準備
郊外にあるこの家は周りを森に囲まれた丘の上に建っていた。周りを高い塀で囲まれているが、ここ2階の窓からは塀や木々を抜け、遠く海が望める。
私は白の肌着姿で窓辺の椅子に腰掛けてストーブに当たっていた。庭では昨晩降り積もった雪を使用人たちが雪かきしている。
「みんな寒いのに大変ね…」
「お嬢様こそなんて格好で。お身体に触りますよ」
メイドの一人、ティナがブランケットを掛けてくれた。
「いつまでも腑抜けてないで準備しましょう」
「はぁ…わたしやっぱり出なくちゃダメかな? ロイドのためのパーティーなんだし、私は出なくても」
「リリィ! そんなこと出来るわけないでしょ! 妹が誕生日会に出ないなんてありえなでしょ?! さぁさっさと着替える! この赤いのなんてどう?」
忙しなくドレスやアクセサリーを選んでいるもう一人のメイド、アリスが赤いドレスを私に当てがってくる。アリスは気兼ねない。小さい頃から私の使用人として、それこそ姉妹の様に一緒にいた。もちろん他の家族がいる時は私のことをリリィと呼び捨てにはしないが。二人のとき、ティナといる時はいつもこうだ。私もそれが心地良いのでその方がいい。気を使われるのは好きではない。好きでは無いのだが、家柄がそうはさせてくれない。
(リナルディ)それが私の姓である。ただのリリィ・リナルディなら問題は無い。
(リナルディファミリー)のリリィなのが問題なのだ。
父の営む「リナルディ海運会社」の表の顔は貿易会社である。貿易は確かにしている。この港町であるコッリーナブルでは多くの人間が水産業や貿易業を生業としている。魚介類が主軸であり、また周りの山々で栽培された作物、スパイスなどがこの街の経済を潤している。「リナルディ海運会社」も同様だ。ただ、海産物や農作物だけでは無い。武器の密輸、不法入国者の斡旋など黒い交際が収入の大きな割合を占めているはずだ。もちろんシマからの上納金や、私が知らない、知りたくもない収入源も沢山あることだろう。父は詳しいことは話したがらない。まぁそれも当たり前か。
(リナルディファミリー)。100名以上の従業員(いや、この場合は構成員だろうか)を抱える、文字通りのファミリー。この街有数のマフィアなのである。
「ちょっと聞いてるの? どう? これ」
「え? ああ、うん。良いんじゃないかな」
「リリィが着るのよ? 私じゃなくて。お偉方も沢山来るのだからしゃんとしてよ」
「もう、分かってるよぉ」
仕方なく重い腰を上げ、ドレスに袖を通す。
今日はロイドの18歳の誕生日だ。毎年誕生日を客人を呼んだパーティーで盛大に祝うことはしないのだが、今年は特別だ。成人は20歳なのだが、うちのファミリー(他のファミリーではどうなのか知らないが)では18歳は一人の大人の男として認められる年齢なのである。それがマフィアにとって何を意味するのか、分からないほど子供ではない。1構成員として認められ、仕事を与えられると言うことだ。兄はマフィアに誇りを持っている。きっとこの日をずっと待っていたことだろう。私は嫌なのだ。優しい兄が悪事に手を染めることになるのが。
家族のことは愛している。父も母も兄も私を愛していてくれている。それは肌で感じる。アリスもティナも、ファミリーの幹部たちも私には良くしてくれる。
ただこの幸せな生活の根底が、どす黒い金や血の上に成り立っていると思うと悪寒がする。普通の家庭だったらどれだけ良かっただろうと、考えない日はなかった。
「よくお似合いで」
ティナが微笑む。
「そう? やっぱイマイチね。こっちはどうかかしら」
「アリスが選んだのに…また着替えるの?」
「いいから文句言わないの」
アリスはもう一着、白いフリルのドレスを手渡してくる。パーティーの時は決まってアリスの着せ替え人形になるのが習わしだ。困ったものであるが、こうして二人のメイドといる時間は心安らかになれる。
「私は赤い方がいいと思います。真っ赤で血の色みたいでしょ。ふふ」
ティナもアリスほどでは無いが、私とは打ち解けている。本心なのか何なのかティナは時々物騒なことを言う。柔和な笑みとメイド服のせいで冗談にしか聞こえないのでいつも笑ってしまうが。美人で気立も良い。なんでこんな所で働いているのだろう。幾らでも貰い手が居そうなものなのに。
「ふふ、ならアリスの言う通りこっちの白いのにするね」
「まぁ残念」
「ティナさん怖いよ! 縁起悪いこと言わないで!」
ティナの手伝いで白いドレスに袖を通してみる。鏡の前に立ってクルリと回る。確かにいい感じ。
「うん。これにしよう」
「そうだね。よく似合ってるよ」
「はい。よくお似合いで。お嬢様はお綺麗ですからなんでも似合いますね。赤の方が良かったですけど」
「ティナさん!」
「ふふ」
「…もう! よし次はアクセサリーね。この真珠のはどうかな?」
二人と笑い合う。幸せだと感じる。でもその後すぐにそれは影を落として私に覆い被さってくる。笑いながらそんなことを考えていた。
「うん。これでオッケー。どこに出しても恥ずかしくないわ」
アリスは満足そうな顔をしている。
「ありがと。もういい?」
「良いわよ!」
着せ替え人形になるのにすっかり疲れて椅子に座り込むと声が聞こえた。
「アリスはせっかちね」
「奥様! おはようございます」
部屋の入り口に立っている母に向かってアリスとティナが頭を下げる。
「パーティーは昼過ぎからよ? 随分と支度が早いのね」
