二〇四四年六月三日(金)十九時四十八分二十三秒 東京都千代田区丸の内オフィス街
【KECグループ 本社ビル】
そのビルの正面玄関には大きくそう書かれている。
日本全国、世界各国に多くの支部を持つ多国籍企業【カツラギエネルギーグループ】の本社はここ日本の首都たる東京に存在する。
本社だけあり、このビルでは昼夜問わず、支部長や関連子会社の社長が日々の報告や企画を持ち込み熱い議論を交わしている。
そんな本社ビルの一室で今日も普段通りに商談が行われていた。
「大会議室」そうプレートに書かれた二重ドアの部屋は、何も知らない人間ですら「厳重なセキュリティが敷かれている」と察せるほどに物々しい雰囲気を放っていた。
恐らく、今この扉の向こうでは、社運を賭けるほどの大きな案件について、殺伐とした商談が行われていることだろう。
「――ははは、何をおっしゃられるのですか。会長はまだまだ現役ですよ」
そんな物々しさとは明らかに不釣り合いな談笑がなされていた。
「KEC関連子会社 佐々木自動車精密部品製造工場」社長――佐々木希は経営不振が続く自社の一発逆転を掛けた企画を持ち込むため、ここKECグループ東京本社に足を運んでいた。
「長かった……」
本社ビルのエントラスを前にした時、希は思わずそうつぶやいていた。
この日のためにどれだけ手を回したかわからない。
今の自分が使えるものは全て使った。
コネを使い、金を使い、頭を下げ、無理を承知で頼み込んだ。そしてなんとかアポイントメントを取ることに成功し、世界に名だたる企業グループの会長という、超が付くほどの大物と商談することを許された。
希の会社は世間一般の評価で見れば大きい部類に入る。希自身もまた、それを自負し誇りに思っていた。
だがこの人に掛かればそんな自分の会社すら、それこそ有象無象の一社として、ため息だけで吹き飛ばされてしまうだろう。
それほどの人物に時間を取らせ直接面会を頼んだのだ、話の破談は死刑宣告と同義だろう。
失敗すれば命を絶つ――。
そんな気持ちで挑んだ今回の商談は、希の想像以上にスムーズに進行した。
会長はこちらの企画に理解を示し、その有用性を存分に認めてくれた。その上で可能な限りの融資を行うと約束し、その日の内に契約書類に判を押してくれた。
想定しうる中で最高の結果を残したまま商談は無事に終了し、希は今その結果を噛み締めながら、興奮気味に会長のご機嫌とりに勤しんでいた。
「いやいや、そう言ってくれるのは君だけだよ。近頃は皆、わしを見たら口をそろえて隠居しろと言うものでな」
希と机を挟んで正面、そう話すのは一人の老人であった。
歳は七十か八十あたり。積み重ねた年月が刻み込まれたかのような皺、豊かな白髪と髭を携えた威厳のある容貌、仕立てのよいスーツを着込み、いかにも高級そうな金色に輝くペンダントを首から下げている。
だが纏う雰囲気は、殺伐としたビジネスの世界に身を投じているとはとても思えない、温和な笑顔が似合う老人だ。
このいかにも好々爺といった感じの老人こそ、世界に名だたる多国籍企業カツラギエネルギーグループの二代目会長「葛城一心」である。
彼の年齢やグループの設立年数を考慮すれば、初代会長でありそうなものだが、彼は歴とした二代目である。
彼が初代会長でない理由は「カツラギエネルギーグループ」の前身である「庵燃料電池」の時代にまで遡る。
庵燃料電池はその名の通り、機械に搭載するバッテリーの開発を主にする企業であり、今から二四年前に設立された。
起業当初の庵燃料電池には二人の重役がおり、一人は現在の会長であり、当時副社長の地位にあった葛城一心。
そしてもう一人は庵燃料電池の起業者であり、後のグループ繁栄の基礎を作ったとされる天才科学者、庵克二である。
現在のエネルギー利用の主流にして、カツラギエネルギーグループの経営の根幹である特殊素材「E」の基礎理論を創始したのはこの男である。
克二が開発したこの特殊素材「E」を利用した新型バッテリーは従来ものと比べ、遥かに安価かつ高性能であり、瞬く間に業界でシェアを伸ばしていった。
破竹の勢いで進撃を続ける庵燃料電池は、各業界人からも「向こう十年は敵なし」と評せられ、ものの数年で大企業と呼ばれるほどの存在に成長した。
――だが起業から四年目、絶頂の只中にあったこの会社を大きく揺るがす大事件が起きることになる。
