ダンヴァーン
二日後
霧に覆われた丘陵の向こうで、夜明けが彼らを迎えた。
遠く、谷を見下ろすようにして、ダンヴァーンの灰色の城壁が姿を現す。
それは石の王冠のようだった。
小さな都市ではあったが、防備は堅牢だ。
磨かれた石材で築かれた城壁は、朝日を受けて古銀のように鈍く輝いている。
正門の両脇には四角い塔がそびえ、その上にはダグラス家の紋章――黒地に銀の竜――がはためいていた。
街路は狭く、石畳が敷かれている。
空気には焼きたてのパンと鉄の匂いが混じり、
城壁沿いでは鍛冶師が火花を散らし、商人たちは店を開き、
兵士の間を縫うように子どもたちが笑顔で走り回っていた。
キャラバンが正門をくぐった瞬間、
街の喧騒は一斉の歓声へと変わった。
男も女も、老人たちも、馬車の前で跪く。
手巾を振る者、谷の乾いた花弁を撒く者。
――皮肉だな、とルシアンは思った。
公爵領の外では、「ダグラス」という名は恐怖と憎悪の象徴だ。
だが、この地では違う。
彼らは守護者として、ほとんど王のように崇められている。
公爵ローレンスは馬車の中から、簡潔な仕草で応えた。
マルサは穏やかな微笑みとともに頭を下げる。
一方、ソフィアは視線をほとんど上げず、
まるで群衆の顔の中に“何か”を探しているかのようだった。
中央広場の入口で、彼らを待っていたのは
公爵領の忠実なる管理官、アウレル・ヴァン=ドラスト伯だった。
白髪交じりの顎髭に、揺るぎない眼差し。
深い青の外套をまとっている。
「公爵閣下」
深々と頭を下げる。
「ダンヴァーンは、閣下のご帰還を心より歓迎いたします。
城はすでに、皆様をお迎えする準備が整っております」
ローレンスは厳かに頷いた。
「ありがとう、アウレル。
……帰ってこられて、嬉しく思う」
伯は馬に跨り、
一行をアーデンタール城へと導いた。
小高い丘の上に建つその城は、
石の庭園と古い糸杉に囲まれた堅牢な要塞だった。
歓迎は、まさに王侯のそれだった。
玄関ホールには使用人たちが整列し、
松明の光が黄金色に壁を染める。
公爵ローレンスとマルサは北棟の主寝室へ。
ソフィアはいつものように、
ルシアンと共に東棟の客室に入った。
やがて城は静けさを取り戻す。
だが、石壁の奥には、
なおも民衆の歓声の余韻が残っていた。
東棟の客室。
松明の光が、石壁に温かな影を落としている。
ソフィアは窓辺の椅子に座り、
その腕の中にはルシアンが捕まっていた。
まるで、柔らかな天鵞絨の檻。
「か、母さん……やめてよ」
くぐもった笑い声で抗議する。
「もう子どもじゃないんだから」
「それはあなたの言い分でしょう?」
ソフィアは声を潜めて笑い、
いつもの毅然とした口調とは裏腹に、
優しく彼の髪を撫でた。
「私にとっては……いつまでも、そうよ」
その時、控えめなノック音が扉に響いた。
「どうぞ」
ソフィアは、腕を緩めることなくそう告げた。
アルバート隊長――ソフィアが長年信頼を寄せてきた腹心――が、規律正しく、敬意をもって入室した。
野戦用の制服に身を包み、肩に輝く鋼の光は、長年の奉仕で培われた規律そのものだった。
「奥方様」
軽く一礼する。
「部隊は配置を完了しました。使用人たちも、ご命令どおり城内各所に分散しております」
「ご苦労さま、アルバート」
ソフィアは声色を変えず、なおもルシアンの髪を弄びながら答えた。
「一日休養を取る。その後、公爵領の都へ向かうわ。
二日目の夜明けには出発できるよう、全員に準備を整えさせて」
「はっ。承知いたしました、奥方様」
隊長は再び頭を下げ、退出しかけた――が、その背を声が呼び止めた。
「アルバート」
母の腕の隙間から顔を覗かせ、ルシアンが言う。
「久しぶりだな。最近どこにいたんだ?」
老兵は、数え切れぬ戦場を越えてきた者だけが浮かべられる笑みを見せた。
「もしや、若旦那は訓練が恋しいのですかな?」