「だって奥様。リリィ、、、リリィ様が直前に準備を始めたら、それこそパーティーが始まってもきっとまだ肌着姿のままですよ! 事前に何を着るか選んでおかないと!」
「ふふ、それもそうね。ありがとねアリス、ティナ。世話の掛かる娘で」
「そんな、滅相も御座いません」
答えたのはティナだ。アリスはにこやかにしている。アリスめ。その通りだと思っているな。
「どれ、私の天使を見せて頂戴」
「母さん、天使なんてやめてよ。いつまでも子ども扱いして。恥ずかしいよ」
苦笑しながら返す。
「親にとってはいくつになっても子どもは子どもなのよ。さぁほら」
仕方なく立ち上がり、母の前でくるりと回る。金色の髪もそれにならう。
「すごく綺麗よ。リリィ。ふふふ、私の若い頃そっくり」
「母さんは今でもすごく綺麗じゃない」
「親にお世辞なんていらないわよ」
母は困った様に笑ったが、本心から言った事だった。母は今年で45歳になるが、子どもの私が贔屓目に見てもそうは見えない。街に一緒に買い物に行った時は、若い男性に声をかけられる事もしばしばだ。もちろんリナルディの名を名乗ると大抵はすっ飛んで逃げて行くが…。
私の自慢の金髪も母譲りだ。美しく優しい母は私の誇りである。
それがなぜ、マフィアのドンの妻なのだろう。私はどうしても気になって聞いてしまった。聞くべきかどうかは分からなかったが。
「…母さん」
「どうしたの? 沈んだ顔して?」
私は言い淀む。
「………母さんはいいの? …ロイドは、もう18歳」
母に手で制止された。
「悪いのだけれどアリス、ティナ、外してもらえる?」
二人は軽く頭を下げ部屋から出ていく。母はそれを見送ると、私の肩をだき、二人でベッドに腰掛けた。私は続けた。
「ロイドは、仕事を、父さんの仕事を、手伝うようになるんでしょ? そうなって母さんは…何も思わないの?」
「そうね…、何も思わない事なんてないわ。ただ…」
「ただ?」
「あの人を、リベルトを愛した時に、決めたのよ。この人を支えると。後継者を産むことも。私にはその責任があった」
「…そんな責任のためにロイドを産んだっていうの?!」
愕然とした。母にとっての子どもは、私たちはそんなモノなのかと。自分の存在が希薄になっていくような喪失感を覚えた。気づくと自然と涙が溢れていた。
「違うのよリリィ。違うの」
母は私を抱きしめた。
「ロイドが、あなた達が生まれた時、もう死んでも構わないと思うほど幸せだった。責任なんてこれっぽっちも頭にはなかった。何を失っても、この子達だけは守ると誓ったわ」
「…じゃあ、なんで、ロイドを危険な仕事につかせるの。何かあってからじゃ…」
「私だって心配よ。本当はマフィアなんてやらせたくない。普通の仕事について、普通の家庭を作って欲しい。けどこれはどうにもならないことなの。ロイドは覚悟を決めている。自らの意思でそうしたいと願ってる。マフィアの家に生まれた性なのかしら。止めても無駄だった」
「…止めたの?」
「父さんには内緒よ」
母は笑ったが、それと同時に涙がこぼれ落ちていた。私をさらに強く抱きしめ、頭にキスをした。
「リリィ、愛してるわ。だから、せめてあなただけでも普通の幸せを手に入れて」
「…うん」
「ごめんなさいねリリィ…ごめんなさい」
母は何度も謝った。
母の涙が私の頬を伝って流れた。それはとても温かかった。
○パーティーの始まり
リナルディ家の一階は人でごった返していた。いつもは家族四人と使用人が十人ほど居ても広いくらいなのだが、今日は違った。ざっと見ただけで100人以上はいるだろうか。テラスや庭にも人が溢れている。皆ドレスやスーツ姿で、グラス片手に食べ物を摘んだり、談笑していたりと騒がしい。給仕も忙しなく働いている。とにかくすごい活気である。ホールの簡易舞台ではバンドが陽気な曲を奏でていて、それに合わせ踊る人もいた。
ロイドと母は、挨拶周りをしているらしい。
階段から降りてこの光景を目の当たりにして眩暈を覚えた。元々人が沢山いるところは好きではない。だが、「今日だけの我慢だ」そう自分に言い聞かせて笑顔を作り、皆の前に立った。
「みんな! リリィ嬢のお出ましだ!」
誰かが叫んだせいで皆が一斉にこっちを向いた。少し笑顔が引き攣る。
「本当にお綺麗ね」
「お人形さんみたい」
「お母様に似てお美しい」
皆が口々に感嘆の声を上げた。これはまぁ…悪くはない。笑顔と言うより少しにやけ顔になってしまったかもしれない。いけないいけない。今日はロイドの誕生日。ロイドに恥をかかせるようなことはするまい。気を持ち直して、笑顔を作り直す。
「今日は皆様、兄の為にお集まり頂いてありがとう御座います。ささやかなもてなしですが時間の許す限り楽しんでいってくださいね」
「可愛い妹がこう言ってる!」
皆が笑顔でそれに答えた。
「皆さん、楽しんでくださいね!」
「「「おめでとう!」」」
皆がグラスを掲げた。
よし! 挨拶はこんなものだろう。引き返そうか思って振り向こうとしたが腕を掴まれた。
「っな!」
「お嬢様? どちらへ?」
怖いくらいの作り笑顔でそう言ったのはローゼだった。女性は大抵ドレス姿なのに彼女はダークグレーのスーツを着ていた。ローゼはいつもそうだ。
「あなたには関係ないでしょう。ローゼ」
私も作り笑顔で応戦する。