その事件はこれから企業の一年が始まろうという春先に、なんの前触れもなく発生した。
庵燃料電池の創始者にして「E」の開発者である庵克二の失踪である。
絶頂期にある企業のトップ、その突然の失踪は当時の世間を少なからず騒がせた。
事件発生当初、犯人と疑われたのは当時副社長であった葛城一心であった。
克二が行方不明になる直前に彼と直接会っており犯行は容易、その上社長の席が空けば事実上、副社長である一心が会社のトップになる。
犯行の容易さに加え、動機も十分となれば一心が疑われるのも自然なことであった。
実際、当時の新聞やテレビの論調は明言こそしなかったものの、一心を事件の犯人として扱っており、一部で逮捕は時間の問題である、とさえコメントされたこともあった。
だが結局、「葛城一心犯人説」を立証することはできず、捜査は暗礁に乗り上げることになった。
そして決定的な証拠が出ないまま事件は迷宮入りをすることになる。
結果的に一心は世間の思い込みから一方的に濡れ衣を着せられた被害者なのだが、誤解が解けたのが遅すぎた。
既に庵燃料電池の信頼は失墜しており、業績はボロボロ、社員の多くは退職していた。
もはやこのまま倒産すると思われた庵燃料電池であるが、一人の男の活躍によりその危機を脱することになる。それは失踪事件の濡れ衣を着せられた葛城一心本人であった。
彼は克二が残した基礎理論を元に、特殊素材「E」を改良「空気反応発電システム」の基本を作り上げた。
この発電システムの提唱によって庵燃料電池の評判は一転、世界各国からこの設計を元にした発電システムの受注が相次ぎ、再びトップ企業に返り咲くことになる。
同時に会社名称を「庵燃料電池」から「カツラギエネルギーコーポレーション」に改名、後の「KECグループ」の礎となった。
(まさに化物だ……)
希も勿論この逸話を知っている。
僅か一代で傾きかけた会社の経営を立て直し、世界に名だたる企業グループにまで成長させたその手腕は同じ経営者として、尊敬を通り越して畏怖の対象ですらあった。
「――まぁ確かに皆の言うこともわかる。わしももう歳だ。昔と違って身体がいうことを聞いてくれん。ゴホッ……失礼、そろそろ故郷で静かに余生を過ごすのもいいかもしれん」
そんな前評価が馬鹿らしく思えてしまうほど覇気のない声で、畏怖の対象だった老人は話し続ける。
「ゴホッゴホッ……君を見ていると思いだすな。会社を立て直そうと四苦八苦していたあの頃を。ゴホッ……まぁ今となっては全て思い出だがね」
失踪事件のことを思い出しているのだろう。どこか哀愁を帯びた表情になり老人は語る。
ひょっとしたら自分の企画を受け入れてくれたのは、私にかつての自分を重ねていたからなのかもしれない。だとしたらやはりこの老人は雰囲気通りのお人好しな人間だ。
経営に個人的感情を挟むのは決して良いことではないが、この人の場合はそんな甘さこそが長所なのだろう。
この人が会長で良かったと、希は心からそう思った。
「ケホッケホッ……失礼。あの頃はわしも……ゴホッ失礼、いろいろケホッ……」
「会長?」
先程からどうも会長の様子がおかしい。
会話中に咳が出ることなど珍しくはないが、この咳は明らかに違う。
「失礼。さっきからどうも……グッ……ガハッ!!」
「か、会長!? 大丈夫ですか!?」
吐血でもしたかと思えるほどの大きな咳に、佐々木希は思わず身を乗り出して会長を支えようとする。
「い、いや、気にしないでくれ。さっきも言った通りもう歳でな。ケホッ……喋りすぎるとすぐこれだ。長年の喫煙のツケと言うべきかもしれんが……。ついお喋りが過ぎてしまったようだ」
心配そうな顔をする希を手で制しながら、会長は机にあったインターホンのような機器に手を伸ばす。
「申し訳ない。少し時間を取らせてはもらえないだろうか。すぐに薬を用意させるから」
「ええ、それは勿論」
謝罪しながら会長は機器のボタンを押す。すると同時に機器のスピーカーから声がきこえてきた。
「会長、お呼びでしょうか?」
声の主は女性だろうか。感情が感じられない機械的な、それでいてスピーカー越しでさえ綺麗だと思える程に透き通った声色をしている。
「ああ、すまない。いつものがきてしまった。薬を用意してくれないか?」
「承知いたしました。すぐにお薬をお持ちします。少々お待ちください」
