、なんか変ね。雰囲気にチクチクとした棘を感じるというか……)
皇族の専属侍女に抜擢されながらも、どこか、自分の身分に不満があるように感じる。
おそらく、彼女は第四皇女リリアナの専属侍女であることが嫌なのだ。
昨日もそうだった。
リリアナは朝から姿を眩ませ、彼女は苛々と辺りを探していたのだ。
『リリアナ皇女殿下。どこにいらっしゃるのですか、リリアナ皇女殿下! もういい加減、このベルベリーナを困らせるのはおやめください!』
『どうしたのですか?』
『あぁロサミリス様。急な思い付きでございます。毎度毎度、リリアナ皇女殿下は私たちを困らせるので、困ってしまいます。──どうぞ、ロサミリス様はこちらにいらっしゃってください。私が探してまいります』
彼女────ベルベリーナという20歳ほどの侍女は、丁寧な物腰を崩さず、たったか早足で部屋を飛び出した。
『いいえ。わたくしがリリアナ様を探してまいりますわ』
『……しかし、ロサミリス様にそんなことをさせては、私が上に怒られます』
『今のあなたの顔は、必要以上にリリアナ様を怖がらせてしまいます。疲れているのでしょう? 無理もありません、ここは“お友だち候補”たるわたくしに任せて、別のお仕事をなさってください』
『…………。承知いたしました。では、ロサミリス様にお任せいたします』
『ええ。大丈夫です、リリアナ様は遊び足りないだけですから。これはただのかくれんぼですもの』
そう言ったロサミリスに、ベルベリーナは口にこそ出さなかったが「信じられない」と言いたげな顔をしていた。侍女達に迷惑がかかることも考えず、なんてわがままなんだと、そう思っているのだろう。
けれどもロサミリスは、リリアナの行為をわがままだと思わない。
物心つくときには母子共に非難され、守ってくれる味方がほとんどいない。頼るべき父親も皇帝ゆえ、話しかける事すらままならなかったはずだ。唯一味方になってくれそうな、乳児期のリリアナの世話をしていた乳母も早くに亡くなっている。
リリアナは、愛に飢えている。
いまロサミリスが出来ることは、膝を折り、リリアナと視線を合わせ、傍で温かく見守ってあげること。
(本当なら、ベルベリーナさんのような専属侍女にこそやってほしいことなのよね)
さっさと自らの仕事に取り掛かるベルベリーナの背中を見送り、ロサミリスは息を吐く。
リリアナが好きそうな甘いトマトの乗った新鮮なサンドウィッチを貰い、バスケットに入れて部屋に戻る。寝室の扉には、ちょうどリリアナが眠そうな目を擦りながら立っている。お腹の虫も鳴っていた。
「わらわを置いていくのか……?」
「そんなことしませんわ。ほら、上着を羽織って。お外に行きますわよ」
不安げな表情を浮かべるリリアナの手を握る。柔らかくて小ぶりな手が、もう離したくないと言わんばかりに握り返してくる。
木陰に腰を掛け、バスケットの中から皇宮料理長お手製のサンドウィッチを出す。
リリアナは目を輝かせていた。
「はい。リリアナ様、あーん」
「あーん」
「美味しいですか?」
「ふ、ふん。ま、まぁまぁじゃな」
「ほっぺが落ちるくらいに美味しいだなんて、そんなことを仰っていただけるなんて、料理長も鼻が高いでしょうね。ではもうひと口。はい、あーん」
快く「あーん」を受け入れるリリアナを好ましく思っていると、リリアナがハッとした顔になった。
「わ、わらわは、いつの間にこんなおぬしと仲睦まじくなっていたのじゃ!?」
「あら。わたくしとの感動的な体験を忘れたとは言わせませんわよ。だいたいその台詞も、とろーんとした顔で『わらわを置いていくのか?』と言われた後に聞いても、嬉しい悲鳴にしか聞こえませんわ」
「でも……っ」
「先日、紅茶を飲んで泣いておられたでしょう? わたくしの淹れた紅茶に感動して涙を流したってことですわよね?」
すぐに目を擦って、涙を気取られないようにしていたけれども、間違いなくリリアナは泣いていた。
無理に聞き出すのも良くないと思い、その時は理由を聞かなかった。
「あ、あれは目にゴミが入っただけじゃ!」
「強情な皇女様ですこと。まあ、そんなツンデレなリリアナ様も好きですけれど」
顔を赤くしたリリアナが、ぷいっとそっぽ向く。
「リリアナ様はわたくしのことがお嫌いですか?」
「そんなことは言っておらん!」
フォークをさしだす。再び「あーん」と言えば、リリアナは素直に口を開けて、サンドウィッチを頬張った。
咀嚼して飲み込んだところで、リリアナは申し訳なさそうな声を出した。
「じゃが初日は、声をかけてくれるおぬしを無視した……」
「初めて会う令嬢と親しくしろというのも無理な話ですわ。リリアナ様はまだ10歳、多感な時期ですもの」
「虫を使っておぬしを追い返そうとした。今までの……お友だちという皮を被っただけの令嬢たちと、おぬしは違うかもしれないと思っていたのに。すまなかったと思っている」
「こうやって謝ってくださった、それだけで充分ですわ。追いかけっこや泥合戦、かくれんぼはどうでしたか?」
「……とっても楽しかった」
リリアナの顔に、年相応の笑顔が咲いた。
「ふふ。では初日に吹っ飛ばした近衛騎士の方には後で謝りにいきましょう」
「え……」
「悪いと思っているのでしょう?」
リリアナは最初もじもじと忙しなく辺りを見渡していたけれど、やがて意を決したように深く頷いた。
「わかった……」
「リリアナ様は本当に素直でいい子ですわね」
「いい子なものか」
「いいえ、いい子です。もしかしてご自分を悪いと思っていらっしゃいますか?」
「周りからはそう思われている。知っているじゃろう、わらわには信用がない。当たり前じゃな、今までずっと誰も信用せず、物を投げたり魔法で追っ払ったりしたんじゃ。不甲斐ない皇女と思われて、当然じゃろう」
「リリアナ様はどうしたいですか?」
「どうって」
「彼女たちと仲良くしたいですか?」
リリアナは「分からぬ」と首を振った。
「昔、侍女に嫌な事を言われたりした…………バカにされるのは嫌じゃ、母上の事を平民だと蔑まれるのは嫌じゃ。でもこのまま……このまま何もできず、部屋に籠って、やって来る人間を魔法で追い返すだけの、震えるだけの皇女でいるのは、もっと嫌じゃ」
小さな拳を作っていた手が、震えていた。
俯いたリリアナの瞳から、ぽたぽたと涙が零れだす。
「このような有様では、亡くなった母上に胸を張れぬ」
柔らかな薄桃色の髪を撫でると、リリアナは顔をあげた。
濡れた白金の瞳に、強い決意が宿っている。
怖がらせないように、ロサミリスは小さくて勇敢な体を抱きしめた。
「では行動に移しましょう。リリアナ様はもう、一人ではないのですから」
ロサミリスが頬に両手を添えると、たっぷりの時間をかけてから、リリアナは力強く頷いてみせた。