「いいえ関係ありますとも。今日はロイド様の誕生日会です。これは組織にとっても重要な会なのですよ? しっかり一人一人に挨拶して回ってください。ロイド様に恥をかかせないでくださいね。リリィ様の恥はロイド様の恥、ロイド様の恥は組の恥でもあるのですよ、リリィ様」
ローゼはおっかない。22歳と若くして父の秘書を任され組織に属しているのも頷ける。誰にも物おじしないで自分の意見を言える人間である。それが父であっても。父に気に入られている要因の一つがそれだ。他は仕事ができるのと、あとはきっと美人だからだ。多分。
私はローゼが少し苦手である。背が高いので会話する時、首が痛くなるし…。私が適当な挨拶だけでこの場を去ろうとしていると察知する感の良さも可愛くない。
「はぁ…」
大きなため息が出てしまった。
「こら。リリィ様。淑女としてなっていませんよ」
「わっかりましたぁ」
「リリィ様?」
やはりローゼは笑顔が怖い。
「…大変わかりましたでございますよ。ローゼ。はぁ…」
仕方なく社交辞令スマイルに顔を作り直した。
「今日は兄の為にありがとうございます。」「いえいえ、そんな、ありがとうございます。」「こんにちは、今日は兄の為に…」
とにかく目が合う人目が合う人に挨拶して回った。
一人、若いが高そうなスーツを着た青年が取り巻きを数人連れて声をかけてきた。
「こんにちはリリィ」
そう言っていきなり私の手を取り挙げ、甲に口付けをした。
「こんにちは…えっと」
「カルロ様です。ファルコーネファミリーの。ドン・ファルコーネの御子息です」
父の側に居なくて良いのだろうか、横にずっとくっついて来ているローゼが耳打ちする。
世事に疎い私でもファルコーネの名は知っている。この街コッリーナブルにおいて、「リナルディ」「ファルコーネ」「アルディーティ」はマフィアの三大巨頭である。一番力があるのはアルディーティらしいと以前アリスに聞いたことがある。だが、どこがどことのファミリーとも争わず、絶妙なパワーバランスを維持しているのは不思議である。ファミリー同士で何かしら、秘密の会談や、秘密協定があるのではないかともアリスは言っていた。アリスは噂好きだ。
「さすがドン・リナルディの噂の美人秘書! 僕のこと知ってるんだ。仕事が出来るってのは本当みたいだね! うちに欲しいくらいだよ。おっと、そんな話じゃない。リリィ、カルロ・ファルコーネです。以後お見知り置きを」
恭しく、妙にわざとらしく頭を下げた。
「これはカルロ様、ご丁寧に。今日は兄の為に」
「ロイドのためじゃないさ。それは建前かな。君だよ」
「はい?」
「噂に違わぬ美人だね。君に一目会いたくてね」
カルロは満面の笑みで言った。
「は、はぁ。ありがとうございます…」
「ははは、謙遜しないところもいいね。気に入ったよ!」
なんなんだこの男は。あまりにも馴れ馴れしい。私にこういった態度を取る人間は珍しい。珍しいがとても嬉しいといった感情は出てこない。むしろ勘に触る。
「お互いのファミリーの為にも仲良くしようじゃないか。僕らの未来に乾杯!」
カルロが私のグラスにグラスを当て、チンと音を立てた。呆気に取られグラスを上げる暇すらなかった。
「あ、あの、カルロ様、ファミリーのためとはどういった?」
「そのままの意味さ。僕らの未来が両ファミリーの未来でもあるし、はたまたこの街の未来でもある。そうだろ? だからこそ僕らにはその責任を果たす義務があるとは思わないかい?」
「…はぁ」
カルロが耳打ちしてくる。
「ここだけの話、アルディーティの連中はあんまし好きじゃないんだ。お堅いって言うかさ。可愛い女の子もいないしね。ははは」
この男は何を言っているのだろう? 言葉が出てこない。
「…リリィ様、ドン・リナルディが、お父様がお呼びみたいです。行きましょう。それではカルロ様失礼いたします」
ローゼが遠くの誰かに手を挙げ、頷き、そう言った。
「それは残念。それじゃあリリィまたね。またすぐ会えるさ」
カルロは踵を返すと、人混みに消えていった。
「父さんが呼んでる? なんの用かな?」
「嘘です。芝居ですよ」
「え。嘘? なん…」
あぁ、そうか。ローゼは私に気を利かせて、カルロを追っ払ってくれたのか。意外と優しいところもあるのだな。
「そう。…ありがと」
「いえ。しかしカルロ様にはお気を付け下さい」
「何故?」
「…あまり良い噂は聞きません。街ではカタギ相手でも好き勝手やっているとか、女性関係の話も絶えませんし。あぁは言っていましたが腹の底はどうだか…」
「…なるほど」
「それにしても、あれは新手のプロポーズでしょうか? ムードのカケラもありませんね」
「…え!? なに! あれってそういう事だったの?! 全然わからないよ!」
「プロポーズじゃないにしろ、目を掛けている。といった意思表示でしょうか? 察しが悪いですね。リリィ様は」
「あんなの…あんなのごめんだよ。ありえない!」
「同感ですね。ふふ」
ローゼが少しだけ笑った。いつもと違う、自然に笑った顔はとても綺麗だった。もっと笑えば良いのに。見ているとこちらも笑顔になる。そんな笑顔だった。
「けど、ローゼからムードなんて言葉が出るとは…どんなプロポーズがお好みで?」
「…調子に乗らないでくださいね?」
いつもの仏頂面に戻ってしまった。残念。
————しかし、プロポーズか。あるのだろうかそんなことが。その次に浮かんだ言葉は、
(政略結婚)
一気に気が重くなる。ドンの娘だ。そういったこともないとは言い切れないのではないか?
