青春労闘
男(主人公)の現状とババアのやり取りです
【わずかな情けでたすかる男】
―帰宅―
真夏、生ぬるい空気が殻のように身を包む。
ゆるく、疲れた果てた息づかいで、一歩ずつ古アパートの錆びた階段を上る男がいた。
その男の顔は堀が深く、鼻立ちもよい、西洋大陸人の特徴である。
やや薄い色素の肌色に、髪色は日光を浴び赤みを帯びた茶色。
瞳の色は澄み切った青、そこだけを見ると涼しげになるが、目元のくまと、うっすらと眉間に残るしわのせいで、強い光を見るようなにらみが現れ、哀れみを感じる顔になる。
体格は無駄なぜい肉がほとんど無く、引き締まった筋肉質なやや細めの体である。
その男の足取りは重く、鉄板をふむ足音もリズムがとれていない。
その男は2階に着くと、自室の扉に向かいながら顔の周りで回っている羽虫を手ではらいポケットから鍵を探った。
鍵は指にあたるが、なかなか取り出せないので、ポケットの布地を指でつまみ外側に出した。
男は床に落ちていく鍵とマッチ棒の本数を確認し、顔を上げ、小高くなった廊下から外の景色を遠目で見た。
建物は、街外れた傾斜な坂に並ぶ団地にあり、やや高度が高い所に位置する.
巨大な雲の影がグランシアの街並みを遊覧し、街中央にそびえ立つ赤茶色の時計台が蜃気楼でゆれる。
昨日の大雨で、地平線をゆがめる山々の白けが薄くなり、透き通る景色はくっきりしていた。
男は、その景色を見ると軽くため息をした。
「あーやだやだ、眺めているだけで熱が身に刺さるぜ」
言いながら男は落とした確認物を拾い、扉の鍵を開けた。
扉が開くと同時に、足元に土を軽くこする音が聞こえる。
男が見下ろすと、足元に数枚の厚紙と茶と白の封筒が散らばっており、
扉の風圧でめくれた紙が地面に再びはり付いた。
男は背負ったザックを、部屋の中央にあるダイニングテーブルに投げた。
ザッグは緩やかな弧を描きながらテーブルの中央にどすんと落ちる。
ゆっくりと中腰になり郵便物を拾い、一番上の書類の向きをそろえ、紙についた細かいじゃりを手ではたいた。
「そろそろポストを修理しないと空き巣くらうな・・・・まぁとられるものは酒以外無いが」
男は言いながら重重と腰を上げ、扉の中央下に空いた郵便物の入り口らしき長方形のスキマに指をかけ、扉を閉めた。
書類を眺めながら、靴のつま先を床に打ちつけ、乾きへばりついた泥をおとす。
厚紙の一枚は、役所からの通達だった。
どうやら前日の雨のおかげで、先々週から行われた節水のための、一時的な水道料金の値上げが解除され、通常料金に戻るそうだ。
「ありがたいねぇ、微々たるもんでも今の俺にとっちゃあ目の飛び出るはどの朗報だ」
男はベッドに向かいながら、片方の指であごをかき、引きつった口で笑顔を演じた。
役所からの通達をベッドよこのサイドテーブルにおき、そのまま、ベッドの端に体の空気を抜くように腰を下ろした。
座った瞬間、たまった疲れがベッドのきしみとともに、下に吸い込まれる感覚が体中をかけめぐった、と同時に立っていたときに無意識になっていた疲れが頭の中に流れ込み、一瞬の眠気をさそった。
男は目頭を指でおさえ、次の書類に目を通す。
その書類は見出しだけを読むと、すぐに役所の書類の上に置かれた。
「興味が無いわけではないが、生活費を削って取り入れるには値が張んだよな」
魔効学会(魔法効能生活基盤学会)の外交販売のチラシだった、健康補助の魔効薬が、新商品として販売されるといった内容だ。
このような効能製品の出現で、近頃の食生活が変化し、現在の社会問題となりつつある。
その問題というのは、効能製品に頼る食生活者の増加にともない、1日に必要なカロリー摂取量がとる人が減少するといったものだ。
戦前はどんな職業でも、カロリーは必要不可欠で、それを摂取する食事も、仕事の一環として大きく貢献するものだった。
しかし、第二次大陸戦争から17年たった今、時代の流れによって世間の求めるものは変わっていく。
これも、戦争中に大きく発展を遂げた「魔法」という技術革新があったからこその影響である。
男の部屋の中央で、ほこりを被りながら、ぶら下がっているランプの元となる燃料も、
