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HERITERS  作者: 井本康太
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一九九五年八月十一日(金) 二十ニ時四十八分二十六秒 総合病院

 ――昔、神童と呼ばれた一人の少年がいた。

 その少年はバブルが崩壊して数年後、日本がようやく大不況から立ち直り初めた頃に、埼玉県内のとある総合病院で産声をあげた。

 その少年は別段特別な家系に生まれた訳でも、特別に優れた才能を持っていた訳でもなかった。

 物心が付き始める前までは、ごく一般的に両親に愛情を注がれ、ごく一般的に成長した。

 だが物心が付き始めた時、それまで眠っていた人並み外れた好奇心が少年の中で目を覚ました。

 少年は疑問があると自らが納得できるまで追求をやめなかった。

 とにかく「何故?」を繰り返し、周囲の人間を困らせ続けた。

 だがその好奇心は、後の神童を作りあげることになる。

 

 全ての始まりは、そんな少年が一つの壁掛け時計に興味を持ったところから始まる。

 何故、この機械は動くのか? 

 何故、この機械は規則正しく回転するのか? 

 何故、この機械は規則正しく音が出せるのか?

 少年は初め親に聞いた。

 親はモーターが動き、歯車が回って回転するのだと教えてくれた。だが何故そうなるのかを教えてはくれなかった。

 歯車はどのように動いているのか?

 そもそも何故モーターは動くのか?

 どうしたら時間通りにアラームが鳴るのか?

 更に深く聞くと親は困った顔をして、首を横に振るだけだった。

 その代わり大人でも知らない事がある事、専門家でないと分からない事があるという事を教えてくれた。

 だがその仕組みについてどうしても知りたかった少年は、ついに時計を分解してしまう。

 時計の中身は親の言ったように、確かに歯車が噛み合って動いていた。

 だが疑問は尽きなかった。

 この金属が張り付いた板はなにか?

 この小さな電球のようなものはなにか?

 そもそもこれらは、この歯車とどのような関係にあるのか?

 自分の力の限界を感じた少年は、親に時計についての本をねだった。

 親は当然絵本を買いに行くものだと思い、少年を書店に連れて行った。

 だが少年が親に渡したのは、本格的な機械式時計の大全本だった。

 親は当然「まだ難しいし、読めないから止めなさい」と言って止めた。

 その言葉に表紙だけを見て本を選んでいた少年驚いた。

 中を見てみると確かにひらがな以外にもたくさんの文字が書かれており、何が書いてあるのか全く分からなかった。

 すると少年は今度はその文字について質問した。

 この字なんて読むのか?

 この数字の横の文字は何か?

 そもそもどうして自分はこの文字が読めないのか?

 矢継ぎ早に放たれる質問の山に親は困り果て「学校に行けばいつか習う」とお茶を濁した。

 だがそれで納得しなかった彼は、どうしてもこの本が欲しい事を伝え、遂には駄々をこねて泣きだした。

 やがて親はその並々ならぬ熱意に折れて、どうせすぐ飽きて放りだすと軽く考え、本を買ってあげる事にした。

 だが両親の予想とは違う方向で、この少年はその本を放りだした。

 数日この本と格闘した少年は、この本を読むためには、まずひらがな以外の文字も覚えないといけない事を理解した。

 少年はここで物事を理解するには、下地となる知識と順序が必要である事を自然に学んでいた。

 この時、少年は三歳。ようやく幼稚園に入園する歳だった。

 少年はまず文字を覚える為に何をすればいいか親に聞き、そして子供向けの学習ドリルを買ってもらった。

 どうやらこの文字はカタカナというらしい。

 この複雑な文字は漢字というらしい。

 この文字は数字というらしい。

 少年は親が驚くほどの速さでドリルをこなし、文字を覚えていった。

 ここら辺りで親は少年を塾に入れた。そしてそこで少年は初めて計算に触れた。

 数字を使って足して、引いて、記号を使って、少年は数字と記号の使い方を理解した。

 数字と記号を組み合わせればこんなことも出来るのか。

 実際に数えなくても紙と鉛筆さえあれば、その数を瞬時に求める事が出来る。

 その事実に少年は驚愕した。

 少年はここで覚えた知識は、組み合わせ次第で無限に応用できる事を学んだ。

 その事実に感銘を受けた少年は、塾だけでは飽き足らず、更に次を求めて親に学習ドリルを求め続けた。

 通う塾の数も種類も増えていき、少年は幼稚園へ行く間も惜しんで、狂ったように知識を吸収し続けた。

 やがて五歳になる頃には、少年は小学校卒業レベルの修業を完全に収めるまでになっていた。

 塾は少年に海外留学や私立受験を勧め、噂を聞いたテレビ局から取材が来るようになり、有名なったその少年を迎え入れようと、様々な教育機関が推薦に名乗りを上げた。 

 世間において一人の神童が誕生した瞬間だった。


 少年はとりあえず、親と塾が進める学校に進学する事にした。

 だが少年は進学には、全く興味を示さなかった。

 どこの学校に行こうが、ただひたすらに知識を求めて学習する、それ以外の事はどうでも良かったのだ。

 そしてついに少年は、過去に放り投げたあの本に手を付ける。

 ――読める。

 そして理解出来る。

 少年が本を開き、最初に思ったのはそれだった。

 成程、あの板はIC回路か、あの電球は真空カプセルというのか。

 過去に理解出来なかったものが理解できる。

 その事実に興奮し、少年はその本にのめり込んでいった。

 だが途中で違和感を覚えた。

 この本は本当に時計の事しか記載していない。

 これらはどうやって加工されたのか?

 この回路はなぜこう動作するのか?

 なぜ音を鳴らせるのか?

 知れば知るほど、次の疑問が浮かび上がっては止まらない。

 そしてその疑問に答える為の知識を少年は持ち合わせてはいなかった。

 どんなに頑張っての答えが出ず、ただひたすらに謎だけが増えていく。

 だがその事実を前にしても、少年は失望も挫折もしなかった。

 それどころか、むしろ興奮すらしていた。

 何故なら少年はこの時既に、この問題の解決方法を知っていたからだ。

 分からないのならば、分かるようになるまで学べばいい。

 出来ないならば、出来るようになるまでやればいい。

 そしてなんて素晴らしい事なのだろう。

 今の自分には、それが出来るだけの力と環境が揃っているではないか。


 そこから先は早かった。

 数学、化学、物理学、生物学、地学、語学、天文学――。

 少年は必要に応じて、ありとあらゆる知識を身につけていった。

 やがて少年は青年へ、青年は成人となり、神童の称号は天才へと変わった。

 その貪欲な知識欲の果て、過剰で膨大な知識を蓄えた一人の若き天才科学者は完成した。


 ――後年その天才はこう語る。

 この世界は素晴らしい。

 世界は常に自分に期待してくれている。

 どれだけ極めても、次が見えて止まらない。

 挑めば挑むほど、世界も本気で応えてくれる。

 ならば自分は生涯、この素晴らしい世界に感謝し挑み続けよう。


 その天才の名は――。

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