普通の恋愛すら私には許されないのだろうか。まぁ、良い相手が居るわけではないのだが…
いや、今はよそう。そんなあるか分からない未来に気を揉んでいられる程暇じゃない。考えても仕方ないことだ。今はロイドや家族の事で手一杯だ。
どちらにせよ相手がカルロなのは絶対にごめんだ。死んでもごめんだ。
一通りの挨拶を済ませ、ぐったりしてしまった。中には政治家や他のファミリーの人間もいた。一人一人粗相のない様に丁寧に挨拶するのはとても疲れる。一生分の気を使い果たした感覚だ。ドサっとホールの隅の椅子に座り込んだ。カラカラの喉にグラスのジュースを一気に流し込む。
ローゼは…いつの間にか姿が見えない。父の仕事の手伝いだろうか。まぁいい。これでやっと一息つける。そう思ったのも束の間。
「綺麗なお嬢さんが一人で物憂げな表情を浮かべている。絵になるね」
はぁ…今度は一体何処の輩だろう。嫌になりながらも振り向くと一気に気が晴れた。
「ディエゴ叔父さん!」
椅子から立ち上がり、叔父さんに抱きつく。グラスを空にしておいて良かった。叔父さんにジュースをかけずに済んだ。
「ははは、苦しいよ! 久しぶりだなリリィ元気だったか?」
「はい! それなりに!」
「はは、それなりか。結構結構」
ディエゴ叔父さんは父の弟である。16も歳が離れているので、父より大分若い。小さい頃からよく遊んでもらっていたし、ファミリーには属していないので家族のことをよく相談していた。職を転々として身内の評判はよろしくないのが玉に瑕だが、ここ最近は仕事もおちついたのか顔を見るのは久しぶりだった。
「仕事の方は? 最近忙しいって聞いたよ? 今日は来ないのかと思ってた」
「ロイドの晴れ舞台でもある。来ないわけないさ。可愛い姪にも会いたかったしな」
「ありがと!」
もう一度叔父を抱きしめた。
「私もいるのだけれど?」
そう言ったのは、紺色のドレス着た女性。叔父さんの妻のジルダ叔母様だった。サッと叔父さんから離れ、お辞儀をする。
「ごめんなさい。ジルダ叔母様。ご挨拶が遅れて。今日はようこそおいで下さいました」
「まぁ…いいわ。挨拶ぐらい言わないでもするものだけど」
「はい。失礼しました…」
ジルダ叔母様は叔父さんと違って私に厳しい。何かした覚えはないが、気に入られてはいない。いつもこんな調子で会うたび小言を言われる。もう慣れてきてもいるのだが、逆らわない方がいい。叔父さんに叔母様のヒステリック具合はよく聞かされていた。
「まぁまぁ祝いの席だ。そのくらいにして」
きつい目で叔母様は叔父さんを睨んだ。なんておっかない。叔父さんが不憫に思えてくる。
「…ははは。そうだリリィ、リベルトに挨拶をしたいんだけど姿が見えない。どこにいるかわかるかい?」
「父さん? 部屋にいないなら仕事部屋じゃないかな? 私も一緒に探すよ。お客さんの相手はもううんざりで」
「そうか。ありがとう。助かるよ」
人でごった返していたホールを三人で後にする。
○接見
「どうかお願い致します。ドン・リナルディ。息子が今回の選挙で当選すれば、必ずや、ドン・リナルディのお力にもなれるはずです」
部屋の中、一人の男が頭を垂れていた。その相手、ドン・リナルディことリベルト・リナルディは大きな革張りの椅子に腰掛け、顎髭を撫でて虚空を見つめていた。
アンティーク調で統一された家具が並ぶ部屋は日が差し込んでいるものの薄暗い。男とリベルトの間にあるデスクにはランプが一つ灯っている。何も言わないリベルトに男は続ける。
「ライバルであるタランティーノ氏を選挙に出られなくしてほしいのです。彼はデタラメなスキャンダルを民衆に流布して息子を侮辱しています。このままでは選挙どころか、街を表立って歩く事すら叶わなくなります! 私の息子は街の人々の為を想い、誠実に仕事をしているのにです! こんな屈辱は耐えられない!」
男は震える手で、握り拳を膝に打ちつけた。
「…では具体的にどうしてほしいのですか? モリーノ氏」
リベルトは尚も顎髭を撫でながら、モリーノを見やる。
「………それは」
「それは?」
「………こ、ころ、殺すとか…」
「はっはっはっはっは!」
突然大声で笑い出したリベルトにモリーノは椅子の上でビクッとして飛び跳ねる。
「はっはっは、これは傑作だ!」
リベルトは椅子を仰け反らせて笑う。
「っ! 御礼は十分に致します! どうか!」
「モリーノ氏」
笑いはどこへ、急に下がったトーンの声色にモリーノは息を呑んだ。
リベルトはタバコを咥える。横に控えていたローゼがライターを取り出しタバコに火を付ける。一口大きく煙を吸うと、立ち上がってゆっくりと歩き出す。
「わたしたちは友人だ。そうだろう?」
「は、はい」
「その友人が息子の祝いの日に殺しの頼みをしてくるんだ。不思議な話だろ?」
「…………はい」
リベルトはモリーノの座る椅子の後ろまで歩くと、モリーノの両肩を摩る。
「我々はマフィアだ。…殺し屋じゃない」
リベルトはソッとモリーノの首に手をかける。タバコの煙が熱いくらいに首筋を撫でたが、モリーノは恐怖で微動だにできない。
「し、失礼いたしました! このような非礼をなんて、」
「いや、良いんだ。良いんだよ」
リベルトは首から手を離し、モリーノの肩をポンポンと叩く。
「殺しはしない。“殺し”はね。それで良いだろう? 要は選挙に出られなくすればいいだけだ。そうなんだろう?」
「は、はい。ありがとうございます。御礼は」
「御礼なんていらないさ。友人なんだから」
「それではこちらの気持ちが」
「いらないさ。ただ、今後我々が何か頼み事をするかもしれない。その時はよろしく頼むよ」
「…はい。何なりと。…マイファーザー」
モリーノは恭しく頭を下げる。
「ローゼ、下のもの達にやらせろ。殺しはするなと伝えておけ」
「はい。すぐに。ドン・リナルディ」
「…よろしく…お願い致します」
モリーノは立ち上がると、リベルトに抱擁する。
モリーノは思った。タダより怖いモノは無いと。今後この借りを返し続けることになるのだろうと。
リベルトが差し出した手の甲にキスをしながら、恐ろしい人物に頼ってしまったと少し後悔した。
「はぁ、次は誰だ」
リベルトは椅子に腰掛け、タバコを吹かしながら言う。
「街のパン屋のマリオッティ氏です」
「政治屋の次はパン屋か…マリオッティのヤツめ…どうせいつもと似た様な頼み事だろう。うんざりだ」
「マフィアですから。致し方ないかと」
「それもそうなんだがな。…それはそうと、ロイドはどうだ?」
「はい。楽しんでおられる様です」
「相変わらずお気楽なものだな。リリィは」
「…嫌々ながらも、お客人の相手をされていました」
「はは、こっちも相変わらずか」
「一つ、カルロ様がリリィ様に接近してきたので追払いました」
「ファルコーネのガキか。なにか言っていたか?」
「目を掛けている。といった感じでしたね」
「気に入らんな」
タバコを灰皿に押しつぶす。
「少し気になる。奴のことを調べておいてくれ」
「わかりました。ちなみに」
「なんだ?」
「気に入らないのはマフィアとしてですか? それとも」
「…どちらもだ」
顎髭を強く撫でながら答える。
○兄弟
父の仕事部屋の前に着くと、ディエゴ叔父さんは少し緊張している様に見えた。兄弟同士、何を緊張する事があるのだろうか。少し不思議に思う。ジルダ叔母様は…相変わらず不機嫌そうな面持ちだ。
「どうぞ」
部屋の中からローゼの声が聞こえた。三人で部屋に入ると、父が立って待っていた。
「ディエゴ」
「リベルト」
二人は堅く抱擁を交わす。お互いの肩をバンバンと叩き合う。
「ディエゴ、元気だったか? 久しいな」
「ああ久しぶり、でも手紙は送ったろ? 読んでくれたか?」
手紙。ディエゴ叔父さんは手紙を書くのか。私には来ていない。少しむくれる。
「ジルダも息災か?」
「はい。お兄様。お兄様もお元気そうで何よりです」
私の時と違い、満面の笑みで答えるジルダ叔母様。やはり私は何かしたのだろうか?