もうオイルではなくなった。
今ではこのランプの中は水質エーテルを利用している。
水質エーテルからの精製されるマナを、真空ガラスの中央に浮いてある魔法化合成した球体の反射プリズムに反応させ発光させている。
オイルを利用したランプと比べ、発光効率は5倍にまで増した。
社会に魔法というものが介入し、人々の生活は大きく変化したが、すべてがいい方向に変化したわけではなかった。
有名な事例は、戦後の復興期に各地の都心で多く建てられた、魔法機科学工場の公害問題である。
この公害が原因で都心周辺の魚と水鳥が、汚染水により絶滅に追いこまれた。
他にも、魔法の社会介入によって、戦前1・2次産業中心だったグレイカラーの世の中から魔法学のレッドカラーへの移り変わりで、需要の変化による大量解雇が社会問題となった。
この色分けは、最近になり造られたものであり、魔法学の研究者が着用する黒い外衣の裏地の色の赤と、労働者の多くが着ている作業着の灰色で区別された、新造語である。
公害問題はおおかた落着したが、解雇問題は、当時より下火となった今も続いている。
他にもごく最近の問題では、魔工電子情報の技術の発展により、写本の複製が容易となり、海賊版が流出し、出版物の軽薄化に関する問題が、たびたび新聞に取り上げられている。
新たな儲かり口として、違法な複製品を取り扱う輩が増えている。
男の部屋の壁に張られている、町の見取り図と、グランシア地方の地形図も、街の路地裏で構えている、複製品を取り扱う行商人から安価で買ったものだ。
このように魔法の発展によって、法的措置、自然環境、社会雇用、さまざまな分野で問題を生んだ。
だが、それ以上に人々は魔法を求めた。
急速に発展を遂げ、そして日常に取り組まれていった魔法は月日とともに、社会になじみ、その問題に誰も疑いを持つものはいなくなったからである。
「げっ、もうそんな次期かよ」
男が噛みしめながら見た茶封筒のあて先人は、税務署からであった。
男は、乱雑に指で封筒の口を破いた。
中にある書類は、男が感づいたものと一致した、区間土地税の支払い期日が記された納付書である。
この税は、土地を持って区域内に住居する世帯に、四半期ごとに徴収される税金である。
この男の場合は借家なので半年ごとの徴収になる。
「まずいな、今月の家賃まだ払い終えてないのに・・・」
方眉を上げながら読む内容は、男の倦怠感を蓄積させていく。
区間土地税は地方役所に直接支払い行く方式である。
「前々からわかっていてもいざ手元から金が飛ぶとなると、金のありがたみと自分の立場の危うさが改めて実感できんな、はは」
やる気のない笑いが、男の口からでる。
その男がまだ十代だったころ、納付書が事の拍子にベッドの下にもぐり込み、そのまま納税のことをとり忘れてしまったことがある。
その後、役所から更新期限内の納税を促す督促状をうけ、水をはじいたように焦りをかいた。
職場の経理課の女に頭を下げた、給料の前借をしたのはそれが初めてだった。
その女はあきれた様子も無く、煙草をくわえながら慣れた手つきで借用書を書き上げ
「こーゆうのは癖になっちゃうんだよね、あいつらみたいに。あんたも二の鉄を踏みたくなきゃこれが最後になるように金の融通をきかした人生をおくんな」
と忠告と煙の息を吐き、机にひじをつきながら、男に借用書を渡した。
その翌日、男と似たような境遇におかれた人々であふれかえる役所に行った。
その人ごみの中で、同じ同業者の知人4人と遭遇したときは、妙な親近感を感じたが、その全員が、賭博や遊女に給料をつぎ込み、賃金業者に通い詰めのうわさが耐えないのを思い出し、経理課の女の台詞と一緒に、不安感が体を走ったのはその日の思い出だ。
そして今、現状の自分と、そのときのいあわせた同業者と重ねたときに、共通する部分をいくつか確認したが、追われるようなあせりは無かった。
その納付書を茶封筒の中にもどし、サイドテーブル上の外交販売のチラシの上にかぶせた。最後に手に残ったのは背を向けた白い封筒だった。
男は軽くにらみをきかせた。
