二〇四四年八月十一日(木) 十二時五十一分四十五秒 東京都上空
「川崎駅まで後どれくらいだ?」
「このペースでいけばあと九分程かと」
ヘリの中、夏帆は周囲を警戒しながらパイロットに到着時間を聞く。
「九分か。歯がゆいな」
内心かなり焦っているのか、万智が苛立ち気味に軽い貧乏ゆすりをする。
「気持ちはわかりますが、落ち着きましょう特曹。焦りは禁物です」
「すまない。分かっている」
「私も出来る限り飛ばして……通信です」
突然通信が入り、パイロットは会話を止めて通信をつなげる。
「洲崎特曹、こちら粕谷特佐。地天海構成員と思われる男と現在の状況について変化が起きた為、情報の共有をしたい。オクレ」
「粕谷特佐、こちら洲崎特曹。情報共有について了解しました。オクレ」
「まず目撃証言にあった男の特徴について纏ったので報告する。男は身長百七十センチ前後、髪は黒、二十代の痩せ型、服装はビジネススーツに革靴、アジア系の顔立ちをしているとのことだ、オクレ」
「男の特徴について承知しました、オクレ」
「次に状況についてだが、川崎駅とその周囲を取り囲むように直径一キロ程の氷のドームが出現した、オクレ」
「!」
万智は慌てて眼鏡を外すと、窓から川崎駅の方向を見る。
かなり遠方で気が付かなかったが、確かに川崎駅があるべき場所に、不自然に光を反射する巨大な物体が見える。
「氷のドームについて今捉えました。オクレ」
「恐らく男はこのドームの中に居るものと思われる。更に逃げ遅れた民間人がドーム内部に取り残されている可能性もある。既に現地で氷の破壊に取り掛かっているが、氷が分厚すぎてまるで歯がたたない。しかもいくら砕いても、砕いた端からすぐに元に戻ってしまうそうだ、オクレ」
「了解しました。氷と取り残された人達についてはこちらで何とかします。オクレ」
「本作戦については基本的に地天海対応マニュアルを準拠とするが、前回と同様、現場での判断を最優先とする。また地天海に対しての君のあらゆる行為を承認し、連隊長の責任において処理する。幸運を祈る、オワリ」
「了解!」
万智は無線に向かって敬礼をする。
「特曹、川崎駅まで後約五分です。こちらも氷のドームを確認しました。あのドーム中央付近まで飛ばします!」
「ああ、よろしく頼……ん?」
一瞬、ドームの方向から不自然な反射光が見えた。
気のせいかと思ったが、万智は念のため目を凝らして光の正体を見定めようとする。
「っ!」
その光の正体に気がついた万智が、慌てて右手を前に突き出した。
直後、金属を叩いたかのような鈍い音が機内に鳴り響き、機体が激しく揺れる。
「対空砲!?」
対空砲による被弾と判断したパイロットは即座に回避行動に移る。
「違う! これは!」
続けざまに二つの反射光が目に飛び込んでくる。
だが今度はパイロットも飛来してくる砲弾の正体を捉える事ができた。
「氷柱っ!」
ヘリ目掛けて畳み掛けるように二本の氷柱が正面から飛来する。
しかしフロントガラスに着弾する直前、何かに弾かれて氷柱は砕け散り、再び機内に先程と同じ鈍い音が鳴り響く。
「ぐっ……」
直撃は免れたが、正面から高速の氷柱と衝突したことで、ヘリが失速し機体のバランスが大きく崩れる。
(まずい、ガラス越しは想像以上に力場の精度が落ちる。衝撃まで殺しきれていない。このままじゃ……)
パイロットは直ぐ様ハンドルを切り、ヘリの姿勢を正す。
「開けるぞ」
万智がヘリの扉に手を掛けた。
「まさか、ここで降下する気ですか!?」
「そうだ。敵は二十キロ離れた場所から、時速二百五十キロで飛行するヘリを正確に撃ち抜く事ができる力を持つ。遮蔽物のない空中では文字通り狙い撃ちだ。これ以上、近付くのは危険過ぎる」
そう言って万智は無線を繋ぐ。
「粕谷特佐、こちら洲崎特曹。敵は氷塊を二十キロ以上彼方へ飛ばす力を持っています。付近住人の避難範囲の拡大と落下する氷に対する注意喚起をお願いします、オワリ」
「洲崎特曹、こちら粕谷特佐。避難と注意喚起について了解した、オワリ」
「よし」と用件が伝わったことを確認した万智は、降下の準備を整える。
「敵の狙いは恐らく私。ヘリより時間が掛かってしまうだろうが、ビルの影に入って移動すれば、向こうも私を狙えない筈だ。仮に狙われてたとしても、あの程度ならば私でも何とかできる。貴官は私が降下したら、すぐにこの危険な空域から離脱しろ、いいな?」
「了解!」
パイロットはそう言うと急加速してドームに向けて加速した。