ただ、家族の久々の再会を目にするのは嬉しかった。ニコニコと三人を見ていると、ローゼが声を掛けてきた。
「リリィ様、何をしておられるのですか?」
「何って。家族団欒よ」
「そんな冗談はいいですから、さぁ、出ていってください」
「冗談なんかじゃないよ! なんで私だけ!」
「リリィ、悪いな。これから大人の話し合いがあるんだ。すまんが」
ディエゴ叔父さんまでそんなことを言ってきた。納得いかない。第一私は子どもじゃない。
「何で? 家族にも話せない様な事なの?」
「リリィ」
父が一言そう言った。もう反論の余地はない。すごすごとドアに向かう。
「すまんなリリィまた後で」
叔父さんがそう言って手を振る。
おじさんに手を振りかえし、部屋から出る。が、こんなことでは負けない。大人の話。気にならない訳が無い。音を出さない様、ソッとドアに耳を付ける。
「…話があって来たんだ…手紙の件で…」
「…その話は無しだ…手紙にもそう書いて…」
「…取り憑く島もない…聞いてくれ…俺は変わった…」
「…これ以上…」
一体何の話だろうか。一言も聞き漏らさないように部屋の中から聞こえる声に集中する。
「何してんのリリィ」
「わぁー!!!」
急に声を掛けられ大声を出してしまった。声の主はアリスだった。
「…ちょっと! …急に声かけないでよ!」
小声で必死にアリスに言うが、アリスは不思議そうにしているばかりだ。
「だってこんなところで一人でいるから」
「…いいから! …向こう行って! …盗み聞きしてるんだから!」
ドアがガチャリと開いた。
「リリィ様?」
ローゼが顔を覗かせてきた。いつもの怖い笑顔だった。
「…ははは、は、…ごめんなさい!」
脱兎の如く逃げ出した。
○おひらき
外は夕暮れが近づき、日も落ちて来ている。だが尚もパーティーは続いていた。一人ホールを歩き物思いに耽る。
叔父さん達は一体何の話をしていたのだろう。気になってしょうがない。後で叔父さんに聞いてみるか? いや、無駄だろう。父との話し合いは何か言い争いに近いものだった。いい話ではないのは確かだ。それだけで組織に関わる何かだと推察できる。組織に属していない叔父さんが何故? 考えすぎだろうか?
家族に関して私は知らないことばかりだ。パーティーに出席している人間達の方がまだ父やロイドに関して詳しいのではないだろうかという気さえしてくる。
皆が決して、ただの友人や客人ばかりではない。むしろその方が少ないくらいだろう。マフィアという一点がこの人たちと家族を繋いでいる。そしてその一点が私と家族を隔てている。
そう考えると、逆に私だけが異質な存在と言えるのかもしれない。闇の世界に産まれ、生きて、その恩恵を賜りながらも、それが何なのか分かっていない。足元の蠢く何かを踏み付けながらも幸せに暮らしているのだ。
会場に並ぶ料理の中に昨日の鹿肉のソテーが並んでいた。手に取って一口食べてみる。
「美味しい…」
ふと思い出す。あの時の子鹿は何を思っていたのだろう。恐怖だろうか、親を殺された悲しみだろうか、それとも…。
父の声で思考は途切れた。
「今日は息子の為に皆、集まってくれた。私からも感謝の言葉を述べさせてくれ。ありがとう」
父が壇上に立ちマイクで皆に呼びかけた。あれだけ騒がしかった会場が静まり返っている。
「ロイド」
ロイドを壇上に手招きする。壇上に上がったロイドの肩を抱く。
「ロイドは今日で18だ。一人の大人の男として認めねばなるまい。皆はどう思う?」
皆が拍手でそれに返事をする。
「だが」
拍手が止む。
「だが、息子はまだまだひよっこである事には変わらない。いくら歳を重ねようと、子どもな人間は子どものままだ。私は息子にそうなってほしくはない。どうだロイド。お前の覚悟を聞かせてくれ」
父がロイドにマイクを渡す。
「父さん、いや皆さん、僕は、覚悟は出来ています。父の志を胸に、父が誇れる息子に、父が誇れる男になります」
「ロイド、よく言った。次はお前の番だ」
「はい。父さん」
二人が堅く抱き合い、会場は大きな拍手で包まれる。私はそれをただ見つめるだけだった。
「もう沢山の方からもらったとは思うが、私からのプレゼントがまだだったな」
父が両手を大きく広げた。
「皆さん、私は息子に我が社の経営を任せたいと思っている。いやいや、今じゃない。将来的にね。私もこう見えてまだまだ現役なので」
笑いが起きる。父が人差し指をあげるとまた静寂に包まれる。まるでオーケストラの指揮者の様に見えた。
「そこでだ。皆噂には聞いているとは思うが我が社は今、新しい交易事業の準備を始めている。詳しい話は、企業秘密だがね。ライバル企業も多い。ここだけの話にしておいてください」
悪戯っぽい父の言い方にまた小さく笑いが起きる。が、
「その計画の責任者をロイドに任せようと思う。それが私からのプレゼントだ」
今度はどよめきが起きる。
それも当たり前だ。18の若者が請け負う様な仕事ではない。まして今日やっとマフィアの人間と認められたばかりだ。ドンの息子とはいえど疑問があるのは当然と言える。私も初めて聞く事ばかりで困惑を隠せないでいた。いくらドンの息子だとしても組の人間が簡単に納得する様な話ではないのは私でも分かった。父ももちろん分かっているはずだ。なのに何故。
「ロイド、簡単な仕事ではない。分かっているな?」
「父さん…ありがとう。必ず期待に答えてみせるよ」
二人は堅い握手をする。
ぱち、ぱち、ぱち、ぱち。と、まばらな拍手が起きる。無理もない。
父は続けた。
「皆さん思うところはあるでしょう。しかし我々には常に変革が必要だ。現状に満足していては発展は望めない。停滞は罪だ! 新しいことを始めるには新しい風が必要なのです。それを私は息子のロイドに任せてみたい。皆さんのご助力が必要になることもあるでしょう。が、息子はきっと成し遂げると私は信じている。私の心からの願いです。いかがでしょう?」
