第48話
その日、ヴァイオレットの父親であるエヴァー子爵は降って湧いた幸運に飛び上がって喜んだ。
「ヴァイオレット! ヴァイオレット!!」
届いたばかりの手紙を握りしめ、大きな声で娘を呼びながら屋敷の中を大股で歩いた。
「なんですのお父様、朝から大声で」
「でかしたぞヴァイオレット!」
「だからいったいどうしたんですか?」
肩を強く掴みながら唾を飛ばす勢いで迫る父に、ヴァイオレットは思わず顔を顰めた。
「皇太子殿下の婚約者候補に選ばれたぞ!!」
「ええっ!?」
父から告げられた言葉はとても信じられない物だった。
「この親書を見ろ!」
父から見せられた親書には確かにヴァイオレットがノワールの婚約者候補に選ばれた事と、最終的な婚約者を決定する為に宮廷へ出廷する様にとの記載があった。
皇室の紋章の封蝋印もきちんと押されている所を見ると、偽物ではなさそうだ。
「私が、婚約者候補…」
ヴァイオレットの胸が歓喜に沸いた。
ヴァイオレットにとってノワールは幼い頃から想いを寄せる憧れの人だった。
だがノワールにはブランシュと言う公爵令嬢の婚約者がおり、ノワールに憧れの気持ちを持つ人などヴァイオレットの他にも沢山いる。
側室に選ばれる事すら狭き門だと言う事は理解していたし、何故自分が婚約者候補に選ばれたのかも分からない。
「正式に婚約者に選ばれればエヴァー子爵家の歴史の中でかつて無い栄誉だ! 何としてでも婚約者に選ばれるのだ!」
「はい、お父様!」
反射的にそう返事をしたが、ブランシュの『殿下が誰を選ぶかは、殿下が決める事』と言う言葉が頭を過ぎった。
『何としてでも』と言われてもブランシュの言うとおり選ぶのはノワールで、選ばれる立場である自身ができる事は多くない。
「こうしちゃおれん! 早速新しいドレスを作ろう! 他の候補の誰よりも立派なドレスでお前の美しさを引き立てなくては!!」
興奮さめやらぬ父は意気込んで早速仕立屋を手配させていた。
婚約者候補は自分の他にも沢山いるのかもしれないし、自分をどうアピールしたら良いのか、ヴァイオレットには分からなかった。
つい弱気になりそうになるが兎に角自分は婚約者候補としてノワールに選ばれたのだと、ヴァイオレットは自身を鼓舞した。
◇◆◇
仕立屋に作らせた何枚ものチュールを重ねてボリュームを出した菫色のドレスに身を包み、ヴァイオレットは宮廷にやって来た。
緊張した面持ちで宮廷に足を踏み入れると、アルジョンテが先にヴァイオレットを待ち構えていた。
「直接お話をするのは初めてですね。本日エヴァー子爵令嬢のエスコート役を務めさせて頂きます、アルジョンテ・ド・ロレーヌと申します」
アルジョンテはブランシュの兄でありアルコンスィエル学園の前生徒会長なので知らないと言う事はないだろうが、恭しく胸に右手を当てお辞儀をした後、ヴァイオレットに右手を差し出した。
「私のような者にご丁寧にありがとうございます。 ロレーヌ公爵令息にエスコートをして頂けるなんて、光栄でございます」
ヴァイオレットは胸で十字を切って感謝の祈りを捧げ、その手を取った。
「緊張されていますか?」
ヴァイオレットの冷たい指先から緊張が伝わって来る。
アルジョンテは少しでもヴァイオレットの緊張を解そうと口を開いた。
「はい、宮廷へ来たのも初めてですし皇帝陛下もおられるかと思うと…」
「緊張するなと言われる方が無理がありますよね。でもエヴァー子爵令嬢ならきっと大丈夫ですよ。立派なレディーですし」
「本当ですか?」
アルジョンテはその甘いマスクと美しい銀髪、スラリとした長身、おまけに公爵令息で将来を約束された地位と言う事で学園の女生徒からの人気も高い。
そんなアルジョンテからそう言われると、ヴァイオレットも悪い気はしなかった。