この封筒には見覚えがあるからだ。
そしてその中に備わっている内容は、たいがい男の理想に合わないことづてが記されている。
封筒を裏返すと、「グランシア西大陸剣兵協会」のあて先が目に付いた。
この男の勤め先である。
男はむんと口をつむり、手首の力をぬき封筒をひざの上に倒す。
軽く顔を上げ、どこに焦点を合わせるわけでもないが、前を向いた。
何か心当たりがないか考えようとしたが、数秒の間ののち案ずるが産むが早いと決め、
「さて」と、軽い意気込をいれた。
男は両脚に力を入れ、腰を浮かし座りを直した。
そして軽く背を曲げ、ひざを開きその上にひじをかけ、ゆっくりと封筒の口を破く。
中の書類を取り出し、やぶれた白封筒をサイドテーブル下のゴミ箱に入れた。
紙の両端を軽く張るように持ち、男はしばらく黙読した。
わずかの間、部屋は壁かけ時計の針の音をのぞいて、静けさにつつまれた。
男は読み終えると目を閉じ、ため息と同時にだらりと体の力をぬいた。
次に上体を後ろに押し出し、ベッドに倒れこみ「っかぁ」と男は嘆くように息を吐き、
腕をのばしながら「のび」をした。
男は目を開けた。
目に映るのは、毎朝拝む朽ち気味の木の天井だ。
書類を顔の前にだし、もう一度流し読みをする。
「派遣先が変更、ならまだしも、出勤日があさってにくり上げかよ・・・発行日時が15日前じゃねぇか、なんでまたこんなぎりぎりになるんだ・・・遠征帰りにこの仕打ち、気が滅入るぜまったく」
男の手に持っている紙は、勤め先からの指示書だった。
内容は依頼先の変更に伴う、出勤予定日の変更。
依頼用件は、変更前の配送の護衛と変わらなかったが、詳細は後日通知と書かれていた。
男は、勢いをつけ立ち上がり、台所に向かう足の途中で部屋中央のダイニングテーブルにその書類を手放した。
書類はテーブルの上を滑り、上においてあったザッグの隙間に挟まる。
男は台所の奥に入り、頭上の棚から中身が半分ほどはいっている、細長い酒瓶を取り出した。
テーブル戻る途中、流し台においてあるグラスを指で拾い上げる。
グラスの底にめがけて息を吹き込み、埃を取り除くが、そのグラスの鈍い光沢がかわることは無い。
「期待通りに自分を持っていかせることができるのは酒だけだ、今のことはしばらく間忘れても誰も責めやしないさ」
酒瓶のコルクを奥歯でねじ込むようにあけた、どうやら男は残りの酒を飲みあげるつもりだ。
瓶の口にグラスを当てようとした寸前、扉をたたく音が男の動きをぴたりと止めた。
男は瓶の口から目線を上げ、ため息とともにくわえたコルクをテーブルの上に吹き飛ばし、玄関のほうを警戒するように向いた。
再び戸がたたかれ、男は酒瓶とグラスを静かに手元においた。
玄関のほうに立ちより、のぞき込むように扉を見る。
受け皿の無いポスト口から入り込む外光は、ドアをたたくものの影によってさえぎられていた。
「どちらさんで?」
男は期待なしに問いかけた。
「アテイル!戻ったならうちのとこによってくのが礼儀ってモンだろ?やるべきことをやってからこの部屋の扉を開けるのが順応じゃないのかぇ?」
ガラついた老婆の声が扉越しでも良く響いた。
「あーそのとおりです、まったくもって・・・そのとおりです、ですが大家さん、俺は上がる前にちゃんとお宅にお伺いしたんですよ、戸をたたいても返事が無かったもんですから改めて伺おうとしたまでです、もちろん前に言われたとおり裏にも回りましたよ、育てていたコスモスがきれいに咲いていましたねぇ」
「お世辞ならほかでやりな、ありゃあ、アスターだよ。」
少しの間をおいてアテイルは、扉から軽く目をそらし、再び扉を見ると、ポスト口からのぞいているぎょろついた目と合った。
その目は大きく見開いており、その赤茶色のにごった目はアテイルを完全に捕らえていた
「老体に階段を上らせてそのままにしておくのかい?」
「あぁ・・・どうぞ」
「お邪魔するよ」
ゆっくりと扉が開くと、その目の持ち主が姿あらわした。
根元まで染まりきった白髪、折りたたんだように深い顔のしわ、少し前かがみになっている丸い背のせいで、大きく突き出た鼻が進行をしめす矢印のようになっていた。