父はまた両手を広げ皆の賛同を促す。そうされて皆黙って突っ立っているわけにはいかない。
「ロイドおめでとう!」
「しっかりやれよ!」
「なにかあったら頼ってくれよ!」
拍手と同時に激励の言葉が飛んでくる。
私は…呆気にとられるばかりだった。兄が組織に加入するばかりではなく、大きな仕事を任せられた。おそらく幹部レベルのだ。新しい交易事業と言ってはいたが…嫌な予感がしてならない。胸がざわつく。父からのプレゼントだ。単純な事業とは思えない。
ロイドの顔を改めて眺める。皆の言葉に笑顔で答えている。
——————ロイド…胸が痛いよ。
ロイドは最初の一歩を、それも大変大きな一歩を踏み出そうとしている。もう決して普通の家族には戻れない。分かっていた。分かってはいたが…
万雷の拍手も今は雑音でしかなかった。
ふと会場を見やると、ディエゴ叔父さんとジルダ叔母様が足早に会場を去っていくのが目に入った。
○祭りの後
パーティーの時の賑わいが嘘の様に今は静かだ。後片付けも終わって、パーティーの痕跡は残っていない。あたりはすっかり暗くなっていた。
一人テラスの椅子に腰掛けて、ティナが持って来てくれた紅茶を飲む。昨日から降っていた雪はパーティーの間に止んでいた様で星がよく見える。いつもと同じように夜空に輝いていた。
今日はなんて目まぐるしい1日だったのだろう。今日だけで全てが変わってしまったように思えた。いや、どうなのだろう。もしかするとそう感じるだけで何も変わらないのかもしれない。ロイドがマフィアの仕事を始めるだけ、そうそれだけだ。あとは今までと何も変わらない。何も変わらないはずなのに…。
胸にズキっと痛みが走る。もう考えるのは止めよう。考えずにいればきっとそれが当たり前になって、それが日常になって、こんな胸の痛みも忘れられるはずだ。自分にそう言い聞かせる。それしか私に取れる選択肢はないのだ。そう選択肢なんて最初から無い。この家に生まれた時点で。
ロイドは父からのプレゼントにとても喜んでいた。それでいいじゃないか。ロイドが自分で決めた道でもある。私に出来る事なんて、何もない。
無力感に苛まれながらも自分を納得させる。これでいいんだ。これで…。
「リリィ」
振り返ると、父が窓辺に立っていた。
「風邪ひくぞ。中に入りなさい」
「もう少しだけ…」
父は何も言わず、私の隣の椅子に腰掛けた。
「どうかしたか?」
言葉が出てこない。
「ふむ…ロイドと違ってお前は聡いからな」
「どういうこと?」
「ロイドのことを気に病んでいるのだろう? 私がロイドに与えたものの意味も分かっている。違うか?」
「………」
「困ったもので、ロイド自身はいまいちわかっていない様に見える。本当に困ったものだ」
父は顎髭を撫でながら言った。
「じゃあなぜ? ロイドには…きっと…私が言えることじゃ無いかもしれないけど…荷が重いよ」
「はっはっは。そうだな」
「父さん、今までロイドは普通の人間だったんだよ? それが…マフィアになって、いきなりあんな大役。おかしいよ」
「そう。大役だ。生半可な覚悟じゃできない。だからこそロイドに任せた。あいつには経験が必要だ。大変な苦労が待ち受けているだろうな。そのための準備も念入りにさせてきた」
「準備って? どんな?」
「それはお前が知るべき事じゃない」
知らなかった。含みのある言い方だ。こういう場合は大抵、後ろ暗い事が隠れている。一体父はロイドに何をさせて来たというのだろう。想像するのも恐ろしい。私の中の父がまた少しぼやける。
「パーティーでも言ったろ? ロイドは私の後を継ぐ。そのための準備さ」
改めて父が恐ろしいと感じた。だけどこれだけは聞いておきたかった。これだけは。
「父さん、怒らないで聞いてくれる?」
「………分かった。約束しよう。なんだ?」
「…ロイドに、兄さんに別の道はないの?」
「……………」
父は胸ポケットからタバコを取り出し火をつけた。
「ない」
断言だ。これより他にない拒絶。言い返す隙すら与えられなかった。
「力を持つものには責任が生じる。責任だ。何より重い。もっとも重要だ。ロイドは、私の責任の一旦でもある。ロイド自ら望んでもいるが、それは言ってしまえば関係ない事だ。これは決められた運命だ。変えることはできない。決してな」
「そんな…」
ロイドの意思すら父にとっては関係ないなんて。だがそれなら…
「…私は」
「ん?」
「じゃあ私は何なの? 私を産んだのは何故? 後継にもなれない。女の私に一体何の価値を父さんは見出して母さんに私を産ませたの? 男の方がよかった?」
「…リリィ。いい加減にしろ。ばかなことを言うな」
「父さんなんて…」
それ以上は言えなかった。涙が溢れそうになったが何とか堪えた。立ち上がり、家の中に足を向ける。
「リリィ!」
父は強く私の名前を呼んだが、これ以上父の顔を見ていられなかった。駆け足でその場を後にした。
○暗闇
ベッドに横になって数時間が経っていた。心は未だにざわついていて、とても寝付けそうにない。寝返りを何度もする。枕の位置も何度も変える。ダメだ。寝るのは諦めよう。
部屋は真っ暗だが、カーテンの隙間から月明かりが差し込んでいた。ベッドから降りて窓まで歩く。窓の外を眺めると、遠く海に程近い街にはまだ灯りが点々と付いているのが見えた。灯台の光が規則的に目に入ってきて眩しい。
窓を開けてみる。すぐさま冷気と共に潮風の匂いが入ってくる。空気はとても冷たく、息を吸うと肺が少し痛むぐらいだった。だがそれも気にしないで椅子に座り、窓枠に頬杖をつく。
父の言葉を思い出す。
「責任…」
母も同じ言葉を口にしていた。そんなに大事な事なのだろうか。私にはわからない。後継者なんて、幹部の誰かにやらせれば良いのではないか。そうはいかない理由なんてあるのか?
