9.消失
朝のショートホームルームが開始されてすぐに安上先生が『良いお知らせ』として語った内容に、僕は驚きを隠せなかった。
「渡辺君は症状の改善が認められて、今朝、元の学校に戻りました」
昼休みに渡辺の部屋を訪ねてみるとすでに荷物は運び出されており、彼がいた痕跡を見つけることすらできなかった。
放課後には職員室まで足を運び、安上先生に渡辺の連絡先を訊ねた。
「それは教えることはできないよ。君も知っているとおり、この学園は少しだけ特殊な事情のある子らのための施設でもあるから、なおさら個人情報は厳格に管理する必要があるんだ。すまないけど、そこはどうか理解してほしい」
それを言われてしまったら、返す言葉などあるはずがなかった。
肩を落として廊下を歩いていると、渡り廊下の向こうから宗方先生がやってくるのが見えた。
一礼してからダメ元で事情を説明し、渡辺の連絡先を教えてもらえないか訊ねるる。
「彼の個人情報の一切に関しては他言できない。無論それは他の生徒であっても同じだ。この場所は傷つき疲れ果てた者たちが羽を休めるための場所で、それ以上でもそれ以下でもない」
もともと覚悟はしていたが、安上先生の時以上に取り付く島もない返答にため息が漏れそうになる。
宗方先生に形だけの礼を言い、その横を通り過ぎようとした時だった。
「ところで杉卜。君は昨日、保健室で白鳥先生とどんな話をした?」
「……それは個人情報なので答えられません」
我がことながら、これではまるで拗ねた子供ではないか。
「まあ、いい。ただ、ひとつだけ忠告しておく。定められた検査やカウンセリングの時以外、あまり保健室には近づくな」
その声のトーンは普段にも増して鋭く、それに冷たかった。
忠告などと言っておきながら、これではほとんど命令ではないか。
「他の者たちにも言っておいてくれ」
背後から重ねて掛けられた声に、今度は返事をせずにその場をあとにする。
夕食を済ませて風呂に入ると、就寝時間までをどう過ごすかという課題に直面する。
それはこの学園に来てからの日課でもあり、その答えとしてクラスメイトたちとの会話で余暇を埋めるのが定番化していた。
消灯を一時間後に控えた寮の談話室には、僕を含めて五人の姿があった。
その一人は僕と同じ”球技委員”の関で、彼もまた渡辺とは仲が良かった。
「関、ちょっと話があるんだけどいい?」
中央のソファーに体を預けていた関は僕の呼びかけに反応すると、「ああ、わかった」と短く呟いた。
部屋の隅のスツールに座り向かい合うと、関が先に口を開いた。
「話って、渡辺のことか?」
「あ、うん。急だったからびっくりしたよ。関はあのあと渡辺とは会った?」
「いんや。だけど今朝、校舎に行く前に渡辺の部屋に寄ったんだよ。ノックをしたけど返事がなくて、ドアが少しだけ開いてたから中を覗いてみたんだけど……」
関はそこまで言うと、あたりを見回しながらわずかに声のトーンを落として続けた。
「杉卜はさ、渡辺のやつが寝る時にどんな格好してたか、覚えているか?」
寮生活では皆、自宅から持ち込んだ服を着ている。
風呂あがりにはパジャマに着替える者が多かったが、渡辺は確か――。
「紺色の甚平じゃなかった?」
「半分だけど正解。アイツはいつもその下に黒いTシャツを着ていた」
言われてみれば確かにそんな格好だった気がする。
「それがどうかしたの?」
「ドアの隙間から覗いたら……あったんだよ。その甚平とTシャツが」
「渡辺の部屋に渡辺の服があったって、別に普通のことじゃない?」
「それがまるで中身が……渡辺だけが溶けちまったみたいに、ヒトの形のままでベッドの上に置いてあったんだよ」
その異様としか言いようのない光景は、あまりに簡単に想像することができた。
「なあ、杉卜。今から渡辺の部屋に行ってみないか?」
「……うん」
