はじまり
私、リリィ・リナルディは他の娘と変わらないただの少女だ。自分の父がマフィアのドンだということ以外は。父は家族を愛しているし、母や兄のロイドも私にはとても優しい。幸せな生活。それが血の上に成り立っていることから目を背けさえすれば。
リリィは否が応にも目の当たりにすることになる。自分の人生がいかに危ういものであったのかを。
そして実感する。自分にもマフィアのドンの血が色濃く流れていたことを…
○籠の小鳥
「ふんふーん」
また、彼女の鼻歌が聞こえてきた。いつも同じ曲だ。聴いているうちに私もすっかり曲を覚えてしまっていた。この3週間毎日だ。無理もない。椅子に座って彼女の歌声を聴いているとついつい微睡んでしまう。うたた寝してしまう事もしばしば…
おっと、いけない。自分の仕事をしなければ。まぁ仕事といっても、ただ彼女を見ているだけなのだが。
つくづく思う。この少女の可愛らしい儚げな歌声も、黄金色に輝く長い髪も、美しく整い見惚れてしまうほどの美貌も、このコンクリートで出来た寒々しい部屋には似合わない。
私は毎日、彼女を鉄格子越しに見ているのだ。彼女は囚われの身、籠の中の小鳥だ。
彼女が何をしたのかは知っている。彼女が何者であるかも。それを思えば、とても小鳥なんて表現は似つかわしくは無いだろう。ただ、見ているだけならば、これは退屈な仕事と差し引いたとしても眼福だ…こんな事を言ったら警部にこっ酷く叱られる事だろう。
「おい」
その警部の声がした気がした。微睡の中の幻聴だろうか。夢の中にまで出てくるのは正直勘弁願いたい。
「おい!」
「はい!!!」
飛び起きて返事をした。幻聴ではなかった。通路の向こう、鉄格子で出来た入口のドア、恰幅の良い髭面の男が私を睨みつける。いかにも機嫌が悪そうに警部は立っていた。
「早くあけろよ!」
「はい! 今すぐ!」
急いで駆け寄りドアを開錠する。
「何寝てんだお前。殴られたいのか?」
「いえいえ寝てなんか! 誤解です! それより今日はどの様なご用件で? クライトン警部。また取調べですか?」
「ちげぇよ…」
話を逸らすことに成功してホッとする。しかしクライトン警部の様子が少しおかしい気がする。
「ではどの様な用件で?」
警部は私を無視して、少女の目の前まで足を進める。
少女と警部はしばらく見つめ合っていた。警部の表情は険しく苦々しいものだった。
「あの、クライトン警部?」
たまらず私は声をかけた。それも無視して少女を見つめた後、警部が顎で牢屋の扉を指す。
「開けてやれ」
「へ?」
「ドアを開けるんだよ! 釈放だ!」
投げやりに言うと、さっきまで私が座っていた椅子にドスンと腰を降ろした。
「は、はい。でも警部この少女は」
「何も言うな! 上からの命令だ!」
警部の悔恨の顔を見るともう何も言葉は出て来なかった。鍵を取り出し、錠前に挿し込む。ガチャンと音を立てて外れた鍵を見ると少女はスクっと立ち上がった。私が扉を開けてやると、スッと廊下に歩み出る。
「お世話になりました」
警部に軽く一礼した。飛んだ皮肉ではあるが、その所作からも優美さが感じられた。警部の睨みも物ともせず少女は廊下を進んでいく。
「くそっ!!!」
廊下に警部の声がこだました。私のキンとした耳に後から聞こえてきたのは少女の鼻歌だった。
○さいかい
辺り一面は雪景色だった。港町でもあるここコッリーナブルは周りを山々に囲まれ、海から流れ込む風が行き場を失い渦巻き、雪を舞い上がらせていた。そして、ただでさえ寒いこの街の冬をより一層際立たせていたのはこの(壁)である。高さ三メートルはあるこのコンクリート製の壁は、同じくコンクリートで作られたこれまた巨大な建造物を囲い、外から入ろうとすることも、内から出ることも拒んでいる様な威圧感を放っていた。それも当たり前だろう。ここはコッリーナブル刑務所。それをこの壁が覆い尽くしている。
そんなこの絶壁を横目に、一台の黒塗りの車が悠然と走っていた。
「別にお前はついて来なくてよかったのに」
車を運転するショートの黒髪で黒スーツに灰色のコート姿の女は、ミラー越しに、後ろに座る茶色の癖っ毛の少女に向けて心底どうでも良さそうに言った。
「…でもリリィが心配なのは私たちも同じだし」
少女は少し鼻にかかるダミ声で言う。
「それ俺たちに言ってるの?! ったくローゼも少しは優しく出来ないかなぁ」