無邪気を装って続ける。
「ご希望とあらば、また稽古を再開いたしますが」
その瞬間、ルシアンの眉がきゅっと寄った。
“稽古”と称された、あの人外じみた鍛錬を思い出したのだ。
「いや、遠慮しておくよ」
即答だった。
「ただ街を少し歩きたいだけだ。一緒に来てくれるだろ?」
ソフィアが片眉を上げる。
「いつから、私の許可もなく外出できるようになったのかしら、ルシアン・ダグラス?」
彼は振り返り、諦めと反抗が入り混じった表情を浮かべた。
「母さん……俺、もう十六だよ」
少し困ったように、しかしどこか必死に。
「もう子どもじゃない」
ソフィアはじっと彼を見つめ、しばし沈黙した。
そして――いつも小さな“権威”を行使する前に見せる、あの柔らかな微笑みを浮かべた。
「ええ、そうね……」
囁くように言い、彼の頬を軽くつまむ。
「でも――あなたは、私の息子よ」
ルシアンは敗北を認めたように鼻を鳴らし、
アルバートは必死に笑いを堪えた。
「行ってきなさい」
ようやく、ソフィアは許可を与えた。
「日暮れまでには戻ること。明日は旅を続けるのだから、
酒場をうろついていた、なんて報告は聞きたくないわ」
「約束する」
ルシアンはそう答え、ようやく抱擁から解放された。
部屋を出たあとも、ソフィアはしばらく彼の背を見つめていた。
その表情には、誇りと不安が静かに溶け合っていた。
灰色の石塔の間から差し込む陽光を浴びながら、
ルシアンは城の階段を下りていく。
空気には焼きたてのパンと鍛えられた鉄の匂い。
――生きた街の、確かな気配。
隣を歩くアルバートは、片時も気を緩めぬ老兵の佇まい。
少し後ろでは、アデルが白虎ラシャに跨っていた。
氷のように澄んだ蒼眼を持つ魔獣だ。
アデルは戦闘服に身を包み、
高く結った三つ編みが歩調に合わせて揺れている。
さらにその横には、軽装の鎧をまとったイザベル。
控えめな優雅さが、他とは一線を画していた。
背後には、銀の竜の紋章を掲げた十名の騎士たち。
もはや散歩ではなく、小規模な部隊だった。
ルシアンはため息をつく。
「ただ気分転換したかっただけなんだけどな……」
「遠征じゃないんだぞ」
アルバートは視線を向けることなく、淡々と返した。
「若旦那。この地では、あなたの安全こそが公爵領の名誉です」
「じゃあ、公爵領は相当暇なんだな」
腕を組み、皮肉を返す。
アデルがくすっと笑った。
「文句言わないの。まだマシよ。
私の師匠まで付いてきたら、もっと大変だったんだから」
「それは……自由の終焉だな」
ルシアンは肩を落とした。
彼らは要塞の正門を抜け、
ダンヴァーンの街――ダグラス領の心臓部へと足を踏み入れた。
石畳の通りは清潔で活気に満ち、
商人の呼び声、鍛冶場の槌音、
銀の竜の小旗を振り回す子どもたちの笑い声が響く。
彼らが通ると、人々は立ち止まり、深く頭を下げた。
そこに恐怖はない。
あるのは、誇りだけだった。
――不思議だ、とルシアンは胸中で呟く。
城壁の外では、
俺たちの名は恐怖を呼ぶのに……。
この街では、
まるで神のように迎えられるのだから。
広場では、見習いたちが小さなエネルギー・ルーンを操っていた。
そのうちの一つが青い閃光とともに弾け、全員が驚いて後ずさる――すぐに、緊張を誤魔化すような笑い声が広がった。
アルバートは眉をひそめる。
「不安定な魔導具で遊ぶべきではありません。最近、マナ結晶の反応が不規則になっています」
ルシアンは足を止め、空中に残る光の残滓を見つめた。
「環境マナの反応か?」
「おそらくは」
アルバートは低く答える。
「神官たちは、魔力の流れが北へ移動していると言っています。何か――大きなものが近づいている」
ルシアンは黙って頷いた。
広場に漂うその淡い光は、彼にある感覚を思い出させた。
森で感じた圧迫感。
大地が、足元で脈打つように鼓動していた、あの感覚。
