26.境界
「杉卜おはよ……って、あれ? お前ってメガネ掛けてたんだっけか?」
今にも床板を踏み抜いてしまいそうな寮の廊下ですれ違ったクラスメイトは、頭蓋骨の上に貼り付けた顔の皮を引き攣らせながらそう言った。
その声からして彼は関なのだろう。
「普段はコンタクトレンズだけど、たまには目を休ませてあげようと思って」
「ほう、そいつはまた殊勝なこったな」
骸骨でミイラの関は、廊下の床と自身の体をギシギシと軋ませながら歩き去っていった。
寮の玄関を出て後者に向かって歩いていると、女子寮の階段を下りてきた女子生徒と鉢合わせた。
彼女は濁った闇を眼窩に宿したまま、興味津々といった様子で近づいてくる。
「かわゆ。ケースケくんメガネっ子じゃん。てか、昨夜のアレってどうなったん?」
「普通にフラれたよ」
「あーそれはご愁傷さま」
「……赤堀さんもね」
「へ? なんか言った?」
「ううん、なんにも」
荒れ地になったグラウンドの脇を通り抜け、廃ホテルのような外観のA棟を横目に見ながら、近代的で真新しいB棟までやって来る。
来客用の玄関で靴を脱ぎ、一直線で向かったのは保健室だった。
その途中、白いワイシャツの腰の辺りを真っ赤に染めた担任教師の後ろ姿が、廊下の奥の方に見えた。
挨拶だけでもしようかと思ったが、今はやめておいたほうがいいだろう。
この位置関係では、否が応でも後ろから声を掛けることになってしまう。
保健室のドアは昨日と同じく開け放たれていた。
その奥で、黒ずんだ血で汚れた白衣を羽織った女医が机に向かい作業をしているのが見えた。
白髪混じりのひっつめ髪は昨日までと同じで、その下に付いている顔にも特段の変化は見られない。
「失礼します」
ひと声掛けてから保健室に足を踏み入れる。
「いらっしゃい。今日はどうしたの?」
普段と何ひとつ変わった様子のない先生は、椅子に座ったまま背筋を伸ばしてこちらを向く。
「……っ」
白衣の合わせの隙間から事務椅子の背もたれの灰色が見えた。
「ああ、これ? 反政府ゲリラにすぐ近くから迫撃砲で撃たれたのよ。あの人たちって、国際法も何もあったものじゃないから。運良く信管が作動しなかったお陰でこのくらいで済んだんだけど。そうじゃなければ先生、いまごろ百個にも二百個にもなってたところだったわ」
彼女は二の腕を抱えながら、わっはっはと笑った。
「……ヒナがここに来ませんでしたか?」
眼鏡を外しながら昨日と全く同じ質問をする。
「朝比奈さん? ええ、来たわよ」
先生からの回答は昨日と全く真逆のものだった。
「じゃあヒナは今、どこにいますか?」
「ああ、彼女だったら」
先生は白衣の腕を僕の後ろに向けた。
「A棟の一階にいるはずよ」
正直にいえば先生から答えが返ってくるとは思っていなかった。
「行ってみます。ありがとうございました」
「ええ。無事に会えるといいわね」
その含みのある物言いに思わず足が止まりそうになる。
だが今は一秒でも早くヒナに会いたかった。
A棟に足を踏み入れた途端、廊下の奥から冷たい空気が流れてくる。
休日の今日は冷房が入っているはずはないし、そもそもエアコンのそれとは空気の質が異なっていた。
例えるなら打ち放しのコンクリートの地下室にいるような、そんな底冷えのする冷気だった。
「ヒナ!」
「ヒナ! いないの? ヒナ!」
誰もいないのだから大声を上げることに遠慮をする必要はなかった。
もっとも、もしこれが平日の昼間であったとしても、きっと僕は同じようにしたことだろう。
たっぷり三十分も掛けてA棟を隅から隅まで探してみたが、ついに彼女を見つけるこはできなかった。
白鳥先生に嘘を教えられたのかもしれないが、どのみち学園内を虱潰しに探すつもりだったので、この際その可能性は無視する。
B棟でも同じことをするために昇降口まで戻り靴を履こうと腰を屈めた時、さっきの冷気が背中を駆け上り首筋を冷やした。
空気が流れてくる方向に自然の首を向け、僕はあることを思い出して再び上履きに履き替えた。
左半分が欠けた、『道』とだけ書かれた白いプレートの部屋。
防火扉によく似た巨大な鉄製のドアは、転入直後に一度だけ触れたことがあった。
その時は押しても引いてもびくともしなかった。
試しに銀色の取っ手に手を掛け引いてみるが、結果はやはり同じだった。
ワイシャツの胸ポケットに挿してあった眼鏡を取り出す。
それは機転とかひらめきとか、そういった類のものではなかった。
学園の中でも飛び抜けて異質なこの場所が、まさか作りかけの舞台装置であるはずがない。
町田さんの眼鏡を通して見た鉄の扉は、教室のドアと同じ作りの引き戸だった。
道理で押しても引いても開けることができなかったわけだ。
ドアの上に取り付けられたプレートは、欠けていた左の部分にもしっかりと文字が刻まれていた。
『冥 道』
この部屋は華道部や茶道部の部室ではなかった。
冥道という名の通りであれば、この向こう側はあちらの世界なのだろう。
冥界への入口のドアは片手で簡単に開けることができた。
明かり採りの窓ひとつないそこは、部屋というには些か異質に思えた。
床も壁も天井も、この空間を構成する部位のすべてが、青みがかった天然の岩石で作られている。
例えるなら、社会の教科書でみたことのある古墳の玄室によく似ていた。
教室ほどの広さの部屋の中央に直径2メートルもあるような大きな井戸がある。
逆にいえば、それ以外には何もない。
部屋の入口のこの場所から中を窺い知ることは叶わないが、冷気は白い靄を伴いながら、その穴の中から這い出してきていた。
「……ヒナ?」
念の為に空間の奥の暗がりに声を掛けてみる。
「……」
返事はなかった。
ここまで来たのだから一度だけでも奥まで進んでみるべきだろう。
覚悟を決め黄泉の国の中に足を踏み入れようとした、その時だった。
「やめておきなさい」
振り返るとすぐ後ろに白鳥先生が立っていた。
彼女の体には相変わらず大きな穴が空いており、背中側から午前の柔らかな光が差し込んでいる。
「そこから先はこの学園とは違う。行ったらもう二度と帰っては来られない、本当の向こうの世界よ」
「……なんで止めたんですか? 先生は……先生が渡辺たちを、この部屋に導いたんじゃないんですか?」
「ええ。それに小早川くんのこともね」
前にこの学園にやってきた僕は短い期間で転出したと聞いていた。
「……でも僕はまた、ここに戻ってきた」
「ええ。とても驚いたわ。でも少し調べてみたら、すぐにその理由もわかった。知りたい?」
そんなことなど聞かれるまでもない。
「当然です。教えて下さい」
先生は肩を竦めてみせたあと、「ついていらっしゃい」と言って背を向けた。




