第9話 雪緒と真と生徒会長
気づくと右手はゆっくりと栄養補給ゼリーを握りつぶしていた。おかげで歩くたびに道路に点々とゼリーが落ちていく。
「道路はカロリー摂取しないぞ」
「真さんのバカ」
「いい加減機嫌を直せ」
「真さんのバカ」
「雪緒」
「真さんのバカ!」
雪緒は自分の左手を引いている真を罵った。真は呆然として動けなくなった雪緒の手首をひっつかみ、無理やり引っ張ってきたのだ。
「仕方ないだろう、誠一が嫌がったんだから」
「真さんが怒らせたのが悪いんじゃない! どうせまた無神経でどストレートな物言いしたんでしょうっ。まさかこんなことになるなんて」
雪緒の顔はいつも通り冷めているが、内心は焦りや不安がのたうちわまわっている。よくよく見れば、瞳がゆらゆらと揺れていることがわかっただろう。それだけの感情表現さえ雪緒には珍しいことだった。
「朝に弱い誠一さんが先に行っちゃうなんて」
「驚きだな。おかげで雪緒も目が覚めたようだが」
「真さんはのんきすぎるっ」
今朝、真の携帯電話には誠一から『登下校も昼飯も別。校内でも今後一切つるむ気はない』というそっけないメールが届いていたのだ。昨夜の顛末を何も知らない雪緒がまさか、と何度も玄関のチャイムを鳴らしてみても、家人は誰もいなかった。雪緒は寝ぼけ眼を見開いて事の原因と思われる真に詰め寄ったが、真はいつも通りの態度を崩さない。
「メールも電話もくれない。っていうか着信拒否。どうしたらここまで誠一さんを怒らせられるの、真さん……」
雪緒は途方にくれたように携帯電話を見下ろした。何度新着メールの問い合わせをしても無駄だった。
「誠一さん、やっぱり大橋愛梨さんのこと……」
「雪緒。大丈夫だ」
「何が?」
真は雪緒を安心させるように微笑んだ。手錠のように手首をとらえていた手をゆるめ、今度はしっかりとつなぎなおした。
「俺を信じていろ」
雪緒と真は気づいていなかったが、真が雪緒に微笑みかけたとたんに叫び声がそこかしこで上がっていた。その大半は登校中の山城学園高等部生徒である。
「うそ、ついにあの2人くっついちゃったの!?」
「やだやだやだ、なんでぇええええ!? 宮田先輩~~!」
「今まではサカガミに連行されるように登校してきてたのに……!」
「あ、有辺さん……!! 宮田はアレで安全牌だと思ってたのに!!」
手をつないでいる。
熱く見つめあっている。
宮田真が優しい微笑み付で有辺雪緒にささやいている。
そして何より、坂上誠一がいない!
3人組、カップル成立につき解散か!? との噂が校内をかけめぐるのに、たいして時間はいらなかった。
「ユッキー、坂上センパイとケンカしたって本当なの!?」
愛梨は雪緒が教室に入ったとたんに声をかけてきた。大きな瞳が悲しそうにうるんでいた。雪緒が今一番会いたくない相手だ。
「登校中に坂上センパイに会ったの。1人だったからユッキーたちはどうしたんですかって聞いたら……」
愛梨はためらうように唇をかんだあと、細い声で「あいつらとはもう関わらねーことにした」と誠一が告げたことを伝えた。
「ねぇ、ダメだよ、ケンカなんて。あんなに仲いいのに」
誰のせいだ、と糾弾したい気持ちをおさえ、雪緒は黙る。口を開けば愛梨を傷つけることばかり言ってしまいそうだった。
愛梨はよほどショックだったようで、周りのことが見えていない。教室中の好奇の視線を浴びていることにどうして気付かないのか。雪緒はこれ以上その話をここでしたくなかった。
「……あたしのせいだよね」
「え?」
まさか、自覚していたのか? 雪緒が思わず聞き返すと、愛梨は真剣な面持ちで続けた。
「昨日、あたしが『宮田センパイとユッキー付き合ってるの?』なんて言っちゃったから。隠してたんだよね。だから坂上センパイ、怒っちゃったんだよね……」
「……え?」
野次馬の中に「やっぱり」とうなずく人がいることに気づき、雪緒は愛梨の『妄想』を理解した。
「でも、そういうのって隠されるとちょっと傷つくかも。あたしもそうだし、坂上センパイはもっとだよ。センパイ、かわいそう……」
愛梨はポニーテールをしゅん、と垂れさせた。雪緒はそれを冷ややかに見下ろす。
「付き合ってない。隠してもいない」
「え?」
今度は愛梨が聞き返す番だった。
「昨日言った通り、私と真さんは付き合っていない。恋人じゃない」
「え、でも……」
「誠一さんと今日登校しなかったのは別の理由。変な憶測しないで」
しん、と教室が静まり返る。雪緒は周りから何を言われてもどこ吹く風、のスタンスをとっていたというのに、このように真っ向から嫌悪感を示すのは初めてのことだ。
びくっと体を震わせた愛梨は、まるで子リスのようだった。その仕草に余計に雪緒の苛立ちは増す。
「ご、ごめん! なーんだ、あたしすっかり勘違いしちゃって。ごめん、ごめん!」
えへへ、と無理やり作り笑いをすると、愛梨はおどけて舌を出して見せた。
「でもやっぱりケンカはだめだよ。お昼はどうするの? 一緒に食べるんだよね?」
