第一章 1-3 転落
「偉そうな口を叩ける身分じゃないけどさ。警官にとっ捕まる真似だけは、しねえでおくれよ。とにかく、どっかに行くんだろう。急ぎなよ。どこだい行先は、深川のほうかい」
「一高時代の先輩ですが。不況の煽りで会社を追ん出されましてね。東北に戻り、親父さんの会社で番頭の見習いをしているんですよ」
東北と聞いて、一瞬、佳津江が嫌な顔をした。東北だとか雪国だとかが佳津江は嫌いだ。滅多に姿を見せない旦那が東北人で、ひどい渋チンだからと祿郎は予てから聞いている。
「雪国なんざ、東京と違って寒いだろうに、もしや雪女にでも騙されてはいないだろうね」
佳津江が身震いをした。
「雪女はないでしょう、姐さん。今は昭和のご時世ですよ」
佳津江の冗談に受けて、琴乃が子供の顔で笑った。芸者衆が笑いながら頷いた。
祿郎は胸ポケットから切符を取り出すと、行く先を確認して、また仕舞った。
「ずいぶん、お急ぎの様子だね。車屋を頼んで上野の駅まで送らせようか?」
「お構いなく、足がありますから、歩きますよ。不忍池を通れば、そうそう時間が掛かりませんから。四十分ぐらいのもんです」
「〝さすけね〟だね。兎に角、気い付けて行ってらっしゃいな」
佳津江が、意味不明な言葉を口にして、こっそり祿郎の掌中に一円紙幣を忍ばせた。
「小僧じゃないのですから、小遣いを戴くなんて申し訳ないですよ」
「気にしなくっていいさね。一人息子だものさ。餞別だよ、気にしないで取っておきなよ」
餞別と聞いて、琴乃も財布を探した。様子を見て、佳津江が声に出して笑った。
「お止しよ。半玉にお餞別を貰っちゃ、祿郎さんも立つ瀬がないってもんさ」
「でも、気持ちが」
恥ずかし気に下を向いた琴乃に、祿郎は片手を挙げて別れを告げた。
汽車の切符を取り出し、〝会津若松〟の文字を眺めた。会津までの長旅を思って、祿郎は少し心が重くなった。