答えたのは運転席のローゼと呼ばれた女の他、同乗するメイド服の二人ではなかった。少女が右手に(付けている)狼の人形だ。正確には声色を変えて一人芝居をしている少女自身ではあるが。
「また二人ともそんなこと言って。またローゼに睨まれちゃうよぉー」
またしても答えたのは人形だった。ただ今度は狼ではなく、左手に(付いている)羊の人形
からだ。上手いもので同じ少女から発せられた声とは思えない。
一見、少女が可愛らしくお人形遊びをしている様にも見えるが、両手にテープで人形と手首をグルグル巻きにしているところや、人形たちが異常なほどボロボロで黒ずんでいるのを見るに、そう思う人間は中々いないだろう。
「ほんといかれてるな」
ローゼは少女をミラー越しに一瞥し、ため息をついた。
「まぁまぁローゼ様、パトリシアちゃんもいらっしゃってきっとお嬢様も喜びますよ」
柔和な笑みでそう言ったのは、助手席に座るメイド服姿の女性だった。
「ティナさん優しい…ありがと。そうだよね。きっとリッキーとマチルダにも会いたがってるし」
人形達がウンウンと頷き、パトリシアはぎこちない笑顔をティナに向ける。
「そうだ! オレに会えたらリリィ喜ぶぞー」
「私やパティはともかくリッキーのことはどうかしらね?」
「なんだとー」
両手の人形のリッキーとマチルダが揉み合い、喧嘩を始める。パトリシアはアワアワと二匹を仲裁している。ティナは(確かにイカれてはいるな)と思ったが心に留めておく事にした。
ローゼがまたため息をつく。それを見てティナが胸を揺らしてくすくすと笑った。
「リリィ…大丈夫かな」
今度声を発したのはローゼ、パトリシア、ティナ、人形達ではなかった。後部座席にもう一人、窓枠に頬杖を付いている黒髪短髪の少女。この娘もティナと同じメイド服姿であった。
「アリス、リリィ様は問題ありません。警察の方にも根回しはしておきましたし、証人たちには…もういませんから」
含みのあるローゼの言い方に疑問を呈する者はいなかった。
「…そういうことじゃなくて、何週間もあんなところに閉じ込められるなんて」
アリスは、複雑な表情で降る雪を窓越しに眺めている。
「お嬢様が自ら望まれたことです。もちろん、私たちを信用して…です」
ティナは後ろを向き、アリスの目を見やって言った。アリスはティナの目をジッと見つめ、逸らす。
「そうだよね…」
流れる風景に視線を戻す。すると目に入ってきたのは、厳重な二重の鉄格子で出来た門だった。
「着きましたよ」
門のすぐ側まで車を寄せて止まる。
しんしんと雪の降る中、門の前、鉄格子越しに刑務所の出入り口が見える道路に四人は立っていた。
長身のスーツ姿の女、メイド服二人、両手に人形の少女。あまりにもヘンテコな取り合わせに、門の警備の者たちも最初は訝しげな視線を向けていたが、それも5分、10分と時間が経過するにつれて興味を示さなくなっていった。4人の頭や肩には軽く雪が積もっていた。
「…寒いよう…」
パトリシアは両手の人形で自分の肩を摩る。茶色いブカブカでボロボロのコートを羽織ってはいるが、か細いパトリシアの四肢にはこの寒風はより骨身に染みていた。
「はいこれ」
ティナは自分がしていたマフラーをパトリシアに巻いてやる。
「…あったかい。ありがと」
パトリシアはティナに微笑み、人形達がペコリと頭を下げる。ティナもそれに微笑みで返す。
「だから待ってろって言ったのに」
ローゼは白い息を吐きながら淡々と言う。寒そうな素振りは見せない。
アリスは短く切り揃えられた髪や、羽織ったケープに積もっていく雪も気にせず、食い入るようにジッと出入り口を見つめていた。
「来たよ」
アリスが声を上げると皆が入り口に顔を向ける。
そこには一人の少女が立っていた。スーツ姿、コートには腕を通さず羽織り、ズボンはサスペンダーで止めている。その姿は少女に似合う格好では無い。が、独特の高貴さが感じられた。 黄金色の髪が風に揺らめいている。四人を見る青い瞳は微かに微笑んでいる様に見えたが、雪が舞い、確かではない。真っ直ぐ四人に向かって歩き出す。門に向かう足取りは少女が3週間勾留されていたとは思えないほどしっかりしていた。
門の検問を抜けると四人の前に立った。
「ローゼ、パティ、ティナ、…アリス、ただいま」
今度こそ少女は微笑む。四人はうやうやしくお辞儀をする。
「お帰りなさいませリリィ様」
ローゼが皆を代表して挨拶をする。
「いえ、——————ドン・リナルディ」
○肝心なことは
バーーン!!!!
