表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
98/183

『血の価値』

モンドリング城の大広間で、公爵夫人ソフィア・ダグラスは帝国からの書簡を指先に挟んでいた。

羊皮紙はわずかに震えている――それは恐怖ではなく、抑え込まれた怒りによるものだった。

その傍らで、ルシアンは沈黙したまま立ち尽くしていた。困惑と信じがたい思いが、胸中でせめぎ合っている。


「……俺が?」

彼は低くつぶやいた。

「意味が分からない。あの皇子とは、一度も会ったことすらない」


老練な指揮官アルベルトが、重々しい声で口を開く。


「彼らが求めているのは正義ではありません、坊ちゃん。欲しているのは“口実”です。

皇子の死は捧げ物に過ぎない。あなたは、戦争を名誉で飾るための駒なのです」


ソフィアは視線を落としたが、その瞳に一瞬、理解の光が走った。


「いいえ……それだけじゃないわ、アルベルト。もっと深い理由がある」


彼女はゆっくりと書簡を手放し、まるで他の誰にも見えない何かを見つめるように、息子を見た。


「ヴァルテン皇帝は、戦争など必要としていない。

彼が欲しているのは“血”よ。ルシアン……あなたの血は、軍勢一つ分よりも価値がある」


アルベルトは眉をひそめた。


「血、ですと? それは一体……」


「帝国が何世代にもわたって追い求めてきたものよ」

ソフィアはかすれる声で答えた。

「純粋な力。皇帝とその娘、第七皇女は“イプシロン”の魔力適性を持って生まれた。この祝福を持つ者は、帝国全土を探しても他に存在しない……今まではね」


ルシアンの背筋を、冷たいものが走った。


「まさか……それが理由で、俺を?」


ソフィアは静かにうなずいた。


「彼らが欲しいのは、あなたの遺伝子、あなたの血統。

あなたの適性は唯一無二――私の血に流れる“オメガ”の系譜の写し。

もしその血が皇女のものと交われば……生まれる子は、“オメガ”の魔力適性に到達するかもしれない」


大広間に沈黙が落ちた。

その言葉の重みは、どんな軍事的脅威よりも重く、冷たかった。


アルベルトが信じられないといった様子で呟く。


「……では、この戦争は復讐ではない。

“完全”を求めるためのものか」


ソフィアは苦々しくうなずいた。


「帝国はあなたを殺したいのではない、ルシアン。

欲しているのは“所有”よ。

そして――それだけは、決して許さない」


――――――――


青銅の音が、村々や街道を貫き、黄金色の収穫地を越えて伝わっていく。

それは音楽ではなかった。

義務への呼び声。

生きる者たちを、戦争という影へと招く合図だった。


ダグラス城の大広間には、溶けた蝋、鉄、そして羊皮紙の匂いが漂っていた。

中央には、石の祭壇のような巨大な戦議卓。

その上には地図、封印、そして軍勢を模した木彫りの駒が並ぶ。


――そこは、数千の運命が切り捨てられる盤上だった。


公爵ローレンス・ダグラスは、太陽の狼の深紅の軍旗の傍らに立ち、集まった男たちを静かに見渡していた。

そこにいるのは伯爵、子爵、男爵――それぞれが自らの領地を治める主であり、胸にはダグラス家の黄金の紋章を掲げている。

彼らは宮廷人ではない。

戦のために集った家臣たちだった。

血の匂いを知り、鋼の重みを知る者たち。


「エルクハム王からの招集を、無視することはできない」


ローレンスの低く重い声が、石壁に反響した。


「それは王座への義務であると同時に、王国への責任だ。

我らの民のため、そして――祖先の名に恥じぬためでもある」


その言葉が、広間のざわめきを押し潰す。

公爵は眼前に広げられた地図を指し示した。

南方は、黒いインクで炎のように塗り潰されている。


「戦力を分ける。

半数は私と共に南部戦線へ向かい、王国旗の下で戦う。

残る半数はここに留まり、公爵領を守れ」


そして、将たちへと視線を向ける。


「帝国は国境で待ちはしない。

攻める時は、潮のように押し寄せてくる。

北が空になれば、我らの要塞は一つずつ崩れ落ちるだろう。

故郷を守らぬことは、すなわち全滅を意味する」


白髭の老伯爵、ダーヴェン卿が一歩前に出て、頭を垂れた。


「公爵閣下。もし全軍が出払えば、北の湿地帯は無防備になります。

村々は、魔獣にも、人にも耐えられますまい」


ローレンスはゆっくりとうなずいた。


「だからこそ、お前とその兵がここに残る。

谷と鉱山を守れ。

ダグラスが一人でも息をしている限り、帝国の旗がこの地に翻ることはない」


彼は鉄製の駒を手に取り、地図の上を力強く動かした。


「レド、ソヴァン、マーロウの各伯爵は私と共に進軍する。

精鋭の戦士と魔導士を率いて来い。

子爵たちは軽装部隊と補給を担当せよ。

男爵たちは内陸路と山岳の関門を警護する」


その傍らで、ソフィア・ダグラスは黙して立っていた。

金糸で縁取られた濃紺のローブは、松明の光さえ吸い込むかのようだ。

ローレンスが語り終えた後、彼女は静かに口を開いた。


「ヴァルデンおよび東方の村々へ向かう補給路は脆弱です。

もし帝国が魔導士や戦争用ドラゴンを投入すれば、最初の月を迎える前に前線は崩壊するでしょう。

――モンドリングに、私の直轄で魔導部隊を一個残すことを提案します」


ローレンスは、ほっとしたようにうなずいた。

ソフィアが公爵領を守る限り、

帝国の大軍であろうと、荒れ狂うマナの奔流であろうと、

この地を砕くことはできないと――彼は知っていた。


一瞬、再び沈黙が広間を支配した。

燃え盛る暖炉の爆ぜる音だけが、義務の重さを際立たせている。

ローレンスは地図へと視線を落とし、低く呟いた。


「……ルシアンも、私に同行できるかもしれないな。

もちろん主戦線ではないが――」


その言葉は、喉元で途切れた。


ソフィアの視線――それだけで十分だった。

冷たく、静かで……そして揺るぎない。


ローレンスの脳裏に、かつての記憶が鮮明によみがえる。

妻ラリエット――雌獅子のごときその女性に、

自分が「ケイレブを公爵位の継承者にする」と告げた瞬間。

あの時、彼の首はほとんど彼女の牙の中にあった。


彼は咳払いをし、羊皮紙を整えるふりをした。


「……やはり、留まるべきだな」

ぎこちなく言葉を結ぶ。

「ダグラス公爵家の後継者は、安全でなければならない」


ソフィアは満足したように視線を地図へ戻した。

ルシアンは黙したまま、その決断の重みを噛みしめていた。

それが戦略を超えたものであることを、彼は理解していた。

母の眼差しが、自分を守っているのだと――。


評議は夜更けまで続いた。

命令は蝋と血で封じられ、使者たちは雨の中へと旅立っていく。


そして最後の松明が消されたとき、

ローレンスは手を掲げ、避けられぬ戦争の始まりを告げる言葉を放った。


「公爵領のために。

家のために。

そして王国のために。

――勝利か、死か」


誓いは、すべての貴族、すべての将、

そして二度と戻らぬことを悟った声によって復唱された。

その反響は城壁を駆け巡り、

太陽の狼の軍旗を震わせる、不吉な前兆となる。


ダグラス公爵領は、戦へと進軍する。

そしてそれと共に――

世界そのものが、黄昏へと向かう最初の一歩を踏み出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