森の女
私がまだ恐れを知らない子供だった頃、祖父からこんな話を聞いた。
祖父の住んでいた家は山中の小さな村にあり、街へ出るのも一苦労の辺境であった。周囲にあるものといえば、木々や川や、そうでなければ古びた家屋ばかりで、おおよそ娯楽といえるものはなく、大人たちはみなわざわざ手間をかけて街までおりてゆき、どこそこの飲み屋で酒に呑まれていたそうだ。
そんな辺鄙な場所だが、まだ歯の生え変わったばかりの幼い祖父がそのようなことを承知しているはずもなく、木登りや虫取り、サワガニ取りや水浴びなど、特別不満もなく、ほかの子供たちと騒ぎながら日がな一日遊びふけっていた。
ある日、祖父は虫取りのため山の方へと入っていった。大人たちから禁止されていたが、好奇心と少しのいたずら心が祖父を動かしたのだ。しばらく虫取りに興じていた祖父はいつになく活動的で、家族と山菜採りに来た時でさえ行かなかったような、深い茂みの奥へと分け入っていった。突然、猛烈な風が祖父を襲った。木々はやかましく鳴り出し、直上に構えていた太陽は分厚い雲に覆い隠され、あれほど五月蝿かった蝉の鳴き声は途絶えて、夏だというのにえらく寒気がした。
振り返って見ると、先程までの、踏み潰した草の跡は無く、代わりに——というのも妙な話だが——小さな祠があった。少し遠目からでも分かるほど古びた祠は、祖父が今まで経験したどんな恐怖——例えば雷だとか、父親の拳骨だとか、夜中屋根裏から聞こえてくる足音だとか——よりも恐ろしかった。
逃げなければと、祖父は本能で感じた。しかしまるで誰かに操られているかのように、体は勝手に動き出した。ゆっくりと歩みを進めた祖父は、とうとう祠の前にたどり着いてしまった。
近づいてよく見てみると、祠の中の石像は女体であるようだった。供え物は無く、祠そのものも大分朽ちていたため、おそらく長い間放置されていたのだろうと祖父は結論付けた。おもむろに、腰から提げた小さな鞄から握り飯を一つ取り出すと、それを石像の前に供えた。なぜそんなことをしたのかは分からないらしい。
祠の向こう側の、薄暗い茂みから音が聞こえてきたのはそんなおりだった。現れたのは、病人のように真っ白な顔の、見かけ普通の女性であった。姉ほど若くはないが、母ほど老けてはいない。
女は祖父を凝視していたが、不意に目をそらすと、供えられた握り飯を手に取り、あろうことかそれを食べ始めた。手についた米粒までねぶりとった女は、足がすくんで動けない祖父のもとまで、山を歩くには不釣り合いな和服と下駄を身につけていながらもすらすらと歩いてきた。
祖父の目の前で立ち止まり、虫かごに手を伸ばす女。かごから虫を全て取り出すと、ひとまとめにして口の中へと押し込んだ。顔色一つ変えずに虫を咀嚼する様は、到底人間とは似ても似つかぬ姿であったそうだ。
その後女は満足した——したかどうかは定かではないが——のか、元きた道へと帰っていった。祖父は一連のおぞましい出来事の間身じろぎ一つ出来なかった。不思議で、不気味なことに、祖父はその蛇のような女に見蕩れていたのだ。
糸の切れた人形のように崩れ落ち、深い眠りの中にいた祖父を目覚めさせたのは、村の若衆の一人だった。起きるなりしこたま叱り飛ばされた祖父は、これまた不思議なことに、件の奇妙な化生のことをすっかり忘れてしまっていた。思い出したのは私に話を聞かせてくれたまさにその日だったらしい。
一週間後、祖父は亡くなった。外傷は無く病気でもない、魂だけを抜かれたように。
話はこれで終わりではない。祖父の遺体は、寝ずの番をしていた兄が便所へいっている間に忽然と姿を消してしまったのだ。直前まで身に着けていた白装束を残して。——ところで君は、兄が咀嚼音のようなものを聞いた、と私が言ったら、出来すぎた話だと笑うかい?