18.封筒
「ごめん、ユウ。さっきのあれなんだけど」
午後の授業が終わったのと同時に後ろの席から声を掛けられる。
「あれって?」
「悪いんだけどこれ、お願いしちゃっていい?」
彼女が手にしていたこれとは、図書室で見た分厚い茶封筒だった。
「それを宗方先生に渡しておけばいいの?」
「うん。ごめんね」
「いいよ。どうせこのあとB棟に行く用事があったから、そのついでに職員室に寄るよ」
手渡された封筒は思いの外に重たかった。
「ホントにごめんね。また今度お礼するから」
彼女はそれだけ言うと、そそくさと席を離れて教室を出ていった。
迅速かつ丁寧に花壇委員の仕事を終わらせ、職員室のあるB棟へと足を向ける。
託された荷物を届けるのがその主な理由だが、僕は僕で保健室にも用事があった。
きっと白鳥先生なら医学的な知見から、先程の体験の納得のいく説明してくれるはずだ。
問題は先に職員室に行くか、それともまずは保健室に寄るかだった。
B棟に到着するまで歩きながら考えたが、そもそも悩んで決めるようなことではないという結論に達し、職員室より手前にある保健室のドアをノックする。
「それで杉卜くん、今日はどうしたの?」
先生と向かい合い相談事を口にしようとしたその時、僕はとんでもない過ちを犯しかけていたことに気づいた。
学校側の人間である白鳥先生に、あの鏡――カーブミラーのことを話していいのだろうか?
先生たちはあそこにカーブミラーがあることは知っているはずだ。
ただ、生徒がそれを鏡の代わりに使用していると知ったら、これはちょっとした問題になるのではないだろうか?
「どうしたの? なにか話しにくいこと?」
「いえ……あの……」
膝の上に手を置きもじもじと身を捩る僕を見て、先生はとんでもないことを言い出した。
「当ててあげましょうか? 恋の相談でしょう?」
その突拍子もない発言に思わず顔を上げてしまう。
「あら、図星だった? 安心していいわよ。絶対に他言はしないから」
先生は今まで一度もみたことのないような、教員でも医師でもない第三の顔で僕を正面から覗き込んだ。
「いえ、そうじゃ――」
そこまで口にした時、僕はまたしても気づいてしまった。
これは渡りに船なのではないか?
恋の相談をしに来たことにしてしまえば、本来の相談ごとであった鏡の話をしないで済む。
「っ実は……そうです」
僕はなぜだか顔を紅潮させていた。
鏡を見たわけではないので、頬の火照り具合からそう察しただけだ。
「あら、お顔を真っ赤にしちゃって。あなた、本当にかわいいわね」
先生の煽りのせいで耳まで熱くなる。
「それで? 相手の子は誰なの?」
この時になり、僕は早くも本日三度目の気づきを得た。
恋の相談をするには、必然的に相手が必要なのだった。
「あの……同じクラスの……」
クラスが一つしかないのだから同じクラスなのは当たり前だ。
「あ……朝比奈さんです」
ここでヒナの名前をあげたことは、シンキングタイムが限られた中での最良の判断だと思いたかった。
ヒナであれば、万が一このことが本人の耳に入ったとしても、すぐに事情を話すことができる。
というかそもそものところ、僕は彼女以外の女子とはこれといった交流がなかった。
「やっぱりね」
「……やっぱり?」
「ここだけの話にしてくれる?」
先生は椅子のキャスターをギシギシと軋ませながらゆっくり近づいてくる。
白いストッキングを履いた先生の膝が僕の脚に触れる。
「この前、彼女も私のところに来て、あなたのことを聞いてきたのよ」
「え? ヒナが?」
「あら、下の名前で呼んでいるのね」
しまった、と思った。
「……あの、それでヒナが、僕の?」
「詳しくは教えられないけど、彼女、あなたのことを色々と知りたいみたいだったわよ」
白髪交じりの長い髪をひっつめ髪にした校医は、細い目を三日月の形にして言葉を続けた。
「あなたがどこから来たのかとか、あなたが着ているその制服のこととか。それに、あなたが以前の記憶をどのくらい保持しているのかも聞いてきたわ」
「……」
ヒナはなぜ僕のことを知ろうとしていたのか。
そして、なぜそれを僕にではなく、白鳥先生にきいたのか。
