『血の価値』
モンドリング城の大広間で、公爵夫人ソフィア・ダグラスは帝国からの書簡を指先に挟んでいた。
羊皮紙はわずかに震えている――それは恐怖ではなく、抑え込まれた怒りによるものだった。
その傍らで、ルシアンは沈黙したまま立ち尽くしていた。困惑と信じがたい思いが、胸中でせめぎ合っている。
「……俺が?」
彼は低くつぶやいた。
「意味が分からない。あの皇子とは、一度も会ったことすらない」
老練な指揮官アルベルトが、重々しい声で口を開く。
「彼らが求めているのは正義ではありません、坊ちゃん。欲しているのは“口実”です。
皇子の死は捧げ物に過ぎない。あなたは、戦争を名誉で飾るための駒なのです」
ソフィアは視線を落としたが、その瞳に一瞬、理解の光が走った。
「いいえ……それだけじゃないわ、アルベルト。もっと深い理由がある」
彼女はゆっくりと書簡を手放し、まるで他の誰にも見えない何かを見つめるように、息子を見た。
「ヴァルテン皇帝は、戦争など必要としていない。
彼が欲しているのは“血”よ。ルシアン……あなたの血は、軍勢一つ分よりも価値がある」
アルベルトは眉をひそめた。
「血、ですと? それは一体……」
「帝国が何世代にもわたって追い求めてきたものよ」
ソフィアはかすれる声で答えた。
「純粋な力。皇帝とその娘、第七皇女は“イプシロン”の魔力適性を持って生まれた。この祝福を持つ者は、帝国全土を探しても他に存在しない……今まではね」
ルシアンの背筋を、冷たいものが走った。
「まさか……それが理由で、俺を?」
ソフィアは静かにうなずいた。
「彼らが欲しいのは、あなたの遺伝子、あなたの血統。
あなたの適性は唯一無二――私の血に流れる“オメガ”の系譜の写し。
もしその血が皇女のものと交われば……生まれる子は、“オメガ”の魔力適性に到達するかもしれない」
大広間に沈黙が落ちた。
その言葉の重みは、どんな軍事的脅威よりも重く、冷たかった。
アルベルトが信じられないといった様子で呟く。
「……では、この戦争は復讐ではない。
“完全”を求めるためのものか」
ソフィアは苦々しくうなずいた。
「帝国はあなたを殺したいのではない、ルシアン。
欲しているのは“所有”よ。
そして――それだけは、決して許さない」
――――――――
青銅の音が、村々や街道を貫き、黄金色の収穫地を越えて伝わっていく。
それは音楽ではなかった。
義務への呼び声。
生きる者たちを、戦争という影へと招く合図だった。
ダグラス城の大広間には、溶けた蝋、鉄、そして羊皮紙の匂いが漂っていた。
中央には、石の祭壇のような巨大な戦議卓。
その上には地図、封印、そして軍勢を模した木彫りの駒が並ぶ。
――そこは、数千の運命が切り捨てられる盤上だった。
公爵ローレンス・ダグラスは、太陽の狼の深紅の軍旗の傍らに立ち、集まった男たちを静かに見渡していた。
そこにいるのは伯爵、子爵、男爵――それぞれが自らの領地を治める主であり、胸にはダグラス家の黄金の紋章を掲げている。
彼らは宮廷人ではない。
戦のために集った家臣たちだった。
血の匂いを知り、鋼の重みを知る者たち。
「エルクハム王からの招集を、無視することはできない」
ローレンスの低く重い声が、石壁に反響した。
「それは王座への義務であると同時に、王国への責任だ。
我らの民のため、そして――祖先の名に恥じぬためでもある」
その言葉が、広間のざわめきを押し潰す。
公爵は眼前に広げられた地図を指し示した。
南方は、黒いインクで炎のように塗り潰されている。
「戦力を分ける。
半数は私と共に南部戦線へ向かい、王国旗の下で戦う。
残る半数はここに留まり、公爵領を守れ」
そして、将たちへと視線を向ける。
「帝国は国境で待ちはしない。
攻める時は、潮のように押し寄せてくる。
北が空になれば、我らの要塞は一つずつ崩れ落ちるだろう。
故郷を守らぬことは、すなわち全滅を意味する」
白髭の老伯爵、ダーヴェン卿が一歩前に出て、頭を垂れた。
「公爵閣下。もし全軍が出払えば、北の湿地帯は無防備になります。
村々は、魔獣にも、人にも耐えられますまい」
ローレンスはゆっくりとうなずいた。
「だからこそ、お前とその兵がここに残る。
谷と鉱山を守れ。
ダグラスが一人でも息をしている限り、帝国の旗がこの地に翻ることはない」
彼は鉄製の駒を手に取り、地図の上を力強く動かした。
「レド、ソヴァン、マーロウの各伯爵は私と共に進軍する。
精鋭の戦士と魔導士を率いて来い。
子爵たちは軽装部隊と補給を担当せよ。
男爵たちは内陸路と山岳の関門を警護する」
その傍らで、ソフィア・ダグラスは黙して立っていた。
金糸で縁取られた濃紺のローブは、松明の光さえ吸い込むかのようだ。
ローレンスが語り終えた後、彼女は静かに口を開いた。
「ヴァルデンおよび東方の村々へ向かう補給路は脆弱です。
もし帝国が魔導士や戦争用ドラゴンを投入すれば、最初の月を迎える前に前線は崩壊するでしょう。
――モンドリングに、私の直轄で魔導部隊を一個残すことを提案します」
ローレンスは、ほっとしたようにうなずいた。
ソフィアが公爵領を守る限り、
帝国の大軍であろうと、荒れ狂うマナの奔流であろうと、
この地を砕くことはできないと――彼は知っていた。
一瞬、再び沈黙が広間を支配した。
燃え盛る暖炉の爆ぜる音だけが、義務の重さを際立たせている。
ローレンスは地図へと視線を落とし、低く呟いた。
「……ルシアンも、私に同行できるかもしれないな。
もちろん主戦線ではないが――」
その言葉は、喉元で途切れた。
ソフィアの視線――それだけで十分だった。
冷たく、静かで……そして揺るぎない。
ローレンスの脳裏に、かつての記憶が鮮明によみがえる。
妻ラリエット――雌獅子のごときその女性に、
自分が「ケイレブを公爵位の継承者にする」と告げた瞬間。
あの時、彼の首はほとんど彼女の牙の中にあった。
彼は咳払いをし、羊皮紙を整えるふりをした。
「……やはり、留まるべきだな」
ぎこちなく言葉を結ぶ。
「ダグラス公爵家の後継者は、安全でなければならない」
ソフィアは満足したように視線を地図へ戻した。
ルシアンは黙したまま、その決断の重みを噛みしめていた。
それが戦略を超えたものであることを、彼は理解していた。
母の眼差しが、自分を守っているのだと――。
評議は夜更けまで続いた。
命令は蝋と血で封じられ、使者たちは雨の中へと旅立っていく。
そして最後の松明が消されたとき、
ローレンスは手を掲げ、避けられぬ戦争の始まりを告げる言葉を放った。
「公爵領のために。
家のために。
そして王国のために。
――勝利か、死か」
誓いは、すべての貴族、すべての将、
そして二度と戻らぬことを悟った声によって復唱された。
その反響は城壁を駆け巡り、
太陽の狼の軍旗を震わせる、不吉な前兆となる。
ダグラス公爵領は、戦へと進軍する。
そしてそれと共に――
世界そのものが、黄昏へと向かう最初の一歩を踏み出した。




