EP8:協力
知美との買い物から二日後、真玄は一人で沙羅と行った喫茶店「クレストリア」へと向かった。
さすがに降り続いていた雨は昨日で止み、夏らしい青空が広がっていた。しばらく雨で気温は落ち着いていたが、昨日の昼間から再び夏らしい暑さを取り戻していた。
猫丸千草はまだ来ておらず、店内は静かだった。
時刻は午前十時の五分前。真玄はテラスの席に座り、先にホットコーヒーを注文した。
外の田園風景を見ながらコーヒーをすすっていると、店の扉が開く音がした。振り返ると、猫丸千草の姿があった。
「お待たせ、真玄君。ちょっと待ってね。私もコーヒー頼むから」
そういうと、千草はマークシートのホットコーヒーにチェックを入れ、読み取り機に通した。
ドリンクだけの場合はメニューが来るのが早く、読み取り機に通して数分待つと、メニューボックスに温かいコーヒーが運ばれた。
「あれ、この前の奴じゃないんですね」
「たまには、いつものホットコーヒーも飲みたくなるものよ。こっちの世界に来て、味が落ちたみたいだけど」
そういうと、千草は砂糖とミルクをコーヒーに加え、スプーンでかき混ぜた。
「それで、話って?」
千草に言われ、真玄は飲んでいたコーヒーから口を離す。
「えっと、そうですね。まずは千草さんのことについて聞きたいんですけれど」
「私のこと? いいわよ、よほどプライベートなことでなければ」
「じゃあ、まずお仕事はどんなことを? 食品会社に働いているって言ってましたけど」
千草はコーヒーを飲みながら真玄の話を聞く。そしてカップからゆっくりと口を離した。
「この街にある食品会社の経理課、主に会計関連の事務仕事を担当しているわ。伝票を処理したり、会計簿を付けたり、そういう仕事よ」
「会計簿って、簿記とかそういうものですか?」
「そうそう。それで収支を割り出して、コストカットの提案をしているの。要するに、不必要な費用はないか、下げられそうな費用はないかって、帳簿をみて探しているの」
「コストカット、ですか」
「ええ。不必要なものを切り捨てる、これがなかなかできなくて。上の人を何人も通さないといけないし、こちらが不要だと思っても、他の部署が必要な経費もあるし」
千草はそういうと、手にしていたコーヒーを一口だけ飲んだ。
「結構お若いのに、大変なことをしているんですね」
「若いといっても二十五よ。高卒で入社して、もう七年目。後輩も何人かいるし、そろそろ経理課の課長へ昇進する話も来てるわ」
「え、二十五で課長? すごいじゃないですか」
「とはいっても、まだ話だけなんだけど。私以外に仕事を任せられるのが部長クラスの人くらいしかいないから、そういう話が出ているだけよ」
「それだけ期待されているってことじゃないですか?」
「まあ、それはあるかもしれないわね。後輩たちに仕事を振り分けているんだけど、なかなか思った通り進まなくて。それで、結局私が最後までやっちゃうことが多いの」
「それは、最後までやらせた方がよかったんじゃないですか?」
「何度かやらせてみたけど、結局残業時間でも終わらなくて、次の日に私がやる羽目になるの。はぁ、もっといい後輩を持ちたかったわよね」
千草がため息をつくのと同時に、そよ風がテラスに吹き抜けた。夏場のホットコーヒーで火照った体が、少しだけ冷たく感じる。
「大体、こういう仕事の振り分けは、もっと上の人がやるべきなのに、どういうわけか私に任せたがるのよね。それで失敗すれば私のせい、うまくいっても、何もないんだから」
「相談は、しなかったんですか?」
「何度か上司にしたわよ。でも全然聞いちゃくれない。後輩に聞くわけにもいかないし、八方塞がり。だから、私がやるしかないの」
「やっぱり、相談する人がいなかったんですね」
「今は、もう一人でなんとかやっていけているから、別に相談なんて必要ないんだけど」
「なるほど、だから一人ぼっちだって思ったのか……」
「え?」