「ありがとう」
短い会話を交わし、会長はボタンから手を離した。いつもので通じるところを見ると会長は頻繁にこうなるのだろう。なるほど、身内が隠居しろというのも納得だ。
そんなことを考えながら希が会長の様子を見ていると、ドアをノックする音が聞こえてきた。
「どうぞ、入って」
会長がそう言うとドアのロックが開き、盆に水と薬を乗せた女性が入ってきた。
女性は希の存在に気がつくと、そちらに向かって軽く一礼をし、会長の前に盆を静かに置いた。
「会長、お薬をお持ちしました」
「ああ、折井君。どうもありがとう」
会長そう一言礼を言うと薬に手を伸ばした。
折井と呼ばれたその女性は会長が薬を飲むのを確認し、希の方へ向き直った。
「佐々木自動車精密部品製造工場社長、佐々木希様ですね?」
「はい、そうですが」
声を掛けられるとは思っていなかったため、なんとも情けない声を上げてしまった。
「自己紹介が遅れ申し訳ありません。私、会長の秘書をやらせて頂いている、折井麻衣と申します」
胸ポケットの名刺入れから出した名刺を希に差し出しながら、女性はそう自己紹介をした。希も慌てて名刺を取り出すと自己紹介をする。
「佐々木自動車精密部品製造工場社長、佐々木希です。本日はこのような場を用意して頂きありがとうございます」
そう挨拶を交わし希はもう一度、折井麻衣なる女性に目を向けた。先程から妙に緊張するのは間違いなくこの女性のせいだ。
年齢は恐らく二十代。ビジネススーツに身を包み、眼鏡を掛け、クールな雰囲気を漂わせる、如何にも仕事ができそうな女性だ。
ほっそりと痩せた身体に小さい頭。だが腕や足は長く全体的に過不足がない、わざとらしい程に整った見事なプロポーションをしている。
ハーフなのか、眼鏡の奥にある大きな瞳はルビーのように赤く輝いており、鼻も高く絵に描いたような美人顔。そして何より頭髮が特徴的だった。
白髪の白さとは全く違う、雪のように白く輝く上品な髪色をしている。たっぷりあるであろう長髪で作ったギブソンタックの髪型がその上品さを更に引き立てていた。
服装はビジネスの場に適したものであるはずだが、まるで場所を弁えずにお洒落をしているかのような錯覚に陥る。
会長とはまた違った意味でこの場に似つかわしくない人間だ。たまたま撮影に来ていたファッションモデルと言われたほうがまだ信じられるだろう。
その人目を引く容姿に希は思わず見とれてしまい、しばしの間言葉を失ってしまった。
自己紹介からの会話が続かず、両者の間に気まずい空気が流れる。
希は場の空気を溶かすため、なんとか理緒に話しかけようとしたが、緊張して何も頭に浮かばない。
そんな希の心境を知ってか知らずか、先に口を開いたのは麻衣であった。
「わざわざお越し頂きながら、このようなお見苦しいところをお見せして申し訳ありません。普段は商談中に発作など起きないのですが」
「いえいえ、見苦しいなどと思っておりませんよ。こちらこそ会長に無理をさせてしまったようで申し訳ない」
別に彼女に落ち度があるわけではない。にもかかわらず自分のミスであるかのように謝罪する麻衣を見ていると、逆にこちらが申し訳ない気持ちになってくる。
クールな印象とは裏腹に、彼女自身は他人に気を使い過ぎる性格のようだ。
「つきましては佐々木様、失礼を承知で一つお願いがございます。予定ではまだいささか時間がございますが、商談についてはもうお済みになっているようですので今日のところはお引き取り頂けますか?」
申し訳ないという顔をした彼女が更に申し訳なさそうにしながらそう告げる。
「なんてことを言うのだ折井く……ゴホッ。こちらの都合で客人に帰ってくれなどと失礼にも程がある。もう君の用は済んだだろう、大人しく下がっていなさい」
途端に会長が語気を強めて彼女を制す。
「申し訳ない、佐々木くん。彼女はまだ新人でな。後でしっかり言っておく。先の発言は忘れてくれ」
会長は謝罪してはいるものの、お世辞にも体調は良くなさそうだ。
「いえ、折井様の言うことは尤もです。もう十分に長居をさせていただきましたし、ここら辺りでお暇させていただきます」
彼女の言う通りもう商談は済んでいる。わざわざ残り、会長に無理をさせてまで話すことなど何もない。
「お身体の方、どうかお大事にしてください。本日はありがとうございました」