リナルディ海運会社は父が一台で築いたと聞いている。きっと私に言えない、法に触れる事もたくさんして来たのだろう。そういったことの積み重ねで今の生活があるのは分かっている。暖かいベッドで寝られるのも、大きな家に使用人つきで住めるのも、こんな冬の日に凍えずストーブに当たっていられるのも…
ただその重荷を息子にまで背負わせる必要なんてどこにあるのだろう。父はロイドのことも深く愛しているはずだ。なのに何故?
ぐるぐると思考が行ったり来たりだ。もう考えないと決めたはずだったのに。
「馬鹿みたい私…」
もう寝よう。今日は色々なことがあって疲れた。寝て起きたら気持ちも晴れているかもしれない。
窓を閉めようとして、ふと家の入り口の門を見やり、気付く。
あれ? 見張りの人間が見当たらない。いつもは交代制で昼夜問わず構成員の誰かが入り口の警備をしている。交代の時間はあっても誰もそこにいないところは見た事がない。門は…何故だろう? 少し開いている。誰か…来ているのか? いや、こんな真夜中に誰かくるはずもない。何だ。妙な胸騒ぎがする。
泥棒? まさか。ありえない。マフィアの家に泥棒に来るなど、よほどこの街に疎い輩か、死にたがりとしか思えない。だが今は皆寝静まっている。見張りの姿も見えないので誰が入ってきてもおかしくなはい。もしくは…すでに家の中に…。胸騒ぎは緊張へと変わる。
父に早く知らせよう。そう思い足早に、けれど静かに部屋を出る。廊下も真っ暗だったが、目が慣れていたため何とか見える。シンと静まり返った廊下は自分の家なのにやけに不気味に見えた。父たちの寝室に行くには廊下を進んで、家の中央の階段を抜けて家の反対側まで行く必要がある。
そうだ。向かいの部屋はロイドの部屋だ。先にロイドに知らせよう。
ドアを用心深く開け、中を伺う。が、ロイドの姿はベッドには無かった。何故だ。一体どこに。より鼓動が強くなる。
やはり父に知らせないと…! 急いで部屋を出る。足早に廊下を抜け、途中の階段から静かに一階を覗き見るが人の姿はない。自分の鼓動の音だけがやけに大きく聞こえた。階段を後にし、父達の寝室の前に着く。今度も音を出さないよう慎重にドアを開ける。二人は…ベッドに並んで寝ている。静かにドアを閉め、二人のそばに寄る。
「…父さん。…父さん!」
「ん…リリィか、どうした」
「門の見張りがいないの。ロイドの姿も見当たらない」
「何だと…」
父はすぐさま目を覚まし、サイドテーブルの引き出しから回転式の拳銃を取り出す。父の動きはこんなことも想像していたかのように素早かった。それが私の不安をより加速させた。
「…ラウラ。起きるんだ。ラウラ」
母を揺すって起こす。
「うぅん…何よ。リベルト…」
母も目を覚ますが、拳銃をもった父の姿にギョッとする。
「しっ! 静かに…」
母も事態を悟った様だった。小刻みに震えている。私は母のそばに駆け寄り、母を抱きしめた。不安で押し潰されそうだった。
父は、サイドテーブルに置いてある電話の受話器を耳に当てる。
「切られてる…くそっ!」
何と言うことだ。これで事態ははっきりした。誰かがこの家に襲撃してこようとしている。またはもうすでに家の中にいる。父の顔にも緊張が見てとれた。母は声を抑えるため口を手で覆う。
「様子を見てくる。二人はここに」
「リベルト、やめて。危険すぎる…!」
母は今にも泣き叫びそうな声を必死に抑えて父に言った。
「ここに私達だけでジッとしているのも返って危険だ。隣から兵隊を連れてくる」
兵隊とは組の構成員のことだ。家の隣の宿舎に何人か在中している。使用人たちもそこで寝泊まりしている。アリスとティナは無事だろうか…
ただ宿舎まで行くには階段を降りて、玄関から出るか、厨房の裏口を通る必要がある。相手がただの泥棒なら可能かもしれない。だが、そうじゃないとすると、見張りがいてもおかしくない。電話線を切る用心深さだ。そうじゃない可能性の方が高い。
父はベッドから降りると拳銃に込められた弾を確認する。そしてもう一丁の拳銃をサイドテーブルから取り出し母に渡す。母は震える手でそれを受け取る。
「念の為これを。ラウラ、リリィを守ってくれ」
「…父さん!」
「リリィ、落ち着くんだ。二人ともよく聞け。私が5分経っても戻らない場合は窓から飛び降りて森を抜けて街に逃げろ。宿舎もどうなっているか分からんからな。街に着いたらマリオッティのパン屋を頼れ。匿ってくれるはずだ。あそこなら見つかることもないだろう」
「父さん、ダメだよ…いかないで」
必死に訴える。
「リリィ…愛している」
父は私の額にキスをした。
「リベルト…必ず戻ってきて」
涙を流しながら母は父にキスをする。
「分かってるな。いいか? 5分だ」
父は、私たち二人を抱きしめた後、音を出さない様、ドアまで移動する。壁に張り付くようにして、ソッとドアを開け、外の様子を伺う。私達を一瞥すると、外に出る。ドアが小さくカチャリと音をたてて閉まった。
どれくらい経っただろう。父は5分と言ったが緊張で時間の感覚がまるでない。時計を見るということすら頭には無かった。ただ父が無事にこの部屋に戻ってくることだけを深く祈っていた。母も手を組み神に祈っている。私は信心深くない。こんな事なら普段からそうしておくべきだったと自分を呪った。
どうか神様、父を無事に返してください。こんな時ばかり頼ってごめんなさい。けれど、どうか。どうかお願いします。何でもします。だから、どうかお願いします。
パァーン!!!
