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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

アジア ノ ココロ

Sky of Tibet

作者: 黄色のえご

 ああ、うるさい。

 まったく、誰の足音だ。

 廊下は、走るなと、きつく言ったはずなのに。

 せっかく、落ち着いた、精神が、乱れてしまう。


「師兄!」

 そう言って、私の僧房の扉を開けたのは、弟弟子の一人だった。

「どうした」

 私は、努めて平静に、返事をした。

「表に、兵隊たちが、この寺院を、取り囲んで、います」

 上ずった声。

彼はよっぽど慌てていたようで、息も荒げに、私に報告をした。

「ど、どうしましょう、我らだけでは、とても」

 ついに、来るべき時がきたか。

私はやおら立ち上がり、袈裟を捲りあげた。

「話せば、彼らも分かってくれるだろう、私が行こう」

 不安気な顔の彼を残し、私は僧房の扉を開けた。

 うす暗い部屋から、光溢れる外へ。

寺院の上に広がる空は、どこまでも、青かった。

 ああ、こんなにも青い。

こんな青さは、あの頃を思いだす。

 まだ、平和だった、頃を。



 あれは、今からどれぐらい前だったろうか。

 私は、師匠の言いつけで、経文を届けるために、道中の町を訪れていた。

さすがに各宗派の寺院が集まる町は、とても賑わっている。

私が属する小さな寺院とは、比べ物にならない。

 行き交う人々、様々な物が並ぶ露店、そして、寺院と王宮。

俗世の明るさとは、こんなにも騒々しいのか。

 私は、聞き慣れない言葉が、方々で聞こえるのにも気づかず、町をひたすら、歩いていた。

 その時だった。

 後ろから、誰かがぶつかる感触。

思わず私はよろけ、咄嗟に詫びの言葉が出た。

 だが、ぶつかったと思わしき人は、その場から立ち去っていたのか、返事は無かった。

 ああ、人の心はこんなにも貧しくなってしまったのか。

そう思ったが、それは間違いだったと気が付いた。

 懐にあった経文入りの巾着がなくなっていた。


 私は、町中を必死で走った。

 あれは、あの経文だけは、なくしてはならない。

師匠に託された、大事な大事な経文。

 路銀はなくしても構わない、だが、あの経文だけは。

慣れない町を、誰が盗ったか分からないまま、さ迷い歩き続ける。

 私は息が上がり、膝から崩れ落ちた。

「お坊さん、探し物はこれかい?」

 突如、声がした。

見上げると、目の前には、見覚えのある巾着を持つ男が一人。

 私は、ただ、口を魚のように動かすことしか出来なかった。

「この辺も、手癖の悪い奴が増えたな、お坊さんから盗みを働くなんて」

 彼はそう言って、足元で伸びている者を蹴り飛ばしていた。

「蹴るなんて、いけないことだ」

「いけない?どこが、コイツはお坊さんから盗みを働いたんだ、手を切り落としてもいいぐらいだ」

 態度は悪いが、彼の性根はいい人だ。

その時の私は、不思議と、そう思っていた。

「はい、これ返すよ」

「ありがとう、助かりました」

「この町には、こういう奴もいる、大事な物、盗られないように気を付けなよ」

「はい、肝に銘じておきます」

「じゃあな、お坊さん」

 そう言うと、彼はそのまま町中へと消えて行った。

 私は巾着を、大事に懐へ隠すと、今夜の宿を見つけるべく、寺院のある方へと向かった。


 私の旅はさらに続いた。

全て徒歩の旅とはいえ、目的の場所まではまだまだ遠い。

いくつもの川を越え、峠を越し、巡礼をする者達とも出会った。

 そして、行く先々で、彼の姿を見た。

ある時は、町の土産物屋で、ある時は食堂で、またある時は寺院の中で。

偶然で片づけるには、あまりにも不自然なぐらい、彼は方々で姿を見せた。