強烈な破裂音が雪の降る森にこだまする。
銃口からゆらゆら上る煙。火薬の匂いがつんと鼻腔をくすぐる。
「当たった?!」
鹿の姿はもう見えない。
「惜しかったな」
顎髭を撫でながら父は何故だか満足げな笑顔でそう言った。
「ちっとも当たらないよ」
それに私は不満げな顔で返す。
「狙い過ぎなんだよ。リリィは。狙い過ぎて、狙いがズレてる。ははは」
追い討ちをかける様に兄のロイドが訳の分からない論理を展開して茶化してきた。
「もうやだ帰る」
「そう言うな。明日のパーティーのメインディッシュは私に任せてって息巻いてたろ?」
父は困ったなぁといった顔で私から猟銃を受け取った。
「もう少し粘ろう。な。ロイドの為だ」
父がわしゃわしゃと私の頭を撫でて先へと歩き出す。父も年をとったなぁとシワの多い手を見て、少し寂しくなった。来年で60歳。明日はロイドの18歳の誕生日でもある。時の経過の早さに少し怖さも感じる。ロイドもこの数年で背が急に伸びて父と同じくらいだ。ハンチング帽に、厚手のハンティングジャケット姿の二人はそっくりだった。
「リリィが頑張ってくれないと明日のパーティーはサンドイッチだけかもなぁ。だから頼むぞ」
ロイドも私の頭をわしゃわしゃと撫でた。おかげで自慢の金髪がボサボサだ。
朝から鹿狩りに行くという父と兄に母の反対を押し切って無理やり付いてきた。付いてきたまでは良かったが、今まで一度も狩りはしたことがない。まず銃を撃ったことすら無かった。一向に鹿を仕留めることが出来ず、あたりは少し日が落ち、影が伸びてきてしまっていた。このままでは鹿が取れるまでには私はおばあちゃんになっているかもしれないな。そんな冗談を考えながら父と兄の後を追いかけた。
森歩きはなかなかに難儀だった。ただでさえ木々や木葉で歩き辛いのに雪が積もってきている。自分の荒い息遣いと雪を踏み込んだ時のギュッとした音だけがよく聞こえる。父とロイドは良く狩りに来るので慣っこだ。私を引き離さない程度の速度で軽々と森を歩いて行く。着いて来たのは失敗だったかな。と、思い始めた時、父は静かな声でロイドに言った。
「—————ロイド、準備はできてるな? 次はお前の番だぞ」
「—————もちろんだよ父さん、覚悟もできてる」
父は満足げに笑い、ロイドの肩を叩く。
私には聞こえていないと思っているのだろう。狩りの話では無いと私は分かっている。狩りについて来たのも、本当は二人の会話を聞きたかったからだ。私の知らない二人を知りたかった。やはりついてきたのは失敗だった。ロイドの気持ちは変わっていないと分かってしまった。
「…普通の家族がいいのに…」
二人には絶対聞こえない小さな声で呟いた。
「いたぞ」
父が小声で言い、手で私達を制止する。木の影からソッと覗いて見ると、親子の鹿が雪を掻き分け、僅かに生えている草を頬張っている。
「リリィ」
父が静かに銃を私に手渡した。私は脇を締め、銃を構えて狙いを定める。
「片目を閉じるな。両目でな」
言われた通りにする。よく狙い、引き金に指をかける。
そして今、引き金を絞ろうとした時、父は耳元で小さく言った。
———————感じるんだ。ヤツの鼓動を。生きている実感を。そして迫り来る死を。共有するんだ。狙わなくていい。感じた時、自然とヤツは死んでいる。
ゾッとした。父を初めて見る生き物の様に思えた。
その時、親鹿と目が合った。全てを見透かす様な目だった。私の恐怖も全て。
パァーーーン!!!
刹那、気づくと鹿は倒れていた。
「よし! やったぞ!」
ロイドの叫びで我に返った。ロイドの猟銃からは煙が上がっている。ロイドが鹿に駆け寄っていく。
私は撃つことができなかった。震えている指先を引き金から外した。
「たくっ…ロイドのやつ…また今度だなリリィ」
父はそう言ってまた私の頭をわしゃわしゃと撫でて、鹿の方に歩んでいく。
あれは幻聴だったのだろうか。いやそうではない事は分かっている。父は、父だ。
あれが私の父なのである。悲しいほどに。
遅れて私も鹿に歩み寄る。ドクドクと流れる血が雪を染めていた。
「…血が…」
鹿の目からは今にも生気が無くなろうとしてる。さっきまで生きていた鹿がただの物になっていく姿に私は閉口した。父とロイドは気にしている様子はない。
私は鹿から目を逸らし顔を上げると、奥の木の影にいる小鹿と目が合った。
読んでいただけただけで幸せです。本当に。
続きはすぐにでも。