そう言って席を立つと、申し訳無さそうに会長の横に立っていた麻衣がこちらに向き直る。
「無理を言って申し訳ありませんでした。下に迎えを用意させますので少しの間、休憩所でお待ちください。ご案内致します」
「お気遣いありがとうございます。それでは会長、改めて本日はありがとうございました」
そう挨拶を交わし、希は大会議室から退出した。
ドアが閉まり、ガチャリとオートロックの掛かる音が聞こえ、大会議室が静寂に包まれた――。
「――ははははは!! いやぁ実に楽しい見世物だったぜ親父殿!! 見たか? あの野郎の嬉しそうな間抜け顔をよ?」
かに思われたが、それを一瞬で吹き飛ばす甲高い笑い声が会議室に響き渡る。いつの間にか一人の男が会議室のスクリーンに映し出されていた。
歳は二十代前半、黒い肌に金髪、更にサングラスまで掛けた如何にも悪ガキといった風貌の男だ。
「盗み聞きとは行儀が悪いな、カイト」
先程まで商談をしていた好々爺とは別人のような重い口調で一心はスクリーンの向こうの男に話しかける。
「いやぁ、別に盗み聞きするつもりはなかったぜ? ただちょいと用が早く済んだんで早めに通信を繋げてみただけだ。そしたら中々に面白そうな商談をしているときた。見物してしまうのは仕方のないことだろ?」
カイトと呼ばれた男は全く悪びれることもなく、実に楽しそうな様子でそう答える。
「全く笑えるぜ、あんな商品に本気で需要があると思ってやがる。俺から言わせれば、世間から二十年は遅れているね。これだからゆとり世代のおっさん共は役に立たない。競争心が希薄だからどうやったら売れるのかがまるでわかっていない」
「それを言ったら私はバブルジジイだがね。どの世代にも常に一定数の不出来な者がいるというだけのことだ。世代なんて大雑把な区切りで人の特色がわかるなら、人事は苦労したりはせんよ」
ケラケラと笑いながら持論を話すカイトに、一心は悪ガキを諭すような口調で反論した。
「世代叩きは有識者気取りの馬鹿が好んで使う常套句だ。同世代の支持を簡単に得ることができるからな。あまり多用すると阿呆に見えるぞ。まぁ彼に商才がないのは確かだがね。それでもいきなり私に商談を持ちかける度胸は大したものだ。経営よりも営業の方面で育てるべき人材だったな」
「耳が痛いね。それで? その度胸に敬意を評して死に花を咲かせてやったってわけか。相変わらず親父殿は人がいいねぇ」
「別にそんなつもりはないがな。言った通り、彼の営業力に期待しての事だ。商品の切り口自体はお前が言う程、悪いものではない。後はやりよう次第だろう」
「ふーん、そういうもんかい。ま、今更どうでもいいことだがな。ああ、そうだ。頼まれてた仕事のことだが、依頼通り俺たちの個人情報は完全に抹消してきたぜ。書類上、俺達は今この世に存在しないことになっている」
「うむ、ご苦労」
何やら仕事をこなしてきたカイトを一心が労うと同時に、モニターに新しい通信が入る。
「お、頭の堅い優等生のお出ましか。遅かったじゃないかマオリ」
その声に答えるようにモニターに新たな男が映る。
「まだ招集時間まで十五分はある。お前が無駄に早いだけだカイト。生憎と私には他所様の会議を盗み聞きする悪趣味はないんでな。そもそもにして私が遅くなったのはお前の仕事が雑だからだ。クロスチェックする側の身にもなってほしいものだな」
マオリと呼ばれた男は面倒臭そうにカイトの問いに答える。
「お久しぶりです、一心様。お元気そうで何よりです」
「うむ、お前も息災そうでなによりだ」
歳はカイトとそう変わらない。だがこちら高級そうなスーツに身を包んでおり、如何にも真面目でインテリなビジネスマンと言った風貌をしている。
「やれやれ、相変わらずクソ真面目な兄貴だ。あんたの下で働く部下はさぞや堅苦しい思いをしてるだろうよ。もっと楽しく行かなきゃ社員のモチベーションも上がらんぞ。そんなんだから何時まで経っても会社の成長が横這いなんだ」
「堅実に成長していると言え。お前こそ、そんな適当だから会社の経営が傾くんだ。後先考えずに事業を拡大した結果が去年の赤字決算だろう。株主達から大目玉を食らったばかりだというのにまるで反省していないな。次はもう融資しないぞ」
ニヤニヤしながら話すカイトにマオリは冷静に反論する。