 何度目かに出会った時、私は思い切って話を持ちかけた。

「君とは行く方向が同じようだ、良かったら一緒に旅をしないか」

 私の提案に、彼は二つ返事で了承してくれた。


 澄みわたる青空の下、私たちは巡礼者の道をひた歩いた。

彼は外からの旅の者だと名乗り、外の世界で何が起きているか、私に語ってくれた。

目まぐるしく変わる世界、人々がフロンティアと呼び、未踏のこの地に夢と欲望を求めて押し寄せていることを。

「町で聞き慣れない言葉を聞いただろう?あれがそうだよ」

 そう言って、彼は空を見上げた。

「ただ、悪い奴もいれば、いい奴もいる」

 悪い奴、それがどういう意味なのか、私は問わなかったが、彼の表情からするに、大きな存在なのは見て取れた。

「俺が見た中で、いい奴だったのは、絵描きの奴だったな」

「絵描き?」

「そう、何とも言えない、不思議な雰囲気……とでも言えばいいのか、とにかく変わった奴だった」

「それでも、いい奴だったのだな」

「おかしな話だけどな」

 私と彼は、顔を見合わせて笑い合った。

「その絵描きの絵は、なんというか、きれいな青の絵だった、ちょうど、この空のように」

 見上げた先、どこまでも青い、雲一つない空が広がっている。

私の赤い袈裟とは対照的な、青い、青い、澄み切った空。

この空は、この世界だけではなく、外の世界、いや、その果て、三千世界の果て尽きるところまで続いているのだろう。

そう思うと、私の心は不思議と熱くなった。

「話が過ぎたな、先を急ごうか」

 彼の言う通り、私たちは目的の地へと足を速めた。


 目的の場所が近づくにつれ、徐々に巡礼者の数が増え、私たちの視界の中に入ることが多くなった。

「あいつら、何をしているんだ?」

 彼の問いに、私は答えた。

「五体投地だよ、ああやって功徳を積むんだ」

「時間がかかるし、何より非効率じゃないのか?」

 私は頭を振った。

「そうじゃない、効率とかそういう話ではない、行為自体が意味を持つんだ」

「良く分からんな」

 私から見れば、あたりまえのこと。

しかし彼ら外の世界からの人にしてみれば、五体投地というのは、どうも奇異に映るらしい。

「それじゃあ、あれは?」

 彼の指差す先、峠では、紙をばら撒く人がいる。

「あれは、ルンタ、紙には馬の絵が書いてあるんだ」

 ラーギャロー

かけ声が響いている。

「何か言っているのか?」

「ラーギャロー、神に勝利あれ、だ」

「あんなにばら撒いて、あちこちに散らばっているじゃないか」

「それでいいんだよ、ルンタは風に乗って、世界に教えを広めている」

 ルンタは、風の馬。

その名の通り、風に乗って、どこまでも駆けてゆくもの。

 ここは高地ゆえ、季節によっては、風が強い日が続くこともある。

時には、歩くのが困難なほどの強風が吹き荒れる。

だが、風の馬はその強風を乗りこなし、世界の隅々まで駆けめぐるという。

 古来より続く、この地の風習だ。

「そういや、お坊さんはどこから来たんだい?」

 今まで、その質問がないのが不思議なぐらいの時間が過ぎたころ、彼は私に問いかけた。

「ここよりずっと東、カムの地からだ」

「そこはどんなところなんだ?」

「そうだな、草原がある、遊牧民も多いし、そこらじゅうにヤクがいて、草を食んでいる」

「ヤクなら、この道中でも見たぞ」

 彼の言葉に、私は思わず笑ってしまった。

「数が違う、もっと、もっとたくさんのヤクがいるんだ、視界の続く限りの草原に、ヤクがいるんだよ」

「確かに、こっちは草原自体があまり広くないからな」

 そう言って、辺りを見回すと、私たちの周りは、荒涼とした風景が広がるのみだった

灰色の地に、青空ばかりがある、住むには過酷すぎる世界。

「そして、夏になると馬のレースがある、私は仏門ゆえ参加できないが、俗世の者達が楽しそうに参加しているのを見たことがある」

「へえ、面白そうだな」

