『名誉の代償』
雨が王宮のステンドグラスを、まるで凶兆のような勢いで叩きつけていた。
雷鳴が轟くたびに王国の軍旗は震え、松明の炎さえも、迫り来る未来を恐れているかのように揺らめく。
評議の間、その中央には黒檀の大机が据えられ、
その上にカルパシアの地図が広げられていた。
蝋の染み、封印、そして乾いた血の痕――
国境線は赤く引かれ、「ダラ」の名だけが、裂けた傷口のように刻まれている。
エルクハン王は拳で地図の縁を叩いた。
「ダグラス公爵領より、精鋭五千をダラへ派遣する」
その言葉は、乾いた衝撃となって場に落ちた。
誰一人、口を開こうとしない。
王は続ける。
「さらに、我が直轄軍より五千。
――これが最低条件だ」
張りつめたざわめきが広間を走った。
公爵や伯爵たちは互いに視線を交わし、その意味の重さを理解する。
それは要請ではない。
宣告だった。
最初に沈黙を破ったのは、ボーランス公爵だった。
「陛下……我が家では、上級兵を二千出すのが限界です。
それ以上となれば、領地は無防備になります」
「我が家も千五百が精一杯だ」
深い憂いを刻んだ顔で、スナイダーが続く。
「ブリッグスでは、千も集まらんだろう」
王は彼らを責めることはなかった。
怒りよりも恐ろしい、静かな眼差しで見つめる。
「分かっている。
だが送るのは“最良”だけだ。
農民も、従者も要らぬ。
必要なのは――躊躇なく殺せる男たちだ」
クリアにおいて、“精鋭”とは称号ではない。
それは、選別の宣告だった。
戦場へ向かった者は、英雄として戻るか――
あるいは、二度と帰らぬか。
ボーランスは杖で床を打ち鳴らした。
「では、誰が我らの国境を守るのです?
子どもたちを、妻たちを?
その兵を失えば、我が家は何世代にもわたり衰退する!」
王は静かにうなずいた。
「そうだ。失うだろう。
兵も、そして血統の一部もな。
だが戦わねば、守るべき血統そのものが消える。
帝国は貴族を捕虜にはしない。
――奪うのは、名、土地、そして子どもたちだ。供物としてな」
鉄のように重い沈黙が、評議の間を支配した。
征服されるということが、何を意味するのか――
ここにいる全員が知っていた。
公衆の面前での屈辱。
家紋の焼却。
妻は戦利品となり、
後継者は帝国旗の下で“再教育”される。
――それこそが、敗北の現実だった。
剣と壁の狭間に残されたもの――それは、名誉だけだった。
王は続けて語り、短剣の先で地図に刻み込むように指示を与えていく。
「ダグラス、公爵領より五千。
王冠直轄軍、五千。
ボーランス、二千。
スナイダー、千五百。
ブリッグス、千。
その他の伯爵家は五百から八百。
小家は二百……出せるなら三百だ」
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「戦力を隠す者、命に背く者は――
この私だけでなく、その卑怯さによって命を落とす民の前でも裁かれることになる」
空気が一気に重くなった。
何人かの貴族は視線を伏せ、
年老いた者たちは諦観の色を帯びた目で地図を見つめる。
彼らは理解していた――
この進軍路を再び目にすることになるだろう。
その時、道は赤に染まっているはずだと。
スナイダーが、かすれる声で問いかけた。
「……では、ソフィア公爵夫人は?
彼女の魔獣騎兵は、北部最強の突撃戦力です」
エルクハン王は奥歯を噛み締めた。
「公爵夫人はモンドリングに留まる。
彼女の力は、ダグラス公爵領を守るために使われる。
――この命令に、議論の余地はない」
ボーランスが苛立ちを隠さず鼻を鳴らす。
「それでは、我らの戦力の半分が後方に残ることになる」
「その“半分”こそが――」
王は即座に言い返した。
「北を生かしている力だ。
モンドリングが落ちれば、王国全体が崩れる」
その言葉は、槍のように広間へ突き刺さった。
理解した者もいれば、そうでない者もいた。
だが全員が知っていた――
今この場で、自らの運命に封をしているのだと。
エルクハンは背筋を伸ばし、
何十年も共に歩んできた男たちを見渡した。
収穫祭で杯を交わし、
結婚し、子を授かった姿を知っている者たち。
その瞳に今映るのは、死の影だった。
「帝国は、軍団単位で動いてくるだろう」
その声は低く、どこか祈りに近い響きを帯びていた。
「数では勝てぬ。
だが――我らの精鋭は違う。
我らの“エリート”は、一人で一万に値する。
それを、ダラに辿り着く頃には思い知ることになる」
そう言って、王は銀の杯を高く掲げた。
「王国のために。
血のために。
そして――戻らぬ者たちの記憶のために」
誰一人として、杯を打ち鳴らす者はいなかった。
彼らはただ、自らの裁きを受け入れる者のような厳粛さで、静かに杯を掲げただけだった。
その中の何人かが、二度と自分の領地を見ることはないと知っていたからだ。
指輪に刻まれた名は、やがて墓標となる。
戦争は肉体だけでなく、家名そのものをも要求する――誰もが、それを理解していた。
会議が終わると、残ったのは雨音だけだった。
それはまるで、クリアが炎へと差し出そうとしている子どもたちのために、
前もって涙を流しているかのような雨だった。
再び、評議の間に沈黙が降りる。
どんな剣よりも重く、逃れがたい沈黙だった。
王国の戦略は、野心と慎重さの均衡を求められていた。
国境へ十分な兵を送りながらも、領土を空白にしないこと。
魔獣や略奪の脅威にさらされる民衆を抑え、守ること。
そして、王国を奪い、ルシアン・ダグラスを狙う敵を前に、
諸侯の結束を維持すること。
一方で、市民や農民にとって、戦争は遠い政治の話ではなかった。
それは、命に直結する現実だった。
守護者の目が行き届かなくなれば、
収穫の季節も、魔獣の飼育も、死と隣り合わせになる。
草食獣は制御を失い、肉食獣は影から獲物を狙う。
村人たちは、わずかな武装だけでそれらに立ち向かわねばならなかった。
こうして、王国全体が戦争へと備えていく。
個人の利害、野心、そして市民としての義務が、一点に収束していった。
内なる対立は、今は捨てねばならない。
進軍する帝国に抗う唯一の希望は、団結だった。
最強の家から、名も小さな家に至るまで――
すべての家門が動き出す。
流される血が、カルパシアの運命を決することになると、
誰もが悟りながら。