「ああ、そんなこともあったな。あの時のことは感謝しているよ。だがおかげ様で今年は四半期の時点で去年の売上を超えたぜ。拡大した事業が大当たりをして、今や破竹の勢いだ。堅実経営をしてるあんたには縁のない話だろうがな」
まるで経営シュミレーションゲームで遊んでいるかのような口ぶりで、若き二人の経営者は語り合う。
「全く……お前たち二人は相変わらずだな。同じように育てて来たつもりだったのだが、こうも違いが出るものか。人の成長とはままならないものだな」
呆れた様子で二人を見やりながら一心は胸ポケットからシガーケースを取り出し、葉巻を握りながら言葉を続ける。
「お前達二人は昔からそうだ。あの時だって……」
「――さっきから随分と楽しそうね。私も混ぜてくれるかしら?」
一心の言葉を遮るように扉の向こうから声が聞こえてきた。
どうやら希を送り届けた秘書が帰ってきたようだ。
「理緒様、お帰りになりましたか」
その声に合わせるようにガチャリと音が鳴りオートロックが解除される。
そして扉が開き秘書が入室する……がそこにいたのは先程のクールな雰囲気を漂わせた女性ではなかった。
しっかりと着ていたビジネススーツはだらしなく着崩されており、結っていた髪は解けて腰にまでかかっている。
外した眼鏡を指で回して遊びながら、秘書はなんとも愉快そうな表情で先程まで会長が座っていたソファに飛び込み、そのままぐったりと寝そった。
明らかに秘書の取る行動ではない。だが、そんな秘書の行動をこの場にいる誰も咎めない。
もしこの光景を希が目撃したならば呆気に取られ言葉を失っていたことだろう。
「理緒様、またそのようなだらしない格好をされて。いいですか? 何度も申し上げておりますが貴方は上に立つ人間なのですから……」
「それに相応しい立ち振舞いを心がける事、でしょう? 一心、それはもう耳にタコが出来るほど聞いたわ」
「麻衣」ではなく「理緒」と呼ばれた女性は面倒くさそうに答えた。
「ではもう言わせぬようにしてください。身内とは言え、ここに居るのは貴方の部下なのですよ? いつまでもおてんば娘では困ります」
一心はそう言いながらシガーケースをしまうと、続けてシガーカッターを取り出す。
それを見た理緒がおもむろに腕を持ち上げ、人差し指を軽く弾いた。
すると如何な原理か、葉巻の先端が鋭利な刃物で斬られたかのようにザックリと切断される。
切られた破片は宙を舞いながら炎に包まれ、灰も残さず燃え尽き、同時に残された葉巻の断面にまんべんなく火が灯った。
「ありがとうございます」
目の前で起きた怪現象を特に不思議がることもなく、一心が理緒に礼を言う。
「どういたしまして。ついでに一本貰うわよ」
理緒は笑顔でそう言うと、指をクイッと動かす。
一心の服から葉巻が一本飛び出し宙を舞い、引き寄せられるように理緒の指に収まった。
理緒はそれを口に咥え、先端を指で軽く撫でる。葉巻の先端が焼き切れ、静かに火が灯った。
「相変わらず良い葉巻を使ってるわね。世のサラリーマン達がこれを見たら、怒り狂って石を投げつけてくるわよ?」
葉巻を吸いながら理緒は笑いながら一心に語りかける。
「はぁ……全く。言ったそばからこれですか。乞食では無いのですから人様からモノを拝借するような真似はやめてください。その程度の葉巻なら何本でも用意しますよ」
深い溜息をつきながら一心は葉巻を口に咥える。
「結局、最後までくだらない秘書ごっこを辞めてくれませんでしたね。立場上、貴方にはあまり人前に姿を見せて欲しくは無いのですが」
「くだらない秘書ごっことは些か失礼ではないですか会長? 会長秘書という役目も、私は結構気に入っているんですよ?」
からかうように「麻衣」の口調で理緒は答える。
「ハハハ、まぁそう堅くなるなよ親父殿。時には遊びだって必要さ。理緒様だって年がら年中気を張ってたら疲れるだろ?」
相も変わらず愉快そうにカイトが二人の会話に口を挟む。
「ごきげんようカイト君。元気そうで何よりだわ」
「ご無沙汰しております。理緒様」
そう言いながらカイトは恭しく頭を下げる。
「相変わらず毎日が楽しそうで羨ましいわ」
「ええ、毎日がとても充実しております。人は娯楽に興じることを許された存在です。唯生きるだけなら犬畜生と同じ。遊びを忘れないからこその人間だと私は思っております」
「まぁ確かに一理あるわね」
