8.籠球
今日は朝から体育館の二面あるバスケットコートで、男女別に計四チームに分かれて試合が行われていた。
球技大会と聞いていたが、蓋を開けてみれば普段の体育の授業との違いがよくわからなかった。
明らかになったことがあるとすれば、各人のバスケットボール経験の有無くらいのものだろう。
渡辺も僕と同じで、ここに来る以前の記憶をほとんど取り戻していない側の人間だった。
だが、コートを縦横無尽に駆け巡り華麗にシュートを決めるその勇姿から、彼がバスケの経験者で、しかもそれなりの実力者であることは明白だった。
それに対して僕はといえば、バスケという競技を行うには身長も体重も、それに手のサイズも小さすぎた。
「圭佑! パスパス!」
「え? あ、ごめん……」
上手くパスを出すことも、味方から出されたパスを受けることもままならず、気がつくとスコアボードの横が僕の定位置になっていた。
男子のコートとネットを一枚挟んだところでは、女子たちがやはり熱戦を繰り広げていた。
ほとんどの女子は僕と同じかそれ以下の身長なのにも関わらず、僕よりも上手に立ち回っている子のほうが多かった。
ヒナに至っては、渡辺と1on1でやりあってもいい勝負をするのではないかという具合で、彼女がゴールを決めると相手チームのメンバーからも拍手が沸き起こっていた。
どうやら僕に足りないのは身長でも体重でも手の大きさでもなく、運動神経だったようだ。
「……はあ」
思わず大きめなため息が出てしまった。
再び視線を男子のコートに戻すと、ちょうど渡辺がロングシュートを放つところだった。
彼の手を離れたボールは綺麗な放物線を描き、まるで絵に描いたかのようにゴールネットをスパっと揺らす。
もし男女の試合が交互に行われていたなら、彼はきっと今ごろ女子たちの黄色い声援に塗れていたことだろう。
ひとつの試合が終わると十五分の休憩を挟み再び試合が行われるという、まるでシャトルランのような球技大会は午前中いっぱい続けられた。
真夏の体育館は窓が開け放たれているとはいえ、三十人からの若者たちが放つ熱気と湿気で温室の様相を呈していた。
これで午後が放課であれば、寮に帰ってシャワーでも浴びてから昼寝を決め込めるのだが、残念ながら昼食のあとは普通に授業が行われるらしい。
すべての試合が終わり、体育館から一人また一人と選手たちが退場していく。
最後に残ったのは安上先生と僕と関、そして渡辺の四人だった。
「それでは球技委員の君たちは片付けをお願いします」
いつの間にか球技委員という潰しの利きそうにない役職まで与えられていた。
昨日と同じように体育館の床全体にモップを掛け、ボールとスコアボードを体育倉庫に運び込む。
たったそれだけの仕事なのだが、僕はもう二度と、この学園の体育倉庫に足を踏み入れるつもりはなかった。
「ごめん。僕は床掃除でもいい?」
「ああ、いいよ。じゃあモップは杉卜と関で頼むわ」
渡辺はボールの入った車輪付きのカゴをガラガラと押しながら、体育準備室の暗がりに消えていく。
早く終わらせて昼食に有り付こうと駆け足でモップを掛けていると、ほんの一分前に準備室に入ったばかりの渡辺が顔を真っ青にして飛び出してきた。
ふらふらとした足取りでこちらに歩いてきた渡辺は、僕と関の顔を見るなり、「ははは」と乾いた笑い声をあげ、そしてその場に倒れてしまった。
(……ああ)
すぐにわかった。
きっと彼も見てしまったのだろう。
それもネズミよりも、ずっとずっと良くないものを。
僕と関とでほとんど引きずるようにして渡辺を保健室まで運んだ。
白鳥先生はベッドの上に横たえた渡辺の脈を取り、続けて瞼を開いてなにかを確認した。
「先生、渡辺は……」
「心拍も呼吸も正常値に近いし、それに瞳孔反応もあるから大丈夫よ。たぶん貧血でしょう。頭をぶつけたりはしてないのよね?」
