25.筆跡
ある日を境にして先生の日記は丁寧な筆致が途切れ、その後はまるで首を切り落とされた蛇がのたうち回った跡のような荒々しい物へと変貌した。
蛇の断末魔はその後も数ページに渡り続き、そして最後のページに書かれていたのはそもそも日記と呼べる代物ではなかった。
「……これって」
……。
……。
……ヒナは。
ヒナは本当に寮の自室で休んでいるのだろうか?
もし彼女が先ほど目にしたであろう僕の姿の意味を問うために、『協力者』の元を訪ねていたとしたら――。
「ヒナ!」
目指す場所は進路指導室の目と鼻の先にあった。
ドアは完全に開いている。
その長方形の枠の中にヒナの姿は見当たらない。
早足で部屋の中に押し入る。
「ヒナ!」
そこにヒナの姿はなかった。
もし彼女がこの場所にいるとすれば、あとは部屋の奥のカーテンの向こう側だけだ。
白いプリーツカーテンを力任せに開ける。
二台のベッド、それにコピー機が置かれたそこにもヒナはいなかった。
だが、誰もいなかったのかといえば――。
「……あら? 杉卜くん。あなたもおうちに帰らなかったのね」
部屋の主である校医は今までと何ら変わりのない、柔らかな口調でそう言った。
「……あの、ヒナは……朝比奈さんは来ませんでしたか?」
「さあ? 今日は見掛けてないけど」
先生は胸の前で両手をパタパタと扇ぐような仕草をしたあと、再び口を開いた。
「ところで、ねえ、杉卜くん。あなたたち、あの人に、宗方先生に、どこまで教えてもらったのかしら?」
「……」
転がるような勢いで保健室を飛び出し、上履きのまま昇降口から外に出る。
そして後ろを振り返ることはせずに一直線で女子寮に向かい走った。
階段を二段飛ばしで駆け上り女子寮の玄関になだれ込む。
僕は彼女の部屋の番号を知らなかった。
食堂に行けば誰かがいるかもしれない。
男子寮と同じ作りの建物だったので、食堂の場所はすぐにわかった。
「あれ? ケースケくんも居残り組だっけ? てゆか、なんで女子寮にいんの?」
夕食を食べていた顔見知りを運よく捕まえることができた。
「赤堀さん! ヒナの部屋ってどこ!?」
「朝比奈? F号室だけど」
部屋番号の付け方が男子寮とは違うが、ドアにプレートが取り付けられているはずだ。
「てか顔赤。もしかして告白でもすんの?」
「だいたいそんな感じ!」
「おーやるじゃん。朝比奈のことよろしくね。あの子ってホントいい子だからさ」
そんなことは僕のほうがよく知っている。
F号室はすぐに見つけることができた。
「ヒナ!」
強めにノックをしながら声を掛ける。
「ヒナ! いたら返事して!」
三度繰り返してドアを叩いたが、彼女から返事が返ってくることはなかった。
ドアノブに手を掛ける。
鍵は掛けられていないようだった。
勢いよくドアを開くと化粧品の甘い香りがした。
ヒナは部屋にはいなかった。
それどころか、部屋に置いてあるはずの彼女の荷物もなかった。
ベッドの上に畳まれた布団が一組置かれていたが、使われている形跡のないそれは、冬用の掛け布団と敷布団だった。
消灯時間の間際まで学園中を探し回ったが、僕はついに彼女を見つけることができなかった。
心身ともに疲れ切って部屋に戻ると、そのままベッドに倒れ込む。
もしかしたらヒナが入ってくるかも知れないと思い、鍵は開けたままにしておいた。
白鳥先生の以前の仕事は、海外の紛争地や貧困国での医療に従事するボランティアの医師だった。
気力と使命感が溢れ出る書き出しから始まった彼女の日記は、後ろのページに行くにつれて荒んだ内容に変化していった。
どれほど尽くそうと報われることのない人々がいること。
どれほど奮闘しようと救えない生命が山ほどあること。
弱者に救いの手を差し伸べるという崇高な理念は、いつしか命を見殺しにするしかないという絶望的な現実に直面し、やがて粉々に打ち砕かれていった。
彼女が日記の最後のページに書き記していたのは、その経験から自ずと導き出したのであろう真理だった。
『生まれてさえこなければ。そうすれば苦しんで死ぬこともない』
たとえそうだとしても、赤ん坊には自らの意思で『生まれない』という選択肢は与えられていない。
だが、この世界でだったらどうだろうか?
この世界であれば、その赤ん坊を生まれさせない――生まれる可能性そのものを事前に摘み取ることができる。
時計の針は日付を跨いで進んでいたが、興奮しきった脳が僕をなかなか眠らせてくれなかった。
やがて横になっていることに疲れた僕の体は、狭い部屋の中に別の居場所を求め始めた。
そんなものは机の前に置かれた椅子以外にはなかった。
もっともその椅子に身を委ねたところで、睡魔の訪れを急かすことができるとは思えない。
そういえば、ヒナが前に持ってきてくれた絵本があったはずだ。
正規の手続きを経て持ち出されたのかどうかも怪しいそれは、机の引き出しに入れたままにしてあった。
思っていた通りに、それは一番上の引き出しにあった。
そしてその本の上には水色のメガネケースが置かれている。
町田さんが居なくなる間際に僕にくれたものだ。
以前に一度、中身の眼鏡を確認しようとしたことがあった。
その時は幽霊まがいの少女のせいで、実行するまでには至っていなかった。
ケースの中から眼鏡を取り出し顔の前に持っていく。
思っていた通りに、その眼鏡には度無しのレンズが嵌め込まれていた。
だとすればプラスチックの薄い板を通して映し出される世界は、代わり映えのないものであるはずだった。
しかし、実際にはまったく違っていた。
「なんだこれ……」
目の前にある真新しい机は一瞬にして朽ち果ててしまっていた。
首を横に振ると、さっきまで寝ていたベッドが錆と埃にまみれている。
その奥の壁は黒い染みやカビで汚染されており、壁紙もほとんどが剥がれ落ちている。
見上げた天井も見下ろした床も、それは完全に同じだった。
そして、椅子に座った自分の足が目に映ることはなかった。
ふいに町田さんの言葉が思い出される。
『そのメガネ、ちょっとだけよく見えすぎるから』
「……同じなんだ。これも倉庫の裏の鏡や宗方先生の眼鏡と」
急いで眼鏡を外そうと顔に手を伸ばした時、僕はある物のことを思い出した。
それもこの机の引き出しの中にあった。
視線を真っ直ぐに向けたままで引き出しの中を弄ると、それはすぐに見つけることができた。
ゴミと何も変わらないような、小さな毛羽立った紙切れに目を落とす。
ほとんど消えかかっていたはずの文字が、薄暗い部屋でくっきりと浮かび上がって視えた。
その筆跡に見覚えがあった。
これは――僕が書いたものだ。
かつてこの学園に在籍していたもうひとりの僕、小早川が残したメッセージで間違いない。
『白鳥にはぜったいに気を許すな あいつは生徒を消している』
半日前であれば立ち眩みを起こすような衝撃を受けていたであろうその文言も、今となっては後悔の念を励起させるだけのものでしかない。
もしこの眼鏡にもう少しだけ早く気づき、この紙に書かれた文字をみていれば――。




