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溢流の兆し

馬車は細い小道をゆっくりと進んでいた。

道の両脇には、村人たちの遺体が横たわっている――男、女、そして子ども。

城壁もなく、司祭もおらず、騎士の守りもない。

残されていたのは、崩れた家屋と、重苦しい沈黙だけだった。


ソフィアは死体を見下ろしたが、その表情は微動だにしなかった。

介入しても、もはや意味がないことを理解していた。


「陣形を維持しなさい」


氷のように冷たい声で命じる。


「このレベルの魔獣の前では、弱者はただの巻き添えでしかない」


彼女の視線が北へ向けられた。

再び、大地が震える。


木々の境界線から、さらに巨大な影が姿を現した。

黒く固化したマナの装甲に覆われた、巨躯の魔熊。

その周囲の空気は歪み、存在を保つために現実そのものが軋んでいるかのようだった。


ソフィアは馬から降りた。

風に翻るマント。


「誰も近づくな」


そう告げると、サンダーに跨り、

一つの合図で三体の魔獣が呼応する。


電光の馬が嘶き、

黄金の獅子が咆哮し、

影の狼が闇から姿を現す。


ソフィアは手綱を強く握った。


戦いが始まる。


そしてクーリア全土は、まだ知らぬままに、

新たな時代の前触れを吸い込んでいた。


――マナが溢れ出す時代の始まりを。


魔獣の死骸は、湯気を立てる大地に横たわっていた。

マナを過剰に含んだ血液は、青白く輝く水溜まりを作っている。


ソフィアはサンダーから降り、表情を変えぬまま戦場を見渡した。


「ここに野営地を設けなさい」


落ち着いた声だったが、戦の余韻が残っていた。


兵たちは慎重に動き、魔獣の死体には近づかない。

空気はなお震えており、

まるで死してなお、その存在が力を放っているかのようだった。


ローレンスが険しい表情で近づく。


「……無事か?」


無理に整えた声。


ソフィアはわずかに振り返った。


「公爵様がここにいらっしゃるとは、光栄ですわ」


皮肉を帯びた声。


「馬車にお戻りになっては?

危険な目に遭われては困りますから」


ローレンスは眉をひそめた。


「助けが必要だとは思わなかった」


冷たい視線が彼を射抜く。


「公爵様は、ずいぶん長い休暇を取っておられるようですね」

「指揮を執るべき立場の方が、他人の働きを眺めているとは」


重苦しい沈黙。


風が吹き、金属のような異臭を運んできた。


ローレンスは空を見上げる。

地平線が、夕焼けとは異なる淡い光に染まっていた。

揺らめく光のヴェール。


「……あの輝き、見たことがない」


呟く。


ソフィアも空を仰いだ。

空が――呼吸しているようだった。

紫、青、金が絡み合い、ゆっくりと波打つ霧。


「古い聖典に記されていました」

彼女はほとんど独り言のように言った。

「“火なき炎が空を染める時、マナは世界へ溢れ落ちる”」


ローレンスは片眉を上げる。


「予言か? ただの迷信だと思っていたが」


ソフィアは小さく首を振る。


「分かりません。ですが、現れる魔獣は皆、

本来の縄張りから離れ、より強く、より理性を失っています。

……何かが、マナの均衡を崩している」


ローレンスは黙り込み、

マナのオーロラのように広がる光を見つめた。


「何であれ……止められそうにはないな」


ソフィアは、ひび割れた地面と魔獣の死骸を見下ろす。


「ええ。でも、備えることはできます」


彼女の声は低く、重い。


「空が完全に開いた時……

何が降ってくるのか、誰にも分からないのですから」


風が、さらに冷たく吹いた。

地平線は、太陽でも星でもない光で瞬いていた。


夜が完全に訪れ、

野営地はマナ灯の柔らかな光に包まれていた。


焼けた肉の香りと、焚き火の煙。

ルシアンは目を輝かせ、勢いよく食べている。


「この肉、すごく美味しい!」


満足げに言い、さらに一切れ口へ運ぶ。


隣ではイザベラが、ほとんど音を立てず、優雅に食事をしていた。

炎を見つめるその視線は、どこか遠い。


アデルが腕を組んで近づく。


「ルシアン様、もう少しゆっくりお召し上がりください」

「またマナ過剰になったら、馬車まで担いでいく羽目になりますよ」


ルシアンはまだ噛みながら顔を上げる。


「大丈夫だよ。胃は丈夫だから」


アデルは短く笑った。


「丈夫?

高位魔獣の肉を食べて、三日寝込んだのをお忘れですか?」


ルシアンは気まずそうに眉を寄せる。


「それは……“森の王”の肉にマナが多すぎただけだ」


アデルはいたずらっぽく身を乗り出す。


「そしてこれは、高位魔熊の肉です」

「数時間前に、私の師が倒したばかりの」


ルシアンは目を見開いた。


「……熊の肉?」


「ええ。

あれを狩って、生きて帰れる者はほとんどいません」

「ましてや、夕食にするなんて」


ルシアンはため息をつき、皿を脇に置いた。


「分かったよ。母さんが凄いのは」

「皆の前で言わなくてもいいだろ」


アデルは声を上げて笑った。


「自慢じゃありません。

また魔力熱を出されないように、ですよ」


その時、イザベラがその夜初めて微笑んだ。

視線を伏せ、炎の中に隠すように。


焚き火が弾け、火花が夜空へ舞い上がった。

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