千草が残ったコーヒーに口を付けようとしたとき、真玄の言葉で手が止まった。
「沙羅ちゃんが言ってたんです。千草さん、なんだかずっと一人ぼっちに見えるって」
「沙羅ちゃん? ああ、真玄君といっしょにいた女の子ね。どうして私が一人ぼっちに見えるのかしら?」
「最初は意味が分からなかったんですけど、沙羅ちゃんもコミュニケーションが取れずに、ずっと一人だったそうです。それで、帰る時の後姿がそう見えたそうです。俺も、さっきの話を聞いて、なんとなくその意味が分かりました」
「どういうことかしら?」
「さっきも言いましたけど、千草さん、相談相手が今いないでしょ? 全部を全部、自分でやってきた。もしかしたら中のいい同僚がいるかもしれないけれど、仕事中は一人だった。そうじゃないですか?」
真玄が言い終わると、千草は静かに残ったコーヒーを飲み干し、カップをソーサーに置いた。
「……そうね。確かに、私は一人だったかもしれないわね。でも、それでも生活することは出来たし、何一つ問題はなかったわ」
「しかし、ここではそうはいきません。仕事場には誰もいませんから、手伝ってくれる人はいません。それに、手助けしてくれる人がいないと、いざというときに困るでしょう」
「私は、誰の助けも借りずにここまで来たの。この世界でも、一ヶ月ほど、誰の手も借りずに過ごしてきた。だから、これからも大丈夫よ」
「そうはいかないんです」
真玄が強い口調で言うと、千草の表情から余裕が消えた。
「実は、千草さんに犯罪者予備軍……犯罪を犯す可能性が高い人間が近づくかもしれないんです。今まで、千草さんと同じ近リア充とよばれている人たちの前には、必ず犯罪者予備軍が近づき、危害を加えようとしました。ですから、そういう奴らが来た時に、千草さん一人では到底太刀打ちできない」
「……そうね。でもそれはあくまで可能性の話。現に今までそんな変な人、来なかったわよ。それにそんな人が来ても、何とかしてみせるわ」
「それだけじゃないんです。元の世界に戻るためには、千草さんの力が必要なんです。確かにこの世界は、自分の好きなことができます。でも、いずれは千草さんも俺たちも実験対象になるんです。そうなったら、どんなに自由に暮らせる世界でも、意味がないんです」
「……」
「お願いです。俺たちに力を貸してください」
真玄の説得に、千草はしばらく額に手を当てて考え込む。時間がかかるだろうと、真玄が残ったコーヒーを飲み干していると、千草は「わかったわ」とつぶやいた。
「どれくらいの力になるかわからないけれど、私も真玄君たちに協力するわ」
「ありがとうございます!」
「ただ、電話でも言ったけど、私の仕事を手伝ってほしいの。そんなに難しいことではないわ」
「俺にできることなら何でもしますよ」
緊張の糸が緩み、真玄に笑顔が戻る。千草はふと、自分の腕時計に目をやった。
「あら、ちょうどいい時間ね。真玄君、さっそくだけど、今から向かうわよ」
「え、この時間にですか?」
「ええ。わざわざ午前中半休を取ったのよ。といっても、申請する必要もなさそうだけれどね」
そういうと、千草は自分のソーサーを持って立ち上がる。それにつられて、真玄も自分のカップを返却口に片付けた。
店から出ようと、店内に入る扉を開くと、見覚えのある人影が見えたので真玄は驚いた。
「さ、沙羅ちゃん?」
扉の前には、前回この喫茶店に来た時と同じ、薄いピンクのTシャツに黒のベスト、黒いスカートを穿いた本頭沙羅の姿があった。
「話は全て聞かせてもらった。真玄、うそつき。千草に会うときは、私も一緒って言った」
「ご、ごめん。とりあえず俺一人で話をしようと思って」
「人手は多い方がいい。私も行く。千草、いい?」
沙羅は千草に向かいお願いした。千草はフフッと笑うと、
「そうね、人数がいた方が仕事がはかどるわ。沙羅ちゃんも、一緒に来てちょうだい」
と言って店の出口に向かった。