「興味があるなら、一度来てみるといい、きっと気に入るはずだよ」

「ああ、そうだな」

 私たちは、荒涼の世界をただ歩く、その先に、目指す場所があるから。


 さらに幾つかの峠を越し、道が緩やかな下りになったところで、突如視界が開けた。

 大きな湖と、湖の背後にその身を置く雄大なる山。

 私たちは目的地へと辿り着いた。

「ここが、お坊さんの目指す場所かい?」

 そうだ、と私は答えた。

「麓は賑わっているようだな、皆、巡礼者なのか?」

 その言葉に、私は答えなかった。

何故なら、たどり着いた嬉しさと、聖地をこの目で見ることができたという感動に、心を一杯にしてしまったからだった。

 私たち二人は、長い時間、ここで立ち尽くしていたように思う。

彼が歩いているのに気が付いた時、日はほんの少しだけ、傾いていた。


 大きな山の麓、ここに巡礼の拠点となる小さな町があった。

私たちはここで、一休みしてから、山を回ることにした。

 眠りにつく直前、私は師匠から託された巾着を、おもむろに取り出す。

絶対に開けるな、と言われた巾着、それを手に乗せる。

 大きさの割に軽いそれは、何か硬いものが入っているような印象を受けた。

 コルラの途中、ラの上でそれを行え。

うつらうつらとしながら、私は師匠の言葉を思いだしていた。


 翌日、私たちは山を回るために、早起きをして、それに望んだ。

祈りのコルラ、巡礼の道のりを、黙々と歩く。

 オム マニ ペメ フム

真言が、自然と口をついて出た。

今日、一日で、この山の周囲をコルラしなければいけない。

巨大な山、空気は薄く、道は長い。

 オム マニ ペメ フム

勾配のきつい道を、峠に向けて、歩き続ける。

昨日までの余裕など、とうに無く、お互いに無言のまま、私たちは進んだ。

 そこかしこで、五体投地の人が見える。

彼らは、私たちよりも、はるかに長い時間をかけてコルラするのであろう。

 オム マニ ペメ フム

信仰厚き人々のため、そして共に旅をしてくれた彼のため、私は真言を唱え続けた。

 オム マニ ペメ フム

一つ唱え、数珠を一つ動かす。

袖の中で、数珠の輪が回転をする。

輪廻を繰り返し、転生を続け、いつか解脱に至るその時まで、この回転は止まらない。

 オム マニ ペメ フム

 私は、歩き続けた。


 どれほどの時が過ぎたのだろうか、

気が付けば、日は大分高い位置にある。

 私はゴンパを背にし、大いなる山を見た。

 白い雪をその身にまとい、一つ峰で独立している、聖なる山。

紺青の空に、白が鮮やかに生え、それはこの世のものではないかのような錯覚を覚えた。

 ああ、ここに来て、よかった。

私の口は、感嘆の声を上げていた。

巡礼者も、この景色を前に、皆同じようなことを思っているのだろう。

 しばしの休息をし、私たちは川を越えて、さらに進んだ。


 道はさらに険しさを増していた。

大きな岩が転がる難所にさしかかり、私は、もうすぐそこが見えるというところまでやって来ていた。

 色とりどりの旗が見え、崖の向こうで、巡礼者の声がする。

よく見ると、足元の岩には、ルンタが挟まっていた。

 私は、それを摘みあげて、空へと放り投げた。

 ラーギャロー

ぽつりと呟く。

 ルンタは風に乗って、どこかへと駆けて行った。


 そこかしこに、はためくタルチョ。

私は、ついにそこへ辿り着いた。

 師匠との約束の通り、私は懐から巾着を取りだし、おもむろに中のものを取りだした。

 コルラの途中、ラの上。

 最も険しき、峠の上。

ここで、私はそれを空に撒いた。

「ラーギャロー!」

 透けるような薄さの経文が、空へと舞い上がる。

私は、それを感慨深く見つめていた。

 その時、背後から声がした。

「お坊さん、それが、使命だったのかい?」

 振り向くと、大きな岩の上に、彼が座っていた。

「そうだ」