一緒に? それは自分のことも入れているのか。
おずおずと上目づかいにこちらをうかがう愛梨から目をそらし、雪緒は淡々と言った。
「しばらくお昼も別になるみたい」
「えっ! そんなのダメだって! 時間置くと余計こじれちゃう」
愛梨はダメダメ、と首を横にふる。そして「あ、わかった!」と光さすようにパァっと笑顔を見せた。
「あたしにまかせてよ! 顔合わせづらいのはわかるし、でも仲たがいしたまんまじゃもっとマズイし! あたしが仲立ちする!」
ぐっと握りこぶしを作った愛梨は、鼻息もあらく宣言した。
「安心して、ユッキー! 必ず坂上センパイと仲なおりさせてあげる!」
雪緒は、あまりの衝撃に頭の中身がとろけだしそうな心地がしていた。
真の何を信じればいいのかまったくわからなくなった雪緒であった。
昼休み、いつもの空き教室へ行ってもやはり誠一の姿はなかった。落胆した後に雪緒と真が向かったのは生徒会室だった。あの場所は3人で過ごす場所だ。楽しい食事の時間でも耐えがたい喪失感に襲われてしまう。
「2人でココに来るなんて、珍しいこともあるもんねぇ、宮田クン?」
「まあな。たまにはいい」
「よくないコもいるみたいだけど?」
やたら艶めいた唇で孤を描くのは、生徒会長の二本松清香である。黒いストッキングに包まれた足は理想的なラインを描き、パイプ椅子から投げ出されていた。雪緒と同じく完璧に校則通りの制服の着こなしなのだが、なぜか彼女の場合は独特のあだっぽさが醸し出される。
城山学園きっての英才と名高い清香は、圧倒的カリスマをもって生徒会長として君臨していた。口元のホクロが魅力的だが、発せられる言葉は誰もが耳を傾けざるを得ず、いつの間にか従ってしまっているという恐ろしい力をもっている。
彼女は3人組を「謎」としない、数少ない人であった。
「相変わらずバカやってんのねェ」
というのが彼女の3人への評価である。そしてこれは限りなく正解に近い。
彼女も校内の有名人であり、たいていは1人で生徒会室に居座っている。清香はひょいと顔をのぞかせた2人を部屋の主として歓迎したのだ。
「会長。真さんのせいで誠一さんが怒ってしまったんです」
「あら、それで寂しいのね、かわいそうな雪緒ちゃん。宮田クンさいてー」
「俺のせいじゃない。誠一が勝手に言い出したんだ。雪緒をあおるな、二本松」
清香はクスクスと笑うと、雪緒の手元をのぞいた。
「でも、坂上クンお手製弁当がないせいでよりかわいそうになってるんだもの。雪緒ちゃんのお昼ゴハン」
雪緒の昼食メニューは、ビタミン摂取のできるゼリー飲料と真が渡したメロンパンであった。
「雪緒ちゃん、わたしのお弁当食べる?」
清香は折詰のような弁当箱を雪緒の前に差し出した。
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
「そぉ? 残念。わたしも雪緒ちゃんに餌付してみたかったのに」
本当に残念そうな清香に、真は露骨に顔をしかめてみせた。
「雪緒ちゃんってホントかわいい。アンタらにはもったいなーい」
「二本松!」
「おお、怖い怖い」
清香はひょうひょうと笑った。
「ところで、坂上クンはどこに? ってアラ、今度はこっちが怖い顔?」
雪緒の感情の変化をなんとなく感じ取った清香は、真に目だけで問いかけた。
「……誠一は、問題の1年女子と一緒にいる」
「へぇ! ホントに仲良しだったの、あの天然子リスちゃんと」
「天然子リスだと?」
「わたしとすれちがった時、『うわー、なんだかエロい美人……ってああああ! す、すみません、失礼なこと言って! つい心の声が! センパイ、とってもキレイですねっ』って言われた。わたわたしながら」
「そうか」
あんなストレートに言われたのハジメテー、と清香は笑う。彼女はたいてい口元に笑みを浮かべているが、それが彼女の表情というものを隠している。内心どう思っている事やら、と真は嘆息した。
「雪緒ちゃんはあのコが気に入らないのね?」
「だって……」
雪緒はメロンパンのクッキー生地のみ剥がして口に運んだ。言い訳もしようがない。自分の狭量さには呆れてしまうが、それでも気に入らないのだ。雪緒はばつの悪さから、清香を見ることができない。
「いいの。ガンガンいじけてみせなさい。嫉妬して、涙ぐんで、わめいてみなさいよ」
「はい?」
「それが一番いいんじゃないかしらねー」
清香は漆塗りのハシを弄びながら歌うように言った。
「……雪緒にそんなことされたら、俺が誠一にどんな目にあわされるかわからないんだか……」
「でも、向こうから絶交されちゃってるんでしょ? じゃあいいじゃない」
「む」
「おもしろいわよォ、絶対!」
ね、そうしなさいよ、と清香は雪緒にすり寄った。
雪緒の思案顔がまた真をあせらせる。
誠一、お前は俺の考え以上に後悔することになるかもしれないぞ。
真は心の中で幼馴染に語りかけた。
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