3.メモ
「え? 行くってどこに?」
彼女は僕の問い掛けに答える素振りなど一切みせることなく歩き出した。
「あ、ちょっと待ってよ!」
ズボンの裾を持ち上げながら彼女の背に縋るように駆け出す。
僕のその様子を傍から見たら、母親においていかれそうになった小さな子のように映ったかもしれない。
「ねえ、どこに向かってるの?」
背筋を伸ばしてスタスタと先を行く彼女の背に話し掛ける。
「どこだと思う?」
それがわからないから聞いるのだ。
「僕は寮に行きたいんだけど」
「知ってる。心配しなくても連れていってあげるよ」
そう言っている間に中庭を通り抜け、さっきとは別の校舎の中に足を踏み入れた。
そこは先ほどの校舎と同じような作りだったが、いくらか学校然とした空気があった。
廊下の隅には真新しいロッカー、それにスチール製の掃除用具入れが置かれている。
しかし、ロッカーに付けられた名札の文字の全てが黒く滲んでいて読み取ることができない。
彼女は急に立ち止まると両手をカカシのように左右に大きく広げ、細くて長い人差し指をまっすぐに伸ばした。
「さっき君がいたあっちがB館で、いまいるこっちがA館。こっちの一階が私たちの教室。教室は二階と三階にもあるけど、使われているのは一階のクラスだけ」
「……今って、授業中なんだよね?」
「そうだよ」
彼女は事も無げにそう言った。
「君は授業に出なくてもいいの?」
「うん、今はね。白鳥先生に頼まれたの。君のこと、案内してあげてほしいって」
だったら最初にそう言ってくれたらよかったのに。
「だったら最初にそう言ってくれたらよかったのに」
心の中で思ったことをそのまま口にする。
「さっき言ったでしょ? ここの人たちは大事なことはなにも教えてくれないって」
まるで小さな子に言い聞かせるような物言いだった。
「……次からはそうするよ」
彼女の耳まで届かないような声量でそう言い、先を行く背中を追い掛けて少しだけ歩幅を広げた。
廊下をしばらく歩いていると、左の壁に大きな扉があるのが目に入った。
プラスチックの白いネームプレートは左半分が欠けてしまっている。
頼りなく残った右半分には『道』とだけ書かれている。
(……近道? なわけないか)
だとしたら剣道や柔道、華道や茶道といった部活に関連する部屋なのかもしれない。
試しに丸い取っ手に手を掛け引いてみる。
押しても引いてもびくともしないそれは、鍵が掛けられているというより、扉そのものが壁に埋め込まれているような重さがあった。
僕が扉にかまけているうちに、彼女はさっさと廊下の突き当りまで進んでいた。
彼女が立っていた場所のすぐ横には昇降口があった。
学園の正面玄関で脱いだはずの僕の靴も、なぜか靴入れの中に収められている。
つま先をトントンしながら外に出ると、さっきまでは青一色だった空の端に少しだけオレンジ色の成分が混ざっていた。
肌にまとわりつく湿り気を帯びた空気が少しだけ気持ち悪い。
「あそこが君がこれから住む寮」
彼女が指差す方向に目を向ける。
校舎の中と比べても遜色のない殺風景な校庭の向こう側に、二棟の青い屋根の平屋の建物が見えた。
「明日の朝、八時くらいに担任の安上先生が迎えに来てくれるから、それまでに準備しておきなさいね」
彼女はそれだけ言うと再び昇降口に戻っていく。
この時になって、もうひとつだけ聞いておかなければいけないことを思いついた。
「あ、待って! あの……君の名前はなんていうの?」
振り返った彼女は小さな口を横に広げて「ヒ」と発音し、続けて縦に「ナ」と開いた。
「私はヒナ。朝比奈ヒナ。君は?」
「……杉卜」
「下のお名前は?」
「圭佑」
「けいすけ? ……うーん」
彼女は右手を顎にあて、何かを考え始める。
「なにか問題でもあった?」
「……似合ってない」
「は?」
ボソリとそう口にした彼女は、「なんか違う気がする」と一言追加すると、顎にあてた左右の手を入れ替えた。