二十二時の消灯時間まであと三十分と少しとなった寮の廊下には、僕たち二人以外に人の姿はなかった。
その静かな廊下を一番奥に進んだ突き当りに渡辺の部屋はある。
「ここだ」
関が立ち止まった部屋のドアからは、昨日まで貼られていたネームプレートが外されていた。
ドアノブに手を掛け右に捻ると、ギッという小さな音を立ててドアが開く。
廊下から漏れ入った長方形の明かりに照らされた部屋には、もともと備品として用意された机とベッド、あとは壁に掛けられた時計だけが残されていた。
ベッドの上に目を向ける。
関が今朝みたという渡辺の甚平とTシャツはなかった。
丸く飾り気のないアナログ時計の時間は、なぜか三十分ほど進んでいた。
しかしよく見てみると、その秒針はピクリとも動いていない。
二十二時で止まってしまっていたから、三十分進んでいるようにみえたのだ。
「やっぱり何もないか」
ドアを開ける前から結果がわかっていただけに、驚くこともなければ落胆することもなかった。
僕と関はただ、採点の終わった答案用紙を見直したかっただけなのかもしれない。
「まあ、先生が言った通りなんだろ。昨日、体育館でやつに何かがあって、それで記憶を取り戻して元の生活に戻っていった。それでめでたしめでたし、ってな。でも、別れの挨拶くらいはしたかったけどな」
「……ねえ、関。僕がこの学園に来る前にも元の学校に戻っていった生徒って、いたの?」
「ああ。俺は一月からここにいるけど、渡辺を入れて五人目かな」
「五人も? その五人はみんな、渡辺みたいに急にいなくなってしまったの?」
関は足元に落としていた視線を廊下の天井に向け、少しのあいだ考えてから言った。
「いんや。渡辺ともう一人以外は説明があって、それでちゃんと挨拶もしたよ。ただ、みんななんか暗い顔をしてたっけな」
元の生活に戻れるのに、揃いも揃ってなぜ暗い顔をするのだろうか。
「それで、そのもう一人って?」
「なんて言ったっけ。……ああ、たしか小早川だったかな。俺が転入してちょっとした頃に、急にいなくなったんだよな」
関は自分の部屋を通り越して、僕を部屋まで送ってくれた。
きっと僕の青ざめた顔を見て心配してくれたのだろう。
『そういえば小早川もいなくなる前の日に渡辺と同じように倒れて、それで保健室に運ばれてったんだよ。めちゃくちゃガタイがよかったから、クラスの男子の半分くらいで運んだんだぜ?』
聞かなければよかったと、心からそう思った。
体育倉庫での一件は病気が見せた幻だと思えば、不気味ではあっても不思議ではない。
ただ、転入初日に出会った小早川という男子生徒の件については、病気にその責任を押し付けることができなくなってしまった。
ハンガーに掛けて壁に吊るしてある制服が、視界の隅に不気味に映った。
その小早川という生徒も、これと同じものを着ていたという。
僕が着るにはだいぶ大きなシャツの胸ポケットから出てきたのは、洗濯されて半分以上の判読がつかなくなった紙切れだった。
『 には いに気を な あ つは 』
クラスメイトにミステリー好きでもいれば、欠損した部分を埋めてもらうことができるかもしれない。
しかし僕はそれを知ったところで、果たしてどうしようというのだろう?
そもそものところ小早川という生徒と出会ったこと自体が、病気によって後付けで作られた記憶だという可能性もある。
メモは机の引き出しに入れてあった。
もしそれが無くなっていれば、もう一度すべてを病気のせいにすることができる。
机の前に立ち、引き出しの取手に指を掛ける。
スライドレールが錆びついているのか、開けるのに少しだけ力がいった。
引き出しの一番手前には何本かのペンが銀色のトレーに載せられ置かれている。
その次に見えたのは、受け取ってから一度しか触れていない生徒手帳だった。
そして引き出しの一番奥にあったのは、ほとんどゴミと見間違えるような、ボロボロの小さな紙切れだった。