「なっ!?」
パイロットの急な行動に万智は驚愕し、思わず叫び声を上げる。
「何をしている! 私の命令が聞こえなかったのか!?」
「ええ、勿論聞こえています。地上を移動するよりヘリに乗って移動したほうが早いということは、しっかり確認しました」
激高する万智にパイロットは怯まず冷静に反論する。
「私が受けた指令は、特曹を必要以上に消耗させず、速やかに現場に送ることです。ならば今は、これが何よりも優先されます」
「だからそれが危険だとっ!」
「特曹、私は紛れもなく自衛軍の軍人です」
パイロットは真っ直ぐに万智の目を見る。
「仮に特曹が地上に降りたとして、敵が攻撃の手を緩める保証はありません。むしろ見失ったのならば、早々に割りきって無差別に市街地に氷柱を撃ち込んでくる可能性もあります。であるならば今、優先されるべきは私の安全か、市民の安全か。それを考察する余地はどこにもありません」
「っ!」
「それに特佐はいつも言っておられました。『仕方の無いこととはいえ、自分より先に女性を戦いの矢面に立たせることは、本来自衛官以前に男として恥じるべき事、それを決して忘れるな』と。私もその通りだと、思っております」
胸に刻んだその言葉を絞り出すように、パイロットの言葉に力が入る。
「男尊女卑で時代遅れな事は承知です。ですが、この言葉に賛同している者は、隊内に私だけでは決してない筈です!」
向けられたその瞳からはっきりと強い意志を感じる。
「なのに今私が、特曹を戦場に放り投げて、我が身可愛さに逃げ帰ったりすれば、基地で待っている仲間に合わせる顔が無くなります。それは自衛軍軍人として、一人の男として末代までの恥!」
「貴方……」
「別に死ぬつもりはありません。信じてください、私はあの連隊長に鍛えられた特務連隊の隊員! 来ると分かっている氷柱ごときに落とされはしません。いきますよ、しっかり捕まっててください!」
再び前から見える不自然な光を捉えたパイロットは素早く回避行動に移る。凄まじい勢いで急旋回したヘリの真横を氷柱が掠めていく。
「凄い……」
その言葉は決して見栄を張っているわけではなかった。パイロットはまるで自分の手足のように、ヘリを操縦している。
本来ドームに近づけば近づくほど、氷柱との着弾時間が短くなるので、回避が難しくなる。
だがこのパイロットは先読みに近い反応速度で氷柱の軌道を見切り、紙一重で躱していく。
敵に正確な狙いが付けられないよう急加速急旋回を繰り返して飛行しているため、四方八方から凄まじいGが掛かっているはずだが、その集中力が途切れる気配はない。
今までどれだけ厳しい訓練を積んで来たのか容易に想像できる程、このパイロットの運転技術は卓越していた。
「大口を叩いた直後に申し訳ありません、特曹。敵の弾道について、教えてください。大まかで構いません!」
「了解!」
だが、流石に限界なのか、パイロットが万智に助言を求めた。万智は全神経を集中させて、ドームより飛来する氷柱の動きを追う。
「正面から二発!」
指示に合わせてヘリが高速で旋回する。
「次! 左右に二発ずつ!」
ヘリが急降下し、同時に氷柱がプロペラをかすめていく。
「直上! 左から二! 角度四五で下からも三! さらに正面に……くっ! まだまだ増えるぞ!」
「特曹! 正面防御!」
「っ! 了解!」
ヘリが一気に加速し、同時に正面に展開した力場に弾かれていくつかの氷柱が粉々になった。
ヘリが大きく揺れ、速度が一気に落ちるも、直前の加速のおかげで何とか持ちこたえた。更に急加速によってヘリの位置が大きくずれたことにより、正面以外の氷柱は直撃する事なく空を切った。
「防御そのまま!」
万智は周囲に意識を巡らせるのを止め、正面の防御のみに集中する。同時にラストスパートとばかりにヘリが急上昇した。
「一気に突っ切ります!」
そしてドームに向けて一気に急降下した。
「特曹、後一分で到着します! 降下の準備を!」
「了解!」
気が付くと氷のドームはすぐ真下にまで迫っていた。
万智は地上の様子を確認する。
「では特曹、ご武運を」
「ええ、貴方も」
万智はパイロットに敬礼をすると、パラシュートに持たずに助走をつけて飛び降りた。万智は全身で風を受け止めながら、急降下していく。
急降下中での飛び降り、それは普通の人間であれば間違いなく死ぬ自殺行為だ。だが勿論万智は普通の人間ではない。この速度で落下したとしても、怪我一つ負うこともないだろう。