彼らは歩みを進め、中央市場へと向かう。
露店には艶やかな果実が山積みされ、狩りたての獣肉からはまだ湯気が立ち上っていた。
リュートと笛を奏でる楽師たちが、軽やかな旋律で空気を満たしている。
アデルは武器屋の前で足を止め、黒鋼で鍛えられた短剣を手に取った。
「いいバランスね」
そう呟く。
「間違いなくダグラスの作よ」
鍛冶師は胸を張って笑った。
「この手で打ちました、奥様。すべては公爵領のために」
一方、イザベルは花屋の前に立ち止まっていた。
白いラベンダーの小枝を取り、そっと顔に近づける。
その一瞬、ルシアンは黙って彼女を見つめた。
その仕草には、あまりにも人間らしい何かがあった。
常に彼の傍に仕える“誓約の侍女”という役割とは、どこか噛み合わない温度。
アルバートがそれに気づき、咳払いをして空気を切り替えた。
「若旦那、日が落ちる前に戻るべきかと」
ルシアンは頷いた。
それでも心のどこかでは、まだ歩き続けたいと思っていた。
この街は、生きている。秩序があり、穏やかだ。
だがその静けさの下で、空気が微かに震えている――
まるで石畳そのものが、マナを呼吸しているかのように。
帰路についたその時、突風が吹き抜け、
石畳から淡く輝く塵が舞い上がった。
最初に気づいたのはアデルだった。
「アルバート……今の、まさか……?」
老兵は険しい表情で頷く。
「ああ。空中に浮遊するマナ結晶だ。
街の中で見るのは、これが初めてだ」
ルシアンは振り返り、
霧のように漂う光の粒子を見つめた。
背筋を、冷たいものが走る。
「……現象が進行している」
彼は独り言のように呟いた。
「それなのに、まだ誰も気づいていない」
翌朝、キャラバンは再び出発した。
湿った石道に馬車の車輪が響き、
銀の狼の旗が風に翻る。
後方には、三百の騎士が完璧な隊列で進軍していた。
鎧は朝日の中で白銀に輝く。
空気は冷たく、街道沿いの松林の香りが漂う。
遠くには、雪を戴く山々が厳かにそびえていた。
目的地は――エルドラス。
三つの河が交わる地に築かれた、ダグラス公爵領の都。
政治と軍事の中枢が集う、要塞都市である。
馬車の中で、ルシアンは流れゆく景色を眺めていた。
いつもなら気まぐれなその視線は、
今はまっすぐ地平線を捉えている。
(やるべきことが多い……)
そう、心の中で整理する。
(国勢調査だ。
それなら自然に人々を都市部へ集められる。
主要都市に集約できれば、
マナの異常が制御不能になる前に守れるはずだ)
思考は冷静で、正確だった。
まるで――母ソフィアのように。
ダンヴァーンで見た現象は、偶然ではない。
大地が反応している。
マナは日ごとに濃く、荒れ始めている。
(公爵領は、強くなければならない。
公爵領が弱まれば、俺も弱くなる。
公爵領が強くなれば……俺も、強くなる)
隣で、ソフィアが静かに彼を見ていた。
その唇には、わずかな微笑み。
彼女は、すべて分かっていた。
衝動的だった少年が、
今や“ダグラス”という名の重みを背負い始めていることを。
「……何か、企んでいるわね」
沈黙を破り、そう告げる。
ルシアンは顔を向けた。
「公爵領のことを考えているだけだよ。
マナの異変が広がれば、
遠隔の村から先に滅びる」
ソフィアは穏やかに頷いた。
「国勢調査……いい案ね。
行政施策として出せば、誰も本心には気づかない」
「力を貸してくれるよな?」
ルシアンは、少しだけ笑った。
ソフィアは迷いなく答えた。
「もちろん。
私が息をしている限り、あなたの隣にいるわ」
再び、馬車に静寂が満ちる。
聞こえるのは、馬の蹄の規則正しい音と、
木々を渡る風のささやきだけ。
ルシアンは自分の手を見下ろし、
ゆっくりと拳を握った。
まだ彼自身は気づいていない。
だがこの思考――
「公爵領は、強くなければならない」
それこそが、
今の彼が追うべき“目標”だった。




