14.満天
「……ユウ、いる?」
窓のガラス越し聞こえてきた声は、よく知ったクラスメイトのものだった。
「ヒナ?」
「窓、ちょっとだけ開けてもらってもいい?」
言われたとおりに滑り出し窓を開ける。
するとそこには、桃色のパジャマを着たヒナの姿があった。
「さっきはごめんね。あと、これ」
教室であれば聞き取ることができないような、虫の羽音ほどの声量でそう言った彼女が差し出したのは、先ほど図書室で読んだ絵本だった。
「それ、渡しに来ただけだから。それじゃおやすみなさい」
「あっ! 待って!」
図書室で行ったのと同じやり取りが、役者の立ち位置を真逆に入れ替えて再現される。
急いで窓枠から上半身を乗り出すと、彼女はすでに10メートルも向こうにいた。
室内に体を押し戻し時計に目をやる。
九時五十分。
消灯までにはあと十分だけ猶予がある。
部屋から飛び出し短距離走のフォームで廊下を駆け抜け、玄関で靴を手に取り裸足で外に出る。
女子寮の玄関へと続く階段は、男子寮の玄関の目と鼻の先にあった。
そこで彼女を捕まえられなければアウトだ。
(アウトって? いったい何がアウトなんだ?)
心の内にいる冷静担当の自分が、今のこの状況に対して疑問符を投げかけてくる。
僕は何を思い、彼女を追いかけようとしたのだったか。
確かに図書室ではケンカ別れのようになってしまったが、たったいま彼女のほうから”ごめん"と言ってもらえたのだから、僕からの返答は明日の朝に持ち越せばいいだけなのだ。
それなのに、なんの考えもなしに寮を飛び出してしまった僕は、もしかしなくても馬鹿なのかもしれない。
そのことに気づいた途端、全速力で走っていた脚が急に鈍り始める。
(おいおいおい。お前、それでも男かよ? 乗りかかった船だろ?)
内なる僕が急に手のひらを返す。
その他人事のような言葉に勇気づけられた僕の脚は、再び力強く加速を始めた。
彼女は女子寮の階段の一番下の段に座っていた。
少しだけ眠たげなその視線は、僕が姿を現す前からこちらに向けられていた。
「きてくれたんだ」
「あ、うん」
「さっきはごめんね」
「僕の方こそ……ごめん。あんなことで子供みたいにへそを曲げたりして」
まさか自分でも十七にもなって、絵本の内容が原因でケンカするとは思ってもみなかった。
彼女は「よっこいしょっと」と言いながら立ち上がると、パジャマの後ろをパタパタと手で叩きながらこちらに向き直る。
「私もね、なんであんなことを言っちゃったのか考えてみたんだけど……自分でもよくわからないの」
「いいよ、それはもう」
「……もしかしたら私、絵本の中の『ぼく』のことが羨ましかったのかもしれない」
星の川のほとりに住む彼は、ただ願い続けたことで望みを叶えることができた。
ご都合主義だといってしまえばそれまでだが、物語というものは往々にしてそんなものだ。
「ヒナにもいるの? その……会いたい人って」
「うん」
即答だった。
「ユウは? 家族に、お母さんとかに会いたくないの?」
「特には」
彼女に負けず劣らずの即答っぷりになってしまった。
「ホントに? なんだかユウのお母さんがかわいそう」
そうは言われても僕にとっての母親とは、他人と大きく違う特徴をもった人ではなかった。
「ヒナが会いたいっていう、その人と」
それは家族だろうか。
それか友人だろうか。
それとも、恋人のことだろうか。
「また会えるように、僕がヒナの代わりにお星さまに祈っておくよ」
「……ユウ、ちょっと子供みたい」
「そうかもね。じゃなければ絵本のことでケンカなんてしないし」
「でも、ありがと……って、あっ!」
突然ヒナが両手のひらを口にあて大声を上げる。
巡回の教師でもやってきたのかと慌てて辺りを見渡すが、どうやらそんなふうでもない。
「ビックリさせないでよ。心臓が止まるかと思ったじゃん」
クレームを入れつつ彼女を睨みつける。
「ねえ、ユウ。ユウが部屋を出たのって何時頃だった?」
「え? たしか九時五十……あっ!」
寮には管理人は駐在しておらず、食事や共有部分の掃除や管理は外部に委託されている。
一応は男子寮は安上先生、女子寮は白鳥先生が管理責任者となっていたが、その姿を寮で見掛けることは稀だった。
消灯時間の二十二時を過ぎると、寮の玄関は自動的に施錠されるようになっていた。