大きく見開いたその赤いぎょろ目のおかげで顔面に妙な威圧感がわく。
片手に細かな刺繍がほどこされた黒い日傘が握られている。
老婆はそれを杖代わりに使い、三本の足が地に張り付くような歩調で玄関に入った
アテイルは、その様子をうかがいながら、部屋中央へ足を運ぶ。
老婆はポスト口に指先をかけ、扉を閉めながら愚痴をこぼした。
「いやだねぇこの暑さ、この時期になるとお空はめまいがするほどの猛暑か、樽をひっくり返したかのような大雨かのどちらかだよ、真ん中は無いのかねぇ」
「はは、動きにくい季節になりましたね」
話の調子を合わせながら、老婆に座らせるダイニングテーブルの椅子を引き、上においてあるザッグと指示書をベッド横のサイドテーブルに移した。
「コーヒーなら用意できますよ、あぁ紅茶もあります」
紅茶は一月前ほど、大家の孫娘シアラにもらった、地方土産だ。
湿地帯の指定害獣の討伐直後で、返り血とケモノ臭が染み付いたアテイルに、紅茶の葉が詰まった麻の袋を、幼さが残る笑顔で渡してくれた帰路の思い出は、心の名残である。
その後、飲みなれないものを渡されたアテイルは、紅茶を飲むための用具がもちろん無く、カップの中に葉を入れ、直接お湯を注いだ。
アテイルが初めて拝む地方の高級紅茶は、底に沈んだ葉が見えなくなるほど濃い赤でそまり、薬のような味がした。
「ありゃ、ここにあるものは、候補にないのかぇ」
老婆はしわの入った指先で、目の前にある酒瓶を軽く爪で鳴らした。
アテイルは酒瓶のほうを向き、まゆをわずかにひそめた。
「それ、書いてあるとおりバーボンですよ、さすがに大家さん、昼間から飲むには度が高すぎます、酒なら他にありますよ」
アテイルは自分を棚に上げるように語ったが、自分の部屋なので遠慮はしなかった。
というよりも、その酒が彼にとって一番高い生活品なので、できたら他の酒をあたってほしかった。
老婆は、持っていた日傘をテーブルの端にかけた。
「正しく飲めば、お酒は体に良いものだよ、あたしゃ今がその時なのさ」
老婆は椅子に腰掛け、目の前に置いてあるグラスと、バーボンを手元に寄せる。
バーボンの栓がすでに開けられていることなど気にもかけず、グラスをその大きな鼻の前に持ち上げ、波打たないように静かに琥珀色の酒を注いだ。
毎度のようなこの状況、アテイルはこめかみを軽くかきながら台所に向かい、腰の高さに位置する引き出しを開けた。
開けたときの勢いでガラス音が響き、棚の奥からコルク栓が転がる。
中には底が広いグラスがいくつか並び、ソムリエ・ナイフが開いたまま置かれている。
アテイルは酒が注がれているものと同じグラスを手に取り、老婆が座る、テーブルの向かい側の椅子を引きながら、差し出すようにそのグラスを、テーブルの上に置いた。
老婆は、置かれたグラスにすぐに酒を注いだ。
アテイルは、酒が注がれる老婆の手に持っている酒瓶の残量を、上目でちらりと見ながら座った。
老婆が酒瓶をテーブルに置くとその中身は3センチほどになった。
「あんたが部屋を入る姿を学校帰りのシアラが教えてくれたんだよ、ここ数日連絡がないもんだから、先月分の滞納をすっぽかして雲隠れでもしたのかと思ったよ、まったく」
老婆は冗談交じり鼻で笑い、グラスを口元に運ばし、味わうように一口飲んだ。
「はは・・・俺も遠征がこんなに長引くとは思ってなかったんですよ、先月分の滞納金を送ろうとしたんですが、先週の豪雨で事業者が完全に麻痺して、連絡も送るに送れなかったんです、あの雨じゃ、魚も泳ぐ気にはなれません」
アテイルはテーブルに右ひじをつけ、こぶしでこめかみを支えた。
揺らしているグラスの水面に小さな埃が浮く。
「まぁねぇ、しかし魔電式書も使えなかったのかい?」
「遠征先がバーザル山地だったんです、付近の村は街灯がないほどの田舎です」
「あんたが決めた予定日じゃないか、合間をぬってでもできなかったのかい?」
