Episode23.覚悟を決めますわ
「本当にごめんなさい。リサさん門限あるのに、私のせいでこんな遅い時間まで……」
「セロース先輩のその謝罪、二十四回目ですよ。わたくしが自分で、勝手に、決めた事です。セロース先輩には何も落ち度はありませんわ、謝るのをやめていただけませんか? ……あと泣きすぎです、ハンカチが鼻水まみれですわよ」
「うぅうぅ私が先輩なのに情けないです……」
羽ペンを動かしながら鼻をすすり続けているセロース。
銀白翼騎士団の上層部向けに提出する書類がインクまみれになって、早数時間。晩餐に適した時間はとうに過ぎ、ロサミリスは人生で初めて深夜まで仕事をした。
(てっきりわたくしとセロース先輩だけだと思っていたのに、意外と残業している方はいらっしゃるのね)
いくら仕事量が多い事務部でも、日付が変わる二時間前には誰もいないと思っていた。
エルダは仕事場でするのが嫌だからと言って帰ったけれど、無言で仕事をしている人が部署長も含めて六人いる。みな疲れ切った顔をしていて、顔に生気がない。きっと、ロサミリスがやって来る以前から長時間労働をしていたのだろう。
そんなロサミリスの視線に気づいたのか、セロースは視線を書類に落として笑った。
「気付きました? こんな遅くまで残業をしている方は、みなさん私みたいな平民出自の方なんです」
「なぜ?」
「エルダさんが私に仕事を任せているのと同じように、他の貴族の方もやっているんです。でも、私もみなさんも、貴族の方に逆らったらどんな仕打ちがあるか分からないから、従うしかないんですよ」
(貴族とそうでない人が集まると、どうしても身分差が壁になる。……わたくしも四度目と五度目の時は平民だったから、貴族の傲慢さは嫌と言うほど知っているわ)
改めて残っている彼らを見ると、視線を逸らされた。
気弱で頼りない五十代半ばの部署長も、貴族に対して諦めた思いを持つ一人なのだろう。インクがこぼれてセロースがエルダに難癖をつけられたときも、部署長は他人のフリをして助けてくれなかった。部署長だけではない。周りの職員だってそうだ。
けれど、ロサミリスに彼らを責める資格はない。
自衛策として他人のフリをするのは仕方のないこと。
関わってこなければ彼らは傷つかないのだから、こちらとて都合が良い。
「エルダさんに真正面から立ち向かったのは、リサさんだけなんですよ。だから本当に嬉しかったんです。……心のどこかで、リサさんも貴族だからきっと平民を下に見ているんだろうなって。こんないい子なのに、貴族ってだけで偏見を持ってました。……ごめんなさい」
「仕方ない事ですわ、セロース先輩。事実、貴族っていう生まれ持った特権階級を驕りに思う人は多いです。わたくしもよく、見てきましたから」
たとえば夜会で。
自分よりも身分が上の人間にはヘコヘコするくせに、相手が給仕係と分かれば横柄な態度を取る婦人もいる。そんなの日常茶飯事で、いちいち嚙みつくとこちらの心が保たない。無視することが自衛策となっていた。
「ひどい事だと思うわ。貴族を代表して、というのはおこがましいかもしれませんが、わたくしから謝らせてくださいませ。
──本当に、ごめんなさい」
深々と頭を下げると、慌てたようにセロースが立ち上がる。椅子がかたんと倒れる音がした。
「いいんですいいんです! 今日、貴族の方もリサさんみたいに優しい人がいるんだって事が分かっただけで十分なんです! むしろリサさんが謝る事なんてないんですから!!」
「ありがとう。……先輩、とても優しいですね」
「や、優しいなんてそんな……っ」
ロサミリスが小さく微笑むと、セロースは頬を赤く染めた。
大げさに手を振って否定するところなんて、本当に可愛い方だと思う。綺麗な金髪で、目だって大きい。目下に隈さえなければ、相当モテるだろう。
「本当にありがとうございます。リサさんがあの場を収めてくれなかったら、きっと……エルダさんはその場でルークスの援助を断ち切っていたでしょう……」
「弟さん、ですか?」
「はい……」
ずっと気にはなっていた。
自らエルダに跪いて許しを乞うた時も、鬼気迫るものがあった。
「弟……ルークスは、一年前に魔獣に襲われて重傷を負いました。帝都の医療技術があれば治せるものだったんですけど、治療費が高額で……。弟と二人暮らしで、町で畑仕事をしているような小さな農家なんですよ。とてもルークスの治療費を払っていけるような家じゃなくて……」
「それを、もしかしてエルダ先輩が?」
セロースは、ゆっくり頷いた。
羽ペンが震えるほど、強い力で握っている。
「ここの事務部に就職が決まって、一か月くらい経った後でした。どこからそんな情報を仕入れたのか分からないんですけど、弟の事を聞いて……自分の仕事を手伝ってくれたら援助してあげるって言われたんです」