 私が答えると、彼はにこりと笑顔を見せた。

「使命、果たせて、よかったな」

 彼はおもむろに立ち上がった。

「あぶないぞ」

 私の忠告を無視し、彼は岩の上で背伸びをするように、天へと手を伸ばした。

「俺は、これを、捕まえにきた」

 彼の目は、まっすぐ上空を見つめている。

「どこまでも、青い、この、空を」

 高く、高く、彼の手が、天を掴もうと、指を伸ばす。

「あぶない!」

 手が、何かを掴んだかのように、丸まったその瞬間。

彼の足元の岩が、大きく動く。

 咄嗟に目を反らし、私は、その音がするのを覚悟していた。

だが、音は全くせず、そこかしこで巡礼者の声がするのみだった。

 私は、恐る恐る目を開け、彼の姿が見えないことに気が付いた。

「どこに行ったんだ?」

 彼のいた、岩の影をのぞき込む。

だが、何もない。

 辺りを見回しても、彼はいない。まるで、最初からそこにいなかったように。

 思わず、周囲の巡礼者に、声をかけた。

「すみません、私の同行者を見ませんでしたか?」

 返答は、驚くものだった。

「同行者?いいえ、お坊さんは、ずーっと一人でコルラしていましたよ」

「え……」

 一人、そんなはずはない、私はずっと彼と一緒だった。

「では、お坊さん、私たちは急ぎますんで」

 巡礼者たちは、先へと進む。

 私は、何が起きたか、理解できずに、ただ、茫然としていた。

「彼は、この岩に、いたはず」

 もう一度、その岩を見る。

動いたような跡すらない、岩。

確かに、彼はそこにいた。

そこで、何かを掴もうとしていた。

 再度、岩をよく見た時、そこに、岩ではないものが落ちているのに気が付いた。

 青い、石。

透き通るような色、この青い空を閉じ込めたような石。

「これを、捕まえた、のか」

 石を手に、私は空を仰ぎ見た。

 澄み切った空、天はどこまでも、青かった。


 その後、私は無事にコルラを終え、山の麓の町へと戻った。

昨日、泊まった宿に戻ってみるも、やはり、彼の姿はなかった。

 そして、カムの寺院へと戻り、師匠に旅のことを報告する。

師匠は目をつぶり、私の言葉を、一つ一つ頷きながら、丁寧に拾い、聞いてくださった。

 話はコルラのことに至り、私は、その時に拾った例の石を、師匠に見せた。

またも師匠は、うんうんと頷き、この石を大事に持っていなさいと言ってくれた。

「これは、お前が持つべきもの、尊き天の石だ」

 私の手を、師匠の皺だらけの手が優しく触れる。

「お前は、尊い体験をした」

 師匠の手は、力強く、私の手を握っていた。



 寺院の外へと歩く私の身体を、何かが通り抜けた。

 あつい。

そう思った時、私は、その場に崩れ落ちた。

「師兄!」

 背後から、弟弟子たちが、走って来るのが見える。

 だめだ、来るな。

 声が、でない。

駆け寄る僧たち目がけて、寺院の外から何かが放たれる。

放たれたものが、何か分かった時、僧たちが次々に倒れた。

 悲鳴が、聞こえる。

動かない私を横目に、彼らは寺院の中へ突撃していった。


 何かが、壊れる音がする。


 いき、が、でき、ない。


 ああ、空が、あかくなる。


 尊き、天、尊き、青が、きえてゆく。




 やがて、目の前は、暗くなり、私の、心臓は、鼓動を、止めた。



 1950年。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 面白い。 [一言] 悲しい結末でした。
2019/02/11 01:22 退会済み
管理
[良い点] 記念すべき第1作目オメデトウございます。夢のような世界と一人の僧の深層模様の表現が良く伝わってきました。最初の始まる出だしの描写と終わりにくる振返りの描写の部分にもう少し繋がりの話が聞きた…
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