「本来だったらそのふもとでの討伐をすまし、すぐにコトル町で電式(魔電式書)を送りたかったんですが、着いてすぐのあの豪雨。ふもとで土砂崩れがおこったんです。そのせいでそこで仕留めるはずのイシバリが山上に逃げ込んで、それを追っていくうちにいつの間にか峠まで、あぁ、昨日まで俺も野生でしたよ」
アテイルは、グラスの酒を胃に流し込むようにぐいと飲んだ。
「イシバリ」とは、今回の任務で討伐したイシバリグマことである。
クマ科の生き物で、関節や、頭部、脊髄にかけて石鎧のようなうろこがあることからこの名称がついた。
体調は2メートルから大きくても3メートルほどで、普段は山奥で地面を掘り、根城を立て集団で生活する。
しかし、まれに数が増えすぎると、食料が山だけでは補えなくなり、3・4匹が郡を組みふもとまで下りてくる。
その場合、主に周辺地域の村の農作物を荒らすのだが、ひどいときは人も食らう。
初夏に、バーザル山地付近のふもと道で、貿易商の荷馬車が襲われたとの報告があり、地方自治を通じて剣士協会に討伐の委託がかせられた。
アテイルたちに与えられた仕事は、そのイシバリグマを数匹しとめ、その死体を町周辺のカカシにすることだった。
しかしアテイルたちは、山頂付近でしとめたので、直接死体を村まで運ぶことができなかった。
仕方なしに、アテイルたちはその場でイシバリグマの腹を割き、詰まっていた中身を手づかみでだした。
腹を割いたときの耐え切れない臭いは思い出すだけで鼻が曲がる。
しかもそのイシバリグマの抜け殻をかついで下山しなければならなかったのである。
その臭いは、そのとき着用していた防護服にいやおうなく残った。
「ヘェ、そうだったのかい、それは災難だったねぇ」
老婆が、せせら笑いながら語り、アテイルの苦労話を肴に酒を飲みきった。
「で、どうだったのさ、やったのかぇ?」
「でないと家に帰れないです」
「そりゃあ、甲斐があったてもんだねぇ」
アテイルは、空になったグラスを差し出したが、老婆は気にもせず、残りの酒を自分の方に注いだ。
「でも延滞は、延滞だよ」
老婆は、上目づかいで刺すようなにらみをきかせると、アテイルは視線を下にそらし、静かにグラスを手元によせ、自分の立場を改めて感じた。
老婆は、最後の一滴まで落とすように酒瓶を急角度に持ち合わせた。
「まぁ、あたしも大きいとはいえないが、持ち合わせた器ってのはあるんだよねぇ」
老婆は空瓶をテーブルに置き、琥珀色のグラスを持ちながら深く椅子に腰掛けた。
アテイルは胸の奥の鼓動がわずかにふくれ上がった。
アテイルはまぶたを持ち上げ、老婆のほうにゆっくりと目を移した。
「今回はやむ終えない理由もあることだし、延滞料はこれで払ったことにしてやるよ」
老婆は、手に持つ酒を見せ付けるように軽く持ち上げ、にやけるとアテイルと目を合わせた。
アテイルはその言葉をきき、胸をなでおろした。
飲まれる酒が、約束を守れなかった代価にしては安価なものと思ったからだ。
アテイルはほころんだ顔で一度小さくうなずき。
「はは、どうも助かります・・・・・・長生きしてくださいよ大家さん」
と片手を突き出し、おだてるように感謝の意を告げた。
「あんたにゃ、まだ居てもらわないとこちらとしても困るモンがあるからねぇ、けけ」
わずかに酔いが入った老婆は、吸い込むようにグラスの酒を飲み干した。
老婆はグラスを打ち付けるように置き、鉛を担いだように重い腰を上げ、立ちあがった。
「お金は明日うちにもってきな、あたしゃちょいと用事で夜まで出かけてるからルシアラに渡すんだね、このことはあたしから話しとくよ、それじゃあよろしくたのむよ」
そのまま、地に張り付くようなゆるい足取りで玄関に向かう。
「わかりました、そのついでに今月分の宿代も一緒に払いますよ」
アテイルも立ち上がり、老婆の後について行った。
「ありゃ、これまた滅多なことをいうじゃないか、あんたが支払日より早く払うなんて、そのお金はきれいな金なんだろうね?」
老婆は、玄関の扉を半分ほど開け振り返り、皮肉をきかすように問いかけた。
「やるべきことをやるまでですよ、余裕あるうちに」
アテイルは、老婆が椅子に置き忘れた黒い日傘を差し出した。
風景はありがちな西洋ファンタジーを思い描いていただいたら