10.散歩
学園にやってきて二週間が過ぎた。
世間の高校では、そろそろ期末テストが行われている頃だろう。
そして夏休みへのカウントダウンが始まる時期でもある。
しかしそのどちらの概念も存在しないのがこの学園だった。
本日最後の授業が終わり、いつものように帰りの支度を始める。
ノートやら教科書やらをカバンにしまい込み、何人かのクラスメイトに挨拶をしてから教室を出る。
寮に戻り制服から私服に着替え、部屋の真ん中に立ったままで夕食までの約二時間をどう過ごすか考えた。
暇をつぶし合う相手を探しに談話室にでも行ってみようか?
そう思って部屋を出たはずが、僕の足は主人である僕に断りもなく談話室を素通りすると玄関に向かっていた。
夏の盛りを間近に控えたこの時期をして、今日という日は春か秋のように過ごしやすかった。
空の色も夏のそれとは少し違って、晴れているのにどこか霞がかっているように見える。
そういえばここに来てからまだ一度も雨が降っていない。
天気予報を見る方法がない以上、その日の朝の空の色で天候を占っていたのだが、的中率は今のところ脅威の100%だった。
あてもなくふらふらと歩いているうちに、いつの間にかグラウンドまで来てしまった。
体育の授業は基本的に体育館で行われるので、この場所に立つ機会は今日が初めてだった。
土のグラウンドには400メートルのトラックと、それに緑色に塗られた野球用のバックネットがある。
土の感触を靴の裏で味わいながらグラウンドを斜めに横切り、何も考えずに真っ直ぐに歩く。
しばらくそうしていると、目の前に現れた白い壁に行く手を阻まれる。
壁を右手に見ながら、なおも足を動かし続けること三分。
A棟の裏手にテニスコート半面ほどのサイズ感の花壇が見えてきた。
円筒ブロックで縁取られた長方形の花壇には、サルビアやマリーゴールドといった定番の花が所狭しとを植えられている。
そしてその傍らには、銀色のじょうろを手にした女子生徒の姿があった。
背中の中ほどまである髪を黄緑色のシュシュで束ね、花壇の草花の一本一本に丁寧に水をやっている彼女は確か――町田さんといったはずだ。
大人しい女子が多いクラスのなかでも、彼女は特に目立たない静かな存在だった。
花壇のすぐ脇まで差し掛かった時、それまでこちらに背を向け作業をしていた彼女が不意に振り返った。
互いに向き合ったままで動きが止まる。
「こんにちは」
先に口を開いたのは彼女のほうだった。
「あ……こんにちは。町田さんは花壇の水やりをしてたの?」
そんなものは火を見るよりも明らかだが、会話の糸口として機能してくれることを願い敢えて口に出した。
「うん。この学園に転入してきた日に、宗方先生に花壇のお世話係をお願いされたの」
彼女はじょうろに残っていた水をアサガオによく似た花の上に注ぐと、髪に付けていたシュシュを解きながら再び口を開いた。
「……あの、ちょっとごめんなさい」
彼女はそう言うと、足元で咲く花たちを軽やかに避けながらすぐ目の前までやってくる。
そして覗き込むように顔を前に突き出し、次に「あ、杉卜くんだったんだ」と小さな声で言った。
「ごめんね。私、すごく目が悪くて。杉卜くんはなにをしていたの?」
「僕はちょっと散歩をしていただけだよ」
自分で言っておいてなんだが、ジジ臭いと思われたら嫌だなと思った。
「……ねえ、杉卜くん。もしよかったらだけど、私も少しだけお付き合いさせてもらってもいい?」
「それはぜんぜん構わないけど。でも、目は大丈夫なの?」
僕は視力だけは無駄に良かったので、目の悪い人が見ている世界を知らなかった。
「うん。だって、ほら」
いつの間にか僕のシャツの裾を彼女の小さな手が掴んでいた。
右手に見える白い壁と左手に見える校舎の間を通り抜け、体育館の裏手までやってくる。
そこはちょっとした森のような場所だった。
生えている木の種類や太さが、壁の向こうに広がる山のそれらと同じに見える。