「それで先生は、ヒナに僕の何を、どのくらい教えたんですか?」
僕が漠然とした疑問を投げ掛けると、途端に三日月だった先生の目がみるみる満ちてゆく。
そして、その口元からは笑みまでもが消えた。
「なにも。あなたのことで彼女に教えられることなんて、何ひとつなかったわ」
先生はそう言うと、次の瞬間には元の笑顔に戻っていた。
なんとか話を切り上げて保健室を出ると、廊下の曇りガラスがオレンジ色に染まっていた。
本来の相談事はできなかったが、結果的にそれでよかったとも思っていた。
この学園で白鳥先生は信頼の置ける人物の一人だが、必ずしも僕が想像していたような、親戚の優しいおばさんのような存在ではないのかもしれない。
それはもしかしたらヒナも同じで、ただの人懐こくて世話焼きの同級生だとは限らなかった。
ただそれでも、二人はこの学園では気のおけない寄りの人間であることに変わりはない。
「あっ」
答えのない思考に脳のリソースを割いて歩いていたせいで、うっかり脇に挟んでいた茶封筒を廊下に落としてしまう。
バサリという重い音とともに、封筒の口から飛び出した数枚の紙束がリノリウムの床の上を滑る。
慌ててしゃがみ込み手にしたそれは、新聞記事をコピーしたA4サイズのコピー用紙だった。
別に内容に興味があったわけではない。
だが、一面記事と思しきその部分には大きな見出しが出されており、尚且つひと目で概要がわかるようにデザインされていた。
団体職員の男性、腹部刺され重体
現場で凶器押収 親子間トラブルか
〇〇市の住宅で〇日夜、団体職員の安上満寿夫さん(49)が腹部を背後から刃物で刺され、重体となっているのが見つかり、救急搬送された。
通報した同居する長男(17)は、「父を刺してしまった」と話しているという。
現場からは凶器とみられる包丁が押収された。長男はその場で駆け付けた警察官に現行犯逮捕され、警察は親子間のトラブルが原因とみて動機の解明を進めている。
近隣住民によると、「親子仲は悪くなかったようだが、父親は教育熱心なことで有名だった。時折、怒鳴り声が聞こえることもあった」と話している。
「……これって」
思わず声が出て、その直後に悪寒が走る。
新聞記事の被害者の名字は、担任教師のそれと同じだった。
安上とは、それほど多くある名字ではないはずだ。
先生の名前も年齢も知らないが、僕たちと同じくらいの歳の子供がいることは聞いていた。
「……まさかね」
その時、廊下の向こう側から黒く冷たい闇が迫ってくるような感覚に襲われ、床に散らばった紙を急いで封筒に戻す。
そしてすぐ目と鼻の先にあった職員室の中に逃げ込んだ。
時間が遅いせいだろう。
もともと五人しかいない教員は、その頭数を二人にまで減らしていた。
その二人とは、すぐ近くの窓際の席で机に向かっている生徒指導担当教諭と、こちらを背にして壁に掲示物を貼り付けている担任教師だった。
本来用事のあった宗方先生の横を通り過ぎ、通路を真っ直ぐ進むと安上先生のすぐ後ろに立つ。
「安上先生」
いつもより少しだけ声を張り名を呼ぶと、彼は全身を大きく震わせてから腰のあたりを手で押さえながら勢いよく振り向く。
「……杉卜君。後ろから声を掛けないでくれって、前にお願いしましたよね?」
口調こそ普段のそれと大差はなかったが、トレードマークの太い眉が大きく釣り上がっていた。
「あ、すいません。忘れてました」
止めていた息と一緒に嘘を吐き出す。
「……まったく。それで、私になにか用事ですか?」
「あ、はい。白鳥先生に提出するレポートに、担任教師の名前を書く欄があって」
『そんなものはなかったはずですが』とでも言ってくれたら、この件はそれで終わりにするつもりだった。
「ああ。私の下の名前は、満ちる・寿・夫で、満寿夫です」
担任教師に一礼して回れ右をすると、そのまま宗方先生の机の横まで行く。
「宗方先生。朝比奈さんからこれを預かってきました」
机に向けていた先生の視線が、まずは手にした封筒に、そして次に僕の顔へと移動する。
「感謝する。……ところで杉卜。君はこの封筒の中身を見たか?」