突然の銃声に心臓が飛び上がった。
パァン! パァン! パァン!!!
続けざまに銃声が響く。
「リリィ!! ベッドの下に!」
母は震える手で拳銃を持ち、ドアの方に構えると私にそう言った。
「でも母さん…」
「いいから!」
私は言われた通り、ベッドの下に身を隠した。
静寂が続いていたが、暫くすると、足音が聞こえはじめた。
ギシ、ギシ、ギシと、床板が軋む音が床に寝そべる私の体に伝わる。それにつられて心臓が早鐘の様に打っていた。
足音は私達のいる部屋の前で止まる。キィーと静かに音を立ててドアが開く。暗がりの中、足元だけが見えた。誰だ。父であってくれ…。
「嘘…嘘よ…」
母の声が小さく聞こえた。父じゃないのか…!
「…嘘だと言って!!!」
母の絶叫がこだました。
パァン! パァン! パァン!
ベッドの上から閃光と共に銃声がする。
「このっ!」
男の声が聞こえた。続いてドアの方から、
パァン! パァン!
なんだ、何が起きている。涙が止めどなく溢れてくる。嗚咽が漏れないよう。両手で口を塞ぐ。
二発の銃声の後、暫くの静寂があった。
「ちっ、殺すなって言われてたのに…」
———————嘘だ。
「行こう。ロイドを探すぞ」
ドアの向こうにもう一人いる。
「ああ」
ガチャリとドアが閉まる。
男たちの足音が遠ざかっていく。ドアを見ながら用心深くベッドから這い出る。
「リリィ…」
母が私を呼ぶ。だが声は非常に弱々しいものだった。
「あぁ…嘘だ…母さん…」
振り返ると、母の寝巻きは血で真っ赤に染まっていた。
「母さん…!」
母の腹辺りから血がどくどくと溢れ出ていく。それを止めようと手で必死に抑える。
「今お医者さんを呼んでくるから…!」
私は涙ながらに言う。
「リリィ…逃げなさい。私はもう間に合わない」
「ダメだよ母さん。だめ。そんなの…」
「あなただけでも…逃げるの」
「ダメ、母さんを置いていけない…!」
「リリィ…! …いくのよ! …早く!」
必死にそう言う口元からは血が溢れ出していた。
母は震える手で私の頬を撫でた。
「生きるのよ…私の可愛い天使…」
母は微笑んだ。これまで見てきたどんな笑顔より優しい顔で。
「………ふんふーん」
母は鼻歌を、私を撫でながら弱々しい声で歌う。小さい頃私が寝付けない時によく歌ってくれた歌だ。
「お願い…母さん………死なないで」
「…ふんふーん」
母にはもう聞こえていない様だった。
また小さく笑った後、私を撫でる手がベッドの上にサっと落ちた。
「母さん…」
母の手を取るが、もう力はない。
「うぅ…っ…うぅ」
母の額にキスをする。血だらけの手で母の頬を撫でる。母は天使のような優しい顔だった。
嫌だ。これは夢だ。夢に違いない。こんな悪夢は早く醒めてくれ。また神に祈る。何度も祈る。だが、母が目を覚ますことは無かった。
「母さん…」
母の胸にもたれる。鼓動は聞こえないが暖かかった。目を瞑ると自分の鼓動の音だけが聞こえた。
私は母の頬にキスした。そして立ち上がる。
涙でぐしゃぐしゃの顔を拭う。
生きなければ。何としても生き延びなければならない。母のために。
母の側に居たいという気持ちと裏腹に、この場から早く立ち去らなければならないという気持ちが大きくなっていく。鼓動は恐怖でまだ早い。それが、私が生きていたいという証に思えた。世界一愛していた人を失っても尚、私は生きていたいのだ。それを軽蔑すると同時に何か暖かいものを感じた。
私が生きるのは母の願いでもある。覚悟は決まる。
私は迅速に行動に移した。
母の手元に落ちている拳銃を拾う。
母のクローゼットから羽織れるものと、靴を探す。
サイドテーブルから持てるだけの拳銃の弾と、恐らく父が逃走用に準備しておいたのであろう少々の現金をポケットにねじ込む。
いつ奴らが戻ってくるか分からない。準備を終えると、素早く窓まで移動し、音が立たないよう慎重に開ける。思ったよりも高い。だがなりふり構ってはいられない。雪がクッションになるはず。そう自分に言い聞かせ、窓から身を乗り出し、窓枠に座る様にする。
最後に、母の顔をもう一度見た。
「母さん………さようなら」
思い切って飛び降りる。暗闇が私を覆った。
読んで頂いただけで幸せです。本当に。