今の正確な時間を知るすべはないが、消灯時間を過ぎていることだけは間違いない。
「どうしよう……」
寮から締め出されるという不測の事態に、僕は自分の尻尾を追いかける犬のようにその場をぐるぐると回りながら頭を回転させていた。
「どうしようもなにも、朝になって玄関の鍵が開くまで外にいるしかないでしょ?」
生まれ持った性格なのか、それとも今日までの人生で培った逞しさなのか。
彼女のその堂々とした様は、今この状況にあってはとても頼もしく感じた。
「それはそうかもしれないけど、朝までここにいるのはさすがにまずくない?」
この学園に宿直や巡回といったシステムが存在するのかは知らないが、視界を遮る物が存在しないこの場所はあまりに無防備だ。
「それもそうだね。じゃあ、とりあえず動こっか」
「動くって?」
学園に転入してきた日に中庭でしたやり取りを思い出す。
違っていたのは、あの日の彼女は何も答えずにすぐに歩き出したが、今は「いいトコロ」と言い、そっと僕の手を取ってくれたことだった。
「それで、ここのどこがいいトコロなの?」
彼女に連れてこられたのは校舎の脇にある非常階段だった。
彼女が階段マニアだというなら話はまた変わってくるが、少なくとも僕にはこの場所の持つ魅力は1ミリも伝わってこない。
「ユウならちっさいし、たぶん通れると思うけど」
彼女はなんの説明もなく非常階段を塞ぐ鉄柵の間につま先を、そして続けざまに体をねじ込むと、いとも簡単にそこを通り抜けてしまった。
「ユウもいらっしゃい」
「いらっしゃいって、こんな真っ暗な階段を上るなんて危ないよ」
「男の子でしょ? それに落ちたところで死ぬわけじゃないし」
涼しげな顔で無茶苦茶なことを言う彼女に急かされながら、体を雑巾のように捻らせて鉄柵を抜ける。
彼女に続き空へと続く階段を何度も折り返しながら上っていくと、短い冒険の旅の終わりの景色が目の前に現れた。
四方を低い山に囲まれたこの学園は、その建物自体も山の中腹にある。
漆黒の山陰が大地と空の境目を、まるで歪んだ茶碗のフチのように明確に切り分けている。
「ユウ、こっちおいで」
子犬でも呼ぶように手招きをするヒナに促され、塔屋の壁の前に並んで腰を下ろす。
「……すごいね、星」
満天の星とは、まさにこのことだった。
頭上には大小さまざまな光の粒たちが炭色をした夏の空に散りばめられていた。
そして不思議なことに、その光にはひとつとして同じものがない。
「ユウは星って詳しかったりする?」
「ううん、ぜんぜん」
「じゃあ、教えてあげよっか?」
彼女はそう言うと、右手を空の中心に向けて真っ直ぐに伸ばし、立てた人差し指で星をピンと跳ねる。
どうやら今から理科の授業が始まるらしい。
「真上に三つの明るい星があるでしょ? こと座のベガと、わし座のアルタイルと、はくちょう座のデネブ。その三つを結んでできるのが夏の大三角形」
「へえ……。ちなみになんだけど、どれがベガでどれがアルタイルで、どれがデネブなの?」
「それは私も知らない」
理科の授業はあっけなく終わった。
「だけどベガが織姫でアルタイルが彦星なんだって。図書館でユウが見てた本の男の子と、その子が会いたがっていた子って、たぶんその二人のことだと思う」
絵本の男の子は、会いたいと願い続けることでその願いを叶えることができた。
僕にはその会いたい相手がいないのだから、夜空にどれだけ多くの星が瞬いていようと、する願い事自体がなかった。
「もしお星さまが願いを叶えてくれるとしたら、ヒナはなにをお願いする?」
「……」
「ヒナ?」
ヒナはいつの間にか僕の肩に寄り掛かると、長い|まつ毛を閉じて夢の世界へと旅立っていた。
彼女が寝やすいように肩の高さを微調整し、首だけを動かしてふたたび星空に目を向ける。
どうか僕のとなりで小さな寝息を立てるこの少女が、会いたいと願っている人と会えますように。
それは星に頼むまでもなく、やがて時間が解決してくれるはずだった。
僕にしても次の日の朝を迎えたその瞬間にでも、家族や前の学校のことを思い出しているかもしれない。
そうであってほしいと願う気持ちと、このままでもいいような気持ちの、二つの気持ちが心の水底で混ざり合っていた。
いずれにせよ今この時の僕にできるのは、彼女の枕という使命に徹することだけだった。
「……おやすみ、ヒナ」