「ええ、それになんて言ったって我が妹のブランシュの推薦ですからね」
「え?」
アルジョンテの一言に、ヴァイオレットは耳を疑った。
しかし戸惑うヴァイオレットを余所に、アルジョンテはそのままブランシュ自慢を初めてしまう。
「兄である私が言うのもなんですが、ブランシュは才色兼備で品行方正で、人を見る目も「お待ち下さい! ブランシュ様が推薦したんですか? 私を??」」
ヴァイオレットはブランシュ自慢を始めたら止まらないアルジョンテの言葉を途中で遮った。
「そうですよ。ブランシュはエヴァー子爵令嬢を随分と買っている様でした」
ヴァイオレットとブランシュが会話したのはお茶会の後、目上の人間であるブランシュに対して生意気にも意見し、正論を叩きつけられ完敗したあの時が最後だ。
どこにブランシュに買われる要素があったのか、全く分からない。
「さあ、会場に到着しましたよ」
ヴァイオレットが困惑している間に会場に到着し、扉が開かれた。
扉が開かれ既に会場の中にいた面々を見たヴァイオレットは、これは何かの罠なのでは無いかと疑った。
婚約者候補と思しき人物が自分を含めてたった三人しかおらず、一人は騎士団の制服、もう一人は装飾の少ない地味なドレスを着ていて華美な装いをしているのは自分だけだったのだ。
想像していたのと全く違う状況に戸惑ったが、アルジョンテが引いてくれた椅子に半ば反射的に腰掛けた。
「皇帝陛下と皇太子殿下はもう間もなく参りますので今暫くお待ち下さい」
そう言うとアルジョンテは部屋を出ていってしまい、残された三人は気まずい雰囲気に包まれた。
「どうやらこの3人が婚約者候補のようですね」
赤い髪を高い所で一つに結い、騎士団の制服に身を包んだルージュが口を開いた。
「初めに言っておきますが、私はこのお話を断るつもりです。こんなとうの立った女など婚約者に相応しくないでしょう」
栗色の髪をぴっちりときつくまとめて眼鏡を掛け、茶色を基調とした地味な色目のドレスを着た女性、アンバー・ドゥ・メストレがため息混じりに言った。
その風貌は貴族の令嬢と言うよりは敏腕侍女長や凄腕家庭教師と言われた方がしっくり来る。
歳は今年で22歳になるがまだ結婚の予定はなく、本人も自分は一生独身なのだろうとすっかり諦めていた時に届いたのがこの婚約者候補の内示だった。
幾つも年上の女を皇太子の婚約者候補として選ぶなんて、よほどの訳ありとしか思えない。
いくら行き遅れ目前とは言ってもわざわざ訳ありの縁談を受けようとは思わなかった。
「そうですか。ではもう決まりですね。私も断るつもりですから」
ルージュも断るつもりだと口にすると、ルージュとアンバーの視線がヴァイオレットに集まった。
たった3人の婚約者候補の中でその内2人が断る事を前提としていた。
そうなると残る婚約者候補は1人なわけで、必然的にヴァイオレットが婚約者になる事が決まってしまう。
「えっと… 本当に3人だけなのでしょうか? もっと沢山候補がいらっしゃるのかと思っていたのですが…」
「皇帝陛下と皇太子殿下が間もなく来られると言っていましたからそうなのでしょう。つまり3人全員集まったから呼びに行かれたと言う事です」
ヴァイオレットはアンバーの説明で納得したものの、不安が募ってきた。
ブランシュが無礼を働いた自分を推薦すると言う不可解な状況で、しかもたった3人の婚約者候補の中で選ばれたいと意気込んでいたのは自分だけだった。
もしかしたらこの話自体、自分が知らないだけでとんでもない地雷なのでは無いかと言う考えが頭を過ぎったのだ。
しかしヴァイオレットがゆっくり考える間もなく、扉が開かれ皇帝のグラファイトと皇太子のノワールが現れた。