故にこの飛び降りは、万智を狙い撃つ狙撃手にのみ効果的となる。
(この速度、流石のお前も狙い撃てまい)
遥か彼方からヘリを狙い撃てる技術を持った狙撃手を以ってしても、流石に時速数百キロの速度で落下する人間のような小さな標的を狙い撃つのは難しいようだ。
万智の思惑通り、降下と同時に放たれた無数の氷柱の多くは、万智を掠めることも出来ずに明後日の方向に飛んでいっていた。
「ハッ!」
万智は確実に自分に当たる少数の氷柱のみを弾き、着地に備えた。
だがそちらに意識を向けていた為、狙いからそれて明後日の方向に飛んで行った氷柱とは、明らかに違う軌道していた氷柱を一つ迎撃し損ねる。
「しまった!」
万智が気が付いた時にはもう遅く、氷柱既に万智の力の射程範囲を遥かに超えた場所にいってしまっていた。
そして氷柱の狙いの先に、何があるかは明らかだった。
「振り切れぇぇぇぇ!」
万智がヘリに向かって叫び、パイロットも氷柱の存在に気がついたのか、急旋回をして氷柱を避けようとする。
だが今度の氷柱はまるで吸い寄せられるようにカーブを描き、更にヘリの旋回に合わせて軌道を常に修正させ続ける。
(駄目だ、直撃する……)
思わず目を背けたくなる衝動に耐え、万智は完全にヘリを捉えた氷柱の行く末を見守る。
「……っ!」
だが万智が覚悟を決めた直撃の瞬間、ヘリが僅かに傾いた。
そして氷柱は、その僅かな隙間を縫うように、紙一重でヘリのボディを掠めると、空の彼方へ消えていった。
万智は改めてヘリを見ると、パイロットがこちらに向かって笑顔で敬礼をしていた。
「……見事なマニューバでした」
普通の人間では見えない距離で、かつ戦闘の只中であったが、万智は自然とパイロットに答礼を返していた。
「次は私の番だ!」
再度、飛来してくる氷柱を万智は腕の一振りで払いのけると、そのまま拳を大きく振りかぶり、目前に迫った氷のドームの中心付近を殴りつけた。
落下の勢いまで乗せたパンチを受け、轟音と共に氷のドームの中心に巨大な亀裂が入っていく。
「浅かったか」
だが、氷の壁に穴を開けることができなかった上に、入れた亀裂も徐々に小さくなっていく。
(想像以上に厚いな。しかも報告通り、半端に破壊してもすぐに元に戻る。ならば!)
万智は手刀の構えを取ると、足元の氷を斬りつけ、正方形の形に深い切り込みを入れる。
そしてそのの中心に掌を宛がうと「ハッ!」という気合と共に、掌に体重を乗せて力強く押し込んだ。
ビシリという音が鳴り、正方形の切り込みに沿って氷の壁が沈み込む。
「セイッ!」
そし氷が再生するより早く、二撃目を叩き込んだ。
ズドン、という音と共に厚さ十数メートルはあろうかという氷が押し出され、氷のドームに大穴が開く。
万智は押し出された氷を追い抜くように、素早く穴に潜って内部に進入する。
(頂上部分でこの厚さ。ならばドーム下部の氷はざっと数百メートルはあるはずだ……。こんなものを都市一つを丸々覆う程の規模で作り出したというのか。たった一人の人間が)
万智はそのデタラメな力に戦慄する。だが、驚いてなどいられない。自分はこれからそんな化け物と戦わないといけないのだ。
(覚悟は……出来ている!)
万智は気を引き締めて直し、自身と氷の落下地点に人はいないことを確認すると、氷塊と共に地上に降り立った
「酷い有様だ……」
ドーム内は本当に都市部であるのか疑いたくなるほど、完全に水没していた。
膝上まで水没しているため、普通の人間であれば、動きをかなり制限された状態で戦う事になるだろう。
(いる……)
入った直後から、万智は何かを感じ取っていた。根拠は何もないが分かる。
(この先に敵がいる!)
万智は感じる気配を信じて、自身の正面、遥か前方を確認する。そしてそこには、確かに水上に浮かぶ奇妙な人影があった。
万智は膝上まで水に浸かっているとは思えないほど軽快に、その人影に向かって歩を進める。
そして同時に、出撃直後に連隊長から報告を受けた男の特徴を思い出す。
「――来たか」
相手も万智に気が付いたのか、ズボンのポケットから手を出すと、水面に浮かぶ氷の上でゆっくりと立ち上がり、万智を睨み付けた。
万智もまた警戒しながら歩を進め、男を凝視しその姿を確認する。
(身長百七十センチ前後、黒髪、二十代の痩せ型、ビジネススーツに革靴、アジア系の顔立ち……)
――その全ての条件を満たした男が、万智の眼前に立っていた。