「はい。足から崩れるように倒れたから、それは大丈夫だと思います」
「そう。だったらあとは先生が看ているから、あなたたちは教室に戻っていいわ」
「……でも」
僕が言い淀んでいると先生は、「放課後になったらまた来てあげてちょうだい」と言った。
五時間目と六時間目の授業が終わるとすぐに保健室に足を向けた。
やりかけたままだった体育館の片付けは関がなんとかしてくれるらしい。
保健室のドアをノックするとすぐに、「どうぞ」という声が返ってくる。
「失礼します。あの、渡辺は?」
「さっき目を覚まして、寮まで送ってきたところよ」
「……よかった」
「ねえ、杉卜くん」
先生は僕の目を真っ直ぐ見ながら言った。
「渡辺くんがどうして倒れたのか、その理由をあなたは知っているんじゃない?」
「……」
「心配しなくていいの。ここではこれまでにもこういうことはあったし、それはあなたたちが復調するために必要なことでもあるの」
確かに僕たちがここにいる理由を考えた場合、先生に対して隠し事をしてもデメリットしかない。
幸いにも――と言っていいのかはわからないが、僕がここの学園の生徒である以上、どれだけ荒唐無稽な話だったとしても、嘘をついているだとか頭がおかしくなったと思われることはないだろう。
「……実は」
昨日の体育館で僕の身に起きたこと、そして今日の渡辺が倒れた時の状況を可能な限り詳しく先生に話した。
「……そう。そんなものが見えたのね」
「はい。渡辺が同じものを見たのかどうかはわかりません。でも、あの時の様子からしたら、きっと異常な体験をしたんだと思います」
白鳥先生は机の引き出しから黒いファイルを出すと、その中から取り出した一枚の紙に目を落とした。
「渡辺くんはきっと、自分の記憶の断片を見てしまったのね」
「……記憶の断片?」
「ええ。彼やあなた、それにこの学園の生徒たちが罹患している突発性解離性健忘は、まだわからないことのほうが遥かに多い病気なの」
それは、ここに来る前に診てもらった医者にも聞いていたことだった。
「その症状の一つに記憶のフラッシュバック、つまりはなんらかの出来事がきっかけで急に記憶が蘇る現象が起こることがあるのは知られているの」
だとしたら、彼はいったい気絶をするほどの何を見たというのだろうか?
「……先生。でも、僕が見たのは、その……さっき話した……」
「ええ、そうだったわね。ごめんなさい。私の話す順番がよくなかったわね」
先生は手にしていた紙をファイルに戻すと、もう一枚べつの紙を取り出した。
「渡辺くんが倒れた原因がフラッシュバックによるものだとしても、あなたが見たものが同じ現象だとは限らないの。突発性解離性健忘には幻覚や幻聴といった症状もみられるから、あなたの場合がそちらだったとしたら一応の説明はつくでしょう?」
それはもっともだが、ここまでの話で確かなことが一つもないことに不安を覚えた。
渡辺や僕が見たものは、本当に病気の症状によるものなのか?
もっといってしまえば、僕たちは本当にその病気のせいで記憶を失ってしまったのか?
本当はもっと重い病気かなにかで、この学園はその事実を隠すための隠れ蓑なのではないだろうか?
「ねえ、杉卜くん」
声がやけに近くから聞こえて顔を上げると、先生の顔がいつの間にかすぐ目の前にまで迫っていた。
「いま君がどんなことを考えているのかは先生にはわからないけど、でもね」
身を乗り出すようにして喋っていた先生は、元の姿勢に戻ると両手を膝の上に置いて再び口を開いた。
「先生の言う通りにしていれば、きっとよくなるから。だからあなたたちはなにも心配しないで、楽しく学生生活を送っていればいいの。わかった?」
先生はそれだけ言うと椅子から立ち上がり、カーテンの引かれたベッドの奥へと歩いて行ってしまった。