「ここは元から森だったのかもね」
彼女は相変わらず僕のシャツを掴んだまま、「こんなところがあったんだね」と嬉しそうにそう言った。
足元の地面は去年のものと思われる落ち葉が積み重なり、その上を歩くとカサカサと乾いた音がした。
「杉卜くんって」
「なに?」
「杉卜くんって、この学園に来る前のことって、どのくらい覚えてる?」
その質問に答えることは簡単だった。
「なにも覚えてないんだ」
「……そうなんだ。ごめんね」
彼女が俯いたのと同時に、服の裾がきゅっと引っ張られる。
「杉卜くん、白鳥先生には相談してみた?」
「検診の時に少しだけ話したことがあるけど、『焦らなくてもいいのよ』って言われて、それっきりで。……町田さんは? 前の学校とか家族のこととか、思い出した?」
僕たちの学園では、週に一度開かれるグループカウンセリングのとき以外ではこの手の話をしないという、暗黙の了解のようなものがあった。
だから彼女が今ここで話題として振ってきたのには、きっとなにか理由があるのだろう。
「私もここに来たばかりの頃は杉卜くんと同じで、前にいた場所や自分のこと、なにも思い出せなかった」
彼女は僕の正面の、つま先が触れるほどの距離に立ち、照れくさそうに笑いながら言った。
「だけど私、この学園には半年くらいるから。だから今はいろいろなことを思い出せたの」
「本当に? じゃあ――」
続けるはずだった言葉を慌てて飲み込む。
学園が症状の治療を目的としている以上、彼女は近いうちにここを去ることになるはずだ。
本来それは喜ぶべきことで、そのときには僕も彼女の旅立ちを祝う輪の中にいるのだろう。
ただ、親しいとまでは言えないこのクラスメイトは、僕にとって数少ない知り合いであり、そして僕のことを知ってくれている他人でもあった。
僕が僕であるためには、僕以外の人たちが僕を僕だと証明してくれる必要がある。
そんな大切な存在の一人である彼女が学園を去ってしまうことが、僕はたまらなく悲しかった。
「杉卜くん、どうしたの?」
文字通り目と鼻の先から掛けられた声に顔を上げる。
「……ごめん、なんでもない。そろそろ戻ろっか?」
彼女は僕に向けていた視線をそのまま空に向けた。
「あ、もうこんな時間なんだ」
深く茂った木々の合間に見え隠れする空の色は、昼間の青から夕方のオレンジ色に変わりつつあった。
小さな森を脱出すると、すぐに見知った場所に出ることができた。
校舎の脇を通り抜ける時に、屋上の手すりの向こうに人影が見えた気がした。
夕焼けの逆光で誰なのかまではわからなかったが、次に目を向けた時にはもう、その黒い影を見つけることはできなかった。
子犬のようにトテトテと歩く彼女の歩幅に合わせながら、自分一人の時よりも倍近い時間を掛けて寮の近くまで戻ってきた。
女子寮は男子寮よりも少し奥の、わずかに丘のようになった場所に建っている。
そしてそこに至るためには、モザイク柄のレンガで作られた階段を上る必要がある。
手すりのようなものはどこにも見当たらない。
「町田さん、ごめん。いったん手を離してもらってもいい?」
「あ、うん」
僕の服の裾から離された手が彼女のもとに戻る前に、紅葉のように小さなその手を捕まえる。
「……あ」
「玄関の前まで送るよ」
一歩一歩、足元を確かめながら階段を上り、女子寮の玄関の正面までやってくると、どちらかともなく自然と手が離れる。
「杉卜くん。あの、ありがとう」
「ううん。こちらこそありがとう。散歩、楽しかったよ」
時間にして一時間弱、距離にして500メートルにも満たない短い散策だったが、この学園に来て以来、今日ほど落ち着いた気持ちになれた日はなかったように思う。
「……違うの」
「違うって?」
「……手、繋いでくれてありがとう」
彼女は呟くようにそう言うと、花壇の花にも負けないような笑顔を咲かせて見せてくれた。