妙に芝居がかった口調で話すカイトに、理緒が苦笑しながら同意する。
「ご理解感謝いたします。どうです理緒様? 話の続きも兼ねてこの後ホテルで食事でもいかがですか? 良い所をご用意……」
「そこまでだ、カイト」
ナンパに理緒を誘うカイトの言葉を遮って、マオリが強い口調でカイトを制した。
「身の程を弁えろ。我々は理緒様の駒であって友人などではない。これ以上、主に向かって馴れ馴れしく接するならば、お前に立場というものを分からせる必要が出てくるぞ」
そう言いながらマオリはカイトを睨みつけた。
「ご無沙汰しております理緒様。カイトの無礼は兄である私の責任でもあります。どうかお許し下さい」
マオリは理緒に向き直り、頭を下げて深々と謝罪する。
「別に気にしてないわ。いいから頭を上げなさい。全く……真面目過ぎるのがマオリ君の長所でもあり短所ね。そんなんじゃ事を起こす前に疲れちゃうわよ?」
理緒は苦笑しながらそう答えた。
「ははは、まぁ今のは多分に私情が混じってると思うぜ。そうだろ? むっつりスケベのマオリ兄さんよぉ?」
カイトはからかうような笑みをマオリに向ける。
その言葉と態度に、マオリはさっきまでとは明らかに違う怒気を込めてカイトを睨みつけた。
「それ以上無駄なお喋りを続けるならば、少し痛い目をみてもらうことになるぞ。カイト」
「……ほう? そいつは楽しそうだな。いいぜ、久しぶりに兄弟喧嘩といくかい、兄さん」
カイトの顔から、からかうような笑みが消え、代わりに殺気のこもった凶悪な笑みが浮かぶ。
「命はとらんが仕置だ、カイト。軽くミイラにしてやろう」
「やってみな。その前に焼き肉してやるぜ」
モニター越しであるにも拘らず、睨み合った両者の間に尋常ではない程の不穏な空気が流れ、一触即発の雰囲気となる。
「はぁ……。理緒様、二人を……」
「止めてください」と頼もうとした一心はすぐにそれは無理だと悟る。
理緒は取り出した携帯でゲームをしており、暫く帰ってきそうにない。
それどころか「面白そうだから続けさせて」とアイコンタクトを送ってきた。
「おい、二人共いい加減に……」
「――いい加減にしないか。理緒様の前で見苦しい」
仕方なく止めに入った一心を遮って、一人の女性がモニターに映しだされた。
年齢はカイトやマオリとそう変わらない。たっぷりある長い黒髪を頭の後ろで束ね、前髪を切り揃えた、綺麗と言うよりも格好良いと言う言葉が似合う、凛々しい姿をした中性的な容姿の女性だ。
「マオリ、貴様は兄だろう? 弟に振り回されてどうする。理緒様の前でこれ以上、文字通りに醜態を晒すつもりか?」
「……ッ」
指摘にマオリが押し黙る。
「カイト、貴様も貴様だ。必要以上に他人を挑発するのはやめろ。そんなに暴れたいのならば私が相手になってやる」
「……やめとくぜ。あんたとやっても楽しくないしな。悪かったよ」
それまでの態度が嘘のようにカイトが素直に謝罪する。
「一心様、理緒様、申し訳ありません。弟二人が見苦しいところをお見せしました。セリナ、只今戻りました」
「うむ、任務ご苦労」
一心はそう言うと改めて三人に向き直った。
「さて、いつも通りのいざこざも収まったし、全員揃ったな。必要以上に脱線したが、いよいよ本題に入る。今日集まってもらったのは他でもない……」
「前置きはいいぜ、親父殿。俺たちを集めたってことはつまりそういうことなんだろう? 要点だけ伝えて、さっさとおっ始めようじゃねぇか」
「おい、カイト」
まるで楽しみを待ちきれない子供のようにカイトが口を挟む。
「せっかちな奴だ。まぁお前の言う通りだな、勿体ぶっても仕方ない。単刀直入に言おう。もうまもなく、我らKECグループのエネルギーシュア率が目標値を超える」
その報告を聞いた瞬間、三人の表情が引き締まった。
「いよいよ『イオリレポート』の最終章を実行に移す時が来た。三闘衆、準備に抜かりはないな?」
「愚問だな」
「勿論です」
「はい」
三者三様の返事が返ってくる。
「結構、では理緒様。お願い致します」
「あら、私?」
とぼけた表情の理緒に、一心はもう何回目かもわからない深い溜息をついた。
「冗談よ、冗談。総帥らしく仕切ればいいんでしょう? 締めぐらいちゃんとやるわよ」
そう言うと理緒は携帯ゲームを切り上げ、コホンと軽く咳払いをすると、真剣な表情で三人と向かい合う。
