6.家路
ピアノの音を追いかけながら上へ上へと足を動かしていると、ついには三階の廊下の突き当りまでやってきてしまった。
音楽室の分厚いドアが少しだけ開いており、縦長な隙間から黒光りするグランドピアノと、その前に座っている人の姿が見えた。
自分一人が通れるだけドアの隙間を広げ、カニのような動きで音楽室に入室する。
「……朝比奈さん?」
ピアノの前で椅子に腰掛けていたのはクラスメイトの朝比奈ヒナだった。
「あ、ユウ」
すっかり忘れていたが、彼女は僕のことをそう呼んでいたのだった。
その理由は、『君ってぜんぜん圭佑っぽくない』とのことだったが、僕のどこが『圭佑っぽく』なくて、どこが『ユウっぽい』のかの説明はまだ受けていない。
もっとも当の僕にとっても杉卜圭佑という名は愛着のない、言ってしまえば出席番号のようなものでしかなかった。
なので彼女が僕を呼んだところで大した不都合は感じなかった。
「私になにか用事だった?」
「あ、ううん。そういうわけじゃないけど、職員室に行った帰りにピアノの音が聞こえたから」
「……あっ! もしかしてドア、あいてた?」
ほんの少しだけど、と言いながら親指と人差し指を目一杯広げてみせる。
「あちゃー。前もおんなじことして宗方先生に怒られたの」
そう言って小さく舌を出した彼女は、まったく悪びれたふうには見えなかった。
「それで? ユウはなんで職員室に行ってたの?」
家に電話を掛けに――と言おうとしてやめた。
そんなことを言えば、『おうちの人はどうだった?』とか、そっちの話題になることはわかりきっている。
なのでもっともらしい嘘をついて誤魔化すことにした。
「課題でわからないところがあって。それで安上先生のところに」
「だったら私、国語はちょっとだけ得意だから教えてあげよっか?」
「国語っていっても古文だけど」
「あ、古文はムリ」
彼女は顔の前で大袈裟に腕をクロスすると、大きなバッテンを作った。
「……ねえ、朝比奈さん」
「あ、ヒナでいいよ。っていうか、そう呼んでほしい」
切れ長で大きな目が真っ直ぐ向けられる。
僕は肉食獣のような彼女の視線から逃れるために、壁に貼り付けられたシューベルトを見つめたまま質問した。
「さっき弾いてたのって……なんて曲なの?」
「ドヴォルザークのこと? 家路っていうんだけど、ユウは聞いたことない?」
その作曲家の名前もその曲名にも、まったく聞き覚えがなかった。
ただ、その知らない人が作った知らない曲を、僕はなぜだかとても懐かしく感じた。
「この曲、お友達がよく弾いていたの。聴かせてもらってるうちに、自分でも弾けたらいいなって。それでたまに練習してるんだ」
「朝比奈さんはもともとピアノが弾けたんだ?」
「わかんない。っていうか覚えてない。でも、楽譜は読むことができたから。だから少なくともだけど、ちょっとくらいはやってたんだと思う」
すっかり忘れていたが、そういえば彼女も僕と同じ理由でこの学園にいるのだった。
「……あの。もしよかったらだけど、さっきの曲、もう一回だけ弾いてもらえないかな?」
「うん、いいよ。でも条件付き。私のこと、ヒナって呼んで。そしたら弾いてあげる」
それは少しだけ照れくさい要求だったが、チップだと思えば安いものだ。
「ヒナ」
「なんか心がこもってないけど……まあ、いっか」
ヒナの白く細い指が鍵盤の上を踊るように滑る。
いや、滑るように踊ると言ったほうがいいのだろうか?
いずれにせよ、その滑らかな動きに合わせて奏でられた旋律は、美しくて懐かしくて、それに少しだけ悲しかった。
短いその曲を弾き終えた彼女は、鍵盤の上にフェルトを掛けてから蓋を下ろした。
そして、ほんの一瞬だけ壁の時計に目をやってから、「ちょっとだけ寄り道してから帰ろ?」と言い、僕の手首を掴んで歩き出す。
彼女が以前、どんな場所でどんな生活を送っていたのかを知るすべはないが、そこでもきっとこんなふうに、自らの意思に忠実に生きていたのだろう。
音楽室を出てさらに階段を上っていくと、やがて目の前に両開きの大きな扉が現れる。
それはA棟の一階にある『道の部屋』の扉とそっくりだったが、こちらには銀色の四角い取手が付いていた。
「開けてみて」
言われるがままに取手に手を掛け力いっぱい引くと、やや赤みを帯びた光の亀裂が縦と横に広がった。
「この学園って、屋上があったんだ」
コンクリート製のタイルが貼られた屋上には、大きな貯水タンクがひとつと、それに比べればだいぶ小さなエアコンの室外機が何台も置かれている。
「ユウ、こっち」
再び手首を握られ、緑色のフェンスの前まで連れて行かれる。
「あっちが西の空。ほら、もうすぐ夕日が沈むよ」
逆光によって黒く染められた山並みのそのすぐ上に、真っ赤な太陽がゆらゆらと揺れながら沈んでいくのが見えた。
「ヒナは夕日が好きなの?」
「うん。それに私、君のことも好きだよ」
「……え?」
「花びらが散って葉っぱだけになった、春の桜が好き。まるで世界の終わりみたいな、夏の夕焼けが好き。落ち葉で埋もれて見えなくなりそうな、秋の歩道が好き。北風に家路を急かされる、冬の夜が好き。君のことは、その次の次くらいに好き」
僕は彼女にからかわれているのだろうか?
それともこれが彼女の平常運転なのか?
そのどちらが正解なのかはわからなかった。
なぜなら僕たちはまだ知り合ってから一週間しか経っていないのだから。
「じゃ、そろそろ寮に帰ろっか」
「……うん」
こうして僕たちは黄昏を背にしながら屋上をあとにした。
寮の食堂で夕食を済ませてから風呂に入ると、あっという間に就寝時間になった。
今日という日は本当にいろいろなことがあった。
職員室の電話の向こう側から聞こえたあの声は、僕が知っている誰の声でもなかった。
もっともその、『僕が知っている』という部分は、この学園に在籍しているクラスメイトに教師を含めた三十余人のことで、それ以前に関係のあった人たちの声だった可能性は排除できない。
いずれにせよ、こればかりは誰かに話しても答えが得られるはずもなかった。
音楽室でヒナが弾いていたあの曲も、僕には聞き覚えのないものだった。
だとしたらあの時に感じた郷愁は、記憶を無くす前にあった出来事に由来しているのかもしれない。
屋上でヒナに、『君のことも好きだよ』と言われた時、僕はその言葉の意味をほとんど理解できなかったし、それは今この時でも同じだった。
ただ彼女が口にした”好き”は、所謂ところの告白だとかそういった類の”好き”ではないことだけはすぐにわかった。
その直後の彼女の詩のような言葉にあったように、彼女にとって僕は花びらが散って葉っぱだけになった春の桜や、落ち葉で埋もれて見えなくなりそうな秋の歩道よりも下位に位置する”好き”なのだろう。
「それってそもそも”好き”といえるのかな……」
その答えはここにはなく、彼女の内にある"好き"の概念次第だった。