「似合ってないって、僕の名前がってこと?」
「うん」
理由も述べずにそう断言した彼女は、「私が付けてもいい?」と唐突にワケのわからないことを言い出す。
「よくないよ」
我ながら真っ当なことを言ったと思った。
「じゃあ、ユウってどう? うん、ユウがいい」
「だからよくないよ」
百歩譲ってあだ名を付けられるにしても、ユウというそれにはオリジナルの要素があまりになさすぎる。
「ヤダ。君の名前はユウでいいの」
「いや、だから――」
「それじゃユウ。また明日ね」
朝比奈ヒナは胸の前で手を小さく振ると、校舎に向かって駆けていった。
「……はあ」
彼女の姿が見えなくなった途端に大きな溜め息が漏れる。
僕は僕のことで手一杯だというのに、転入早々面倒くさそうな女の子と関わってしまった。
寮の玄関で靴からスリッパに履き替え、宗方先生から渡された封筒からカードキーを取り出す。
そこに書かれていた部屋番号『128号室』は、建物の中ほどの場所に位置していた。
扉を開けると、そこはきれいに整えられた部屋だった。
白い壁にフローリングの床、そして壁際にはベッドと勉強机が置かれている。
「一人部屋なんだ」
そう呟いた自分の声があまりに弱々しく思えた。
さっきまで忘れていた心細さが戻ってきたようだった。
制服のままベッドに腰を下ろし、カードキーと一緒に受け取った生徒手帳に目を落とす。
表紙のすぐ裏には、名前と在籍クラスの名称だけが書かれており、前の学校の生徒手帳にはあった顔写真は見当たらない。
そういえば、僕はいったいどんな顔をしているのだったか。
そんなことすら思い出すことができなかった。
私物の入ったバッグの中には鏡はなく、スマホの持ち込みも禁止されていた。
トイレの手洗い場になら鏡があるはずだ。
部屋から少し離れた場所にあったトイレには、かつて鏡が付けられていたのであろう場所の四隅に、四つの穴だけが残されていた。
この学園に来る前に受けた説明では、病気の治療のために可能な限り情報の入力を減らすと聞いていた。
鏡がないこと、つまりは自身の姿を見せないことも、その一環だとでもいうのだろうか?
だとしたら、それはあまりに異常なことに思えた。
トイレから部屋に戻ると、机の上に先ほどまではなかった紙袋が置かれていた。
中には卵とハムのサンドイッチ、それに菓子パンと紙パックの牛乳が入っていた。
紙袋の側面に貼られた付箋に、『明日からは朝食と夕食は食堂で。風呂は二十時までに。宗方』と書かれている。
冷淡な印象が強かったが、存外に面倒見のいい先生なのかもしれない。
あまり食欲はなかったが、部屋に冷蔵庫が見当たらなかったこともあり、時間を掛けて袋の中身を完食した。
夕食を終えてから再び部屋を出た。
寮の廊下の壁には、二十ほどの扉が等間隔に嵌められている。
隣にもう一棟おなじような建物があったが、そちらはきっと女子寮なのだろう。
時刻は十九時を少し回っていたが、誰一人としてこの学園の生徒の姿を見かけることはなかった。
そう広くない寮の中を歩き、食堂と浴場にも足を踏み入れたが、そのいずれもで白く冷たい灯りが点いているだけだった。
まさか入居者が僕だけということはない――こともないのかもしれない。
『ここの人たちは大事なことはなにも教えてくれないから』という、彼女の言葉が思い出される。
いずれにせよ、その疑問を聞く相手がこの場所にいない以上、今の僕にできるのは風呂に入って眠りにつくことだけだった。
急いで自室に戻ると、制服のシャツとズボンをハンガーに掛けて壁のフックに吊るす。
その時シャツの胸ポケットから四角くて薄い何かが落ちた。
腰をかがめて拾ったそれはノートの切れ端で、おそらくは洗濯と乾燥を経て滲んでしまった赤いボールペンの字は、まるで推理小説の遺留品のような文言だった。
『 には いに気を な あ つは 』