「三闘衆の諸君、今日までご苦労。これよりKECグループ改め『地天海』計画を本格始動する。カイト、Eチケットの調子は大丈夫か?」
「完璧です」
「頼もしいな。マオリ、鍛錬はしかと積んでいるな?」
「無論です。何時でも出動できます」
「流石だな、頼りにしているぞ。セリナ、事前準備に問題はないな?」
「全てチェック済みです。問題はありません」
「良くやった、ならば安心だ。これで存分に力を振るえよう」
理緒の言葉を聞き終わるとセリナが理緒に向かって敬礼のポーズを取る。
「我ら地天海三闘衆、これより理緒総帥の手足となり全力で野望実現の為、この身を使うことを誓います」
そう宣誓すると同時に他の二人も理緒に向かって敬礼する。
「うむ、諸君らの活躍に期待しているぞ。さて、早速だが我々が今行うべきことは二つある。一つは我々が如何に強大な力を持っているか、全世界に見せつける事。もう一つは盗人に奪われたPEチケットの片割れの奪還。早い者勝ちだ、一番槍を飾りたい者は誰だ?」
理緒は三人を見やり問いかける。
「では私が参りましょう」
待ってました、と言わんばかりにカイトが即答した。
「即答するとは大した自信だなカイト。良かろう、では本作戦は貴様に一任しよう。存分に腕をふるってくるといい」
「承知しました。このカイト、ご期待には全力で」
頭を下げながらカイトが答え、理緒も満足そうに頷いた。
理緒はしばらく三人と向かい合うと、おもむろに一心に振り返る。
「これでいいかしら、一心?」
とても良い笑顔で理緒から感想を求められた一心は、額に手を当てて溜息をついた。
「何の茶番ですか……」
「ちょっと! 茶番は言い過ぎよ!? 結構考えたのよ、これ!」
理緒が不服そうに一心に抗議する。
「何の漫画に影響を受けたのかは知りませんが……。全く……。悪乗りしてくれる部下を持って、幸せですね」
「いいじゃない、せっかくなんだし。それに一度こういうのやってみたかったのよ。本当、ノリの良い部下を持って私は幸せ者だわ。ありがとね」
理緒は笑いながら、画面の向こうにいる三人に目配せする。
「まぁこれでいいでしょう。やればできるのですから、猿真似であっても普段からそれ位の威厳は持ってほしいものです」
「えぇ、善処するわ」
一心の苦言を軽く流し、理緒は再びカイトと向かい合った。
「それで? ああは言ったけど具体的にはどうする気なのカイト君。一応こちらでも案は用意しているけれど、何か妙案でもあるのかしら?」
「妙案もなにも、簡単なことです。向こうが観念して姿を現すまで適当に暴れます。我々の力を世界に示せて、盗人も見つけられる。一石二鳥です」
理緒の問にカイトは自信満々に答えた。
「だが、そううまく行くか? たかが賊とはいえ曲がりなりにもPEチケットの片割れを所有する相手だぞ。まして相手が傍観を決め込んだらどうする?」
そのあまりに単純明快な案に、マオリが当然とも言える疑問を投げかける。
カイトの案は相手がこちらを迎え撃つことが前提の作戦だ。相手にこちらを迎え撃つ気が無ければ、前者の目的は達成できても、後者の目的は達成できない。
しかも仮に、作戦通りに相手が迎え撃ちに出てきたとしても、その相手に勝てなければ意味がない。マオリの疑問は至極妥当なものだろう。
「ハッ。計画実行直前にビビって逃げ出したヘタレなんざにこの俺が負けるかよ。レポートの記述を見ても、とても恐れる戦力とは思えなかったぜ。それに傍観を決め込むことは恐らく無い。正義感に駆られたのか罪悪感に潰れたのかは知らんが、ただ逃げるだけじゃなく、我々への対抗策を奪取していったんだ。こちらとやり合う気満々ってことだろう」
「ほう」
どうせその場の思いつき、そう思っていたマオリだったが、意外にもちゃんとした回答が返って来たことに感心する。
「なるほど。自信過剰なところも多いが、お前なりにちゃんと考えあってのことか。ならば私も異存はない。だがくれぐれも理緒様に恥をかかせるようなことのないようにな。理緒様、カイトの案、如何でしょうか?」
カイトの案がその場の思いつきで無いことを確認したマオリは同意を示し、同時に理緒に確認をとる。
「良いも何も私は既にカイト君に任せると言ったわ。単純明快でわかりやすい作戦だしいいと思う。物は試しと言うし、まずはその案で行ってみましょう。ね、セリナちゃん?」
