30.うしろの正面
太陽が山の背を越えて昇り切ると、再び世界に色が戻ってきた。
すぐ目の前の同じ高さのところにヒナの顔がある。
よく手入れされた栗色の髪は陽の光を受けて環状に光って見えた。
「……ごめんね。あなたのことを生んであげられなくて。ごめんね。あなたのことを守ってあげられなくて」
ヒナの大きな瞳からポトポトと音を立てて銀色の涙が滴り落ちる。
その輝きは夜空に浮かぶ星々と同じで、いつしか僕と彼女の足元には幾つもの星座が描かれていた。
「ヒナが謝ることなんてないよ。それに、ヒナが祈ってくれたから。願ってくれたから。だから僕たちはこうしてこの場所で出会うことができたんだから」
「……ユウ。私、幸せだった。生んであげることはできなかったけど、あなたの顔を見ることができた。あなたの声を聞くことができた。あなたに名前をつけてあげることができた」
「僕もだよ、ヒナ。ありがとう。僕のことを愛してくれて」
ほんのさっき顔を出したばかりの太陽だったが、空のてっぺんに到着するやいなや、今度は同じ速さで来た道を戻って西の山並みに沈もうとしていた。
それはまるで勘違いの帳尻合わせをしているようだった。
その証拠だとばかりに、太陽は丸い顔の全体を真っ赤に染め上げている。
「ねえ、ユウ。まだこの学園にいたい? もう少しだけ私と一緒にいてくれる?」
彼女は上目遣いでそう言うと、ゆっくりと持ち上げた手で僕の頬を撫でてくれる。
「それもいいけど、でも、今度こそヒナのことをちゃんと……」
「なに?」
「……お母さんって呼びたい」
沈みかけていた太陽に照らされ、彼女の顔が真っ赤に染まる。
「ユウがそうしたいなら……うん。それじゃ、いこっか?」
僕と彼女は同時に頷くと、どちらかともなく取った手を固く繋いだ。
やがて短い役目を終えた太陽が西の山並みに沈みきる直前、雷の光によく似た青白い閃光が放たれる。
その瞬間、世界中のありとあらゆるものから影が消え去――
学園の短い夏休みの最終日。
日没間近に学園に戻ってきた宗方が最初に向かったのは、無機質で居心地のいい生徒指導室ではなく、指導方針は異なるが生徒思いの校医がいる保健室でもなく、この閉じられた空間で一番高い場所にある校舎の屋上だった。
校門をくぐる時に目にした夕焼けが普段にも増して美しかった。
それがいま彼がこの場所にいる理由のすべてだった。
あともう数分もすれば、西の山並みの向こう側に日が落ちる。
そしてまた明日になれば新しく生まれ変わった太陽が、今度は東の空を白く染めながら昇ってくる。
その当たり前でしかない世界の営みに、彼の心はしたたかに打ち据えられていた。
漆黒の緞帳が夏の空を覆い隠してしばらく経った頃。
宗方はようやく屋上を去る決心をし、軍人ばりの規則正しさで回れ右をする。
その時、視界の片隅のフェンスに立て掛けられた一冊の絵本が目に入った。
読み古されて角がすっかり丸くなったそれは、恐らくはこの学園の生徒がここに置いていった物だろう。
「……やれやれ」
拾い上げた本を何気なしにパラパラと頁を捲り、物語が幸せな結末であったことに宗方は充足感を覚えた。
宗方が塔屋のドアノブに手を伸ばそうとした時、不意に背後から若い男女と思しき声が聞こえた。
「……誰かいるのか?」
声がしたと思しき方向に素早く向き直るもそこには人の姿などなく、ただものさみしげな夜の静けさだけがあった。
……長旅の疲れのせいだろうか。
そう思った彼は左右の手の指を交互に組み、大きく伸びをした。
その結果として、脇に挟んでいた絵本がコンクリートの床の上に落ちてしまう。
それは彼にとって恥ずべきミスだったが、幸いにもこの場所に人の目はない。
「やれやれ。私としたことが」
表紙を下にして落ちた絵本に伸ばした宗方の腕がほんの一瞬だけ、その動きを止める。
「……そうか」
彼はそう独りごちると、膝を折り曲げて絵本を丁寧に拾い上げた。
そして裏表紙についた砂埃をハンカチで払ったあと、余白に書かれた『あさひなゆう』という文字をそっと指でなぞった。
「卒業、おめでとう」
了