帝都の医療技術は高度だが、どこか上流階級向けだ。
魔法を使用して治療する治癒術師も存在する。
おかげで、貴族なら支払える額でも平民だとそうもいかない。
可愛い弟を助けるためなら、たとえどんな無茶難題を押し付けられても、セロースは従うだろう。彼女はそれくらいやってのける、意志の強い人だ。ここにきて、それはよく分かった。
「弟さんを襲った魔獣ってもしかして、虎熊? それとも鬼猿でしょうか?」
人を襲ったという報告が多いのはそれくらいだから、どちらかだと思ったのだけれど。
セロースは首を横に振った。
「とても珍しい魔獣だと後で聞きました。大きくて、黒い鱗がたくさん生えていて、騎士の小隊が束になってかかっても、敵わないらしいです」
「そんな魔獣が……?」
「はい。A級の魔獣……名前は確か……暗黒竜です。弟は山へ行くって出かけた時に、その魔獣に襲われました。外傷はないんですが、生命力を吸い取られてしまって一週間は昏睡状態、生死の境をさ迷ったんです。今も暗黒竜の瘴気を浴びたせいで、下半身が上手く動きません……」
「A級……」
目撃例自体がほとんどない魔獣が人を襲ったのも驚きだったけれど、それよりも驚いたことがあった。
「一週間も昏睡状態って……ねぇ、もしかしてその弟さんは、そのとき悪夢を見ませんでした……?」
声の震えを抑えながら聞くと、セロースは驚いたように目を見開いた。
「リサさんって本当に物知りなんですね。そうなんです、昏睡状態のとき悪夢を見たって言ってました。お医者様は、瘴気にあてられたせいだろうって……」
(六度目の婚約者様と同じだわ……)
当時、その場にはいなかったけれど、彼が魔獣に襲われ、悪夢にうなされている事が伝書鳩で知らされた。彼はすぐに目を覚ましたけれども、療養生活が長く続きそうだと続けて手紙が届いた。
ジークを襲う可能性のある魔獣について、悪夢を見せたと報告のあるものはすでに調べてある。ただその中に、生死の境をさ迷うほどの致命傷を与えそうな魔獣は見つからなかった。
(A級の魔獣・暗黒竜……。もしかして、この魔獣がジーク様を襲うっていうの……?)
考えれば考えるほど、そんな気がしてならなかった。
それに確か、セロースの出身は帝国西部にあるローフェン地方。
シェルアリノ騎士公爵領だ。
(オルフェン様に協力を仰ごうかしら……)
ロサミリスは、今まで誰一人として自分の前世の事を話したことがない。
兄にすら、前世を匂わせることは言ったことがなかった。
前世の記憶なんて信じてもらえると思わないし、たとえ信じてもらえたとしても、前世と似たような運命に陥り、ジークが危険な目に遭うかもしれないと言ったところで、戸惑わせるだけ。
(ジーク様に護衛を増やすように進言したことはあるけれど、自分よりもわたくしの護衛を増やした方が良いって言って、取り入れてくれなかった。いつ、どんな状況で魔獣の襲来があるか分からない以上、危険な魔獣を討伐して地道に不確実性を減らすしかない……)
頼みの綱となるのは、ジークの親友であるオルフェン・アル・シェルアリノ次期騎士公爵しかいない。魔獣討伐の精鋭『第七師団』に属する彼ならば、暗黒竜の情報だって持っているだろうし、すでに討伐のために動いているかもしれない。
ただこの進言には、ロサミリスが抱えている事情を話す必要があった。
(……あの場でオルフェン様を拒否して以来、一度も会ってない。嫌われていても文句は言えないけれど、覚悟を決めるしかないわね)
都合のいい女だと罵られても構わない。
そもそも信じてくれるかも分からない。
信憑性のない話だと突き放されるかもしれない。
「リサさん、大丈夫ですか?」
相当怖い顔をしていたのか、セロースが心配げにロサミリスの顔を見ていた。
ほっぺたをつまみ、表情を柔らかくする。
「嫌な気持ちにしちゃいました? だったらごめんなさい」
「いいえ。お辛いのはセロース先輩なのに、こちらこそ申し訳ありません。わたくしは大丈夫ですわ」
「本当に……?」
「ええ。……さあ、早いところ仕上げてやってしまいましょう?」
弱音なんて吐いてられない。
手がかりが見つかっただけで幸福だと思おう。
(ジーク様を運命から救うのよ。────運命に抗い続ける事が、わたくしの目標なのだから)
資料に目を落としたそのとき、セロースの息を呑んだ音がした。
「ど、どうしてこんな時間にオルフェン様が……!?」
白い騎士服で、壮麗な騎士剣を腰に帯剣している。
燃えるような赤銅色の髪が特徴的な美青年は、手に持った袋を掲げながら極上の笑顔を見せていた。
「二人とも、残業お疲れ様」