「理緒様が良いと言うのであれば私に異存はありません。……それといい加減、その呼び方はやめてください」
見た目に反して、なんとも可愛らしい呼ばれ方をしたセリナが思わず理緒に抗議する。
「善処するわ。じゃあカイト君、よろしくお願いね」
その抗議も軽く聞き流し、理緒はカイトの作戦を採用した。
「それで、最初はどこで暴れるつもりなのかしら?」
溜息をついて諦め顔のセリナを無視して、リオはそのまま話をすすめる。
「そうですね。せっかく社長業を引退したことですし、ヨーロッパへバカンスにでも行くつもりです。当面はそちらでゆっくりしようかと」
「あらいいわね。それじゃ待ちに待ったお祭の開幕だし、そこで派手な開戦の狼煙を上げてきてちょうだい」
「ええ、お任せください。では私はここら辺りでお暇致します。これから旅行の荷造りをしなくてはならないので。それでは」
そう言うとカイトは通信を切断した。
「では私もこの辺りで失礼します」
カイトにつられるようにマオリも通信を切断しようとする。
「あら、マオリ君も行っちゃうの? もっとゆっくりしていってもいいのよ? 何かやることがあるのかしら?」
「何か、も何もカイトの後援ですよ。個人情報の無い人間を渡航させたり、あいつが暴れた後事がうまく運ぶよう、後始末を考えなければいけませんので。あいつが調子に乗って暴れる事を完全に放任する程、私は無責任ではありません」
マオリはさらりとカイトの案にダメ出しをする。
「でも貴方はさっきカイト君の計画に賛成していたじゃない。そこまでするつもりなら、初めから反対したほうが良かったんじゃないかしら?」
「どの道、ああなったカイトは止まりませんからね。せっかくやる気になっているんですから、わざわざ機嫌を損ねるようなことはしませんよ。荒唐無稽な案を出さない辺り、ちゃんと考える頭は持っているようですし。これでも私は思い立ったらすぐ行動に移すあの行動力は認めています」
「ふぅん成程ね。ふふっ、なんだかんだでマオリ君は弟に甘いわよねぇ」
つい先程までいがみ合っていた癖に、直ぐ様頼まれてもいないフォローに回るマオリに理緒は思わず苦笑する。
「私、マオリ君のそういうところ嫌いじゃないわよ」
そう言って理緒は微笑んだ。
「……カイトのフォローに行きます。姉様、私に代わり理緒様のお世話よろしくお願いします」
何故か急にソワソワとしだしたマオリが、逃げるように通信を切断しようとする。
「了解した。理緒様のことは任せておけ」
「ありがとうございます。それでは」
「あぁ、そうだ。マオリちょっと待て」
「なんです、姉様」
今度こそ通信を切断しようとしたマオリをセリナが引き止める。
「姉としてお前に一つ言っておくことがある」
「?」
セリナから言われる事に心当りがないマオリは首を傾げる。
「それはいい加減諦めた方がいい。辛くなるだけだ」
「……ッ!!」
途端、弾かれたかのようにマオリは通信を切断した。
「では理緒様、私は先に本部にてお待ちしております。準備が出来次第お越しください。必要とあらばお迎えに参ります」
「ええ、ありがとう。大丈夫よ、そっちで待ってて」
「承知しました」
セリナが頭を下げる。
「――それにしてもセリナちゃん。同世代相手にその口調疲れない? もっと気楽に砕けてくれていいのよ?」
「その呼び方はやめてくださいと……いえ、もういいです。理緒様、私にも立場というものがありますので。それでは」
溜息をつきながらセリナが通信を切断し、大会議室に静寂が訪れる。
「ふふ、セリナちゃんも相変わらずねぇ」
理緒は消えたモニターに向けて軽く苦笑する。
「それじゃあ、セリナちゃんも待っていることだし私達も行きましょうか。一心、準備をお願い。私は着替えて先に下で待ってるわ」
「かしこまりました」
残った二人も大会議室を後にする。こうして一つのテロ計画が人知れず実行に移された。
「……カイトの作戦は成功するだろうな」
理緒の後に会議室を後にした一心が、先程のカイトの作戦を思い出しながら、独り言をポツリと漏らして、物思いに耽る。
(奴のことだ。こちらから探さずとも必ずこの祭りを見にやってくるだろう。あるいは既に、何処かから我々を盗み見ているか。どちらにせよ、ほくそ笑んでいるのが目に浮かぶ)
一心が一人、溜息をついた。