誓約者たちの声
イザベル・アーメントは背筋を伸ばし、膝の上で静かに手を組んでいた。
馬車の揺れに合わせて光が彼女の顔を撫でる。
磁器のように白く、柔らかな輪郭。
彼女の美しさは、目立とうとするものではなかった。
それでも自然と人の視線を惹きつけてしまう――
埃や荒廃とは無縁の、静かな気品。
だからこそ、王国第二王子は彼女に恋をし、
そしてその結果、ルシアンは彼の憎しみを買った。
彼女は、ここにいるべきではなかった。
彼の侍女であるはずもなかった。
だがクーリアでは、決断というものは、意志から生まれることの方が少ない。
ルシアンはわずかに目を開き、彼女を見た。
首元で、誓約の刻印が淡く光っている。
サグムス神の魔法によって刻まれた、銀色の円環。
それは彼女の命を、彼に結びつける印。
生か、あるいは死か。
忠誠の代価は、存在そのものだった。
「イザベル嬢」
彼は目を閉じたまま、唐突に口を開いた。
「なぜ、誓約を立てた?」
彼女は驚いたように顔を上げる。
「……忠誠の、誓約ですか?」
「ああ」
ルシアンはわずかに顔を向けた。
「誰にも強制されていない。
そして、破った時に何が起きるかも知っているはずだ」
すぐには答えなかった。
馬車の揺れが沈黙を満たし、
金属の車輪の音が、まるで告白の拍子を刻むかのように響く。
「……分かっています」
ようやく口を開いた彼女の声は、
穏やかでありながら、微かに震えていた。
「でも、人は何かを信じなければ生きられないこともあるんです。
……たとえ、それが痛みを伴っても」
彼女の視線は窓の外へと流れる。
木々が影のように過ぎ去っていく。
「誓約は……鎖ではありません」
静かに、しかし確かに言った。
「選択です。
そして私は、その選択を裏切れない」
ルシアンは彼女を見つめ、言葉の奥を探った。
そこにあったのは信仰ではない。
ましてや盲目的な忠誠でもない。
あったのは、静かで、諦観に近い決意だった。
カレブ・ダグラスの死は、抑えきれぬ怒りを呼び起こした。
ダグラス家は、彼女の首を要求した。
カレブの死に至る経緯に、彼女が関わっていたからだ。
ルシアンは、かろうじて介入した。
復讐を処罰へと変え、
処罰を「絆」へと変えた。
彼女を侍女にすること。
それが、彼女を救う唯一の方法だった。
――この状況においては、最善の結果。
ルシアンは視線を逸らした。
外では、木々が影のように流れていく。
彼の隣に座るソフィア・モンドリングは、
移ろう景色を静かに眺めていた。
なだらかな丘。
藁葺き屋根の村。
黄金色の麦畑から、ゆっくりと立ち上る煙。
風と土の匂い。
狼の紋章を掲げた旗が、誇らしげに隊列の上で翻っている。
三百の騎士たちが行軍を護衛し、
その鎧は太陽の下で銀の鱗のように輝いていた。
ダグラス家にふさわしい威容。
それは力の象徴であり、
王国全体への無言の警告でもある。
だがソフィアは、草原を見ていなかった。
彼女の意識は、今もなお痛みを残す記憶の中にあった。
――「モンドリング家は、その娘ソフィアを、ダグラス家の後継との婚姻に捧げる」
サグムス神の司祭が告げた、あの厳かな声。
祝宴も、音楽もなかった。
ただ、神聖なる誓約の反響だけが大広間に残った。
恐怖だけが力を上回る古き伯爵家、モンドリング。
彼らはダグラスという巨大な影から身を守るため、
娘を「供物」として差し出した。
当時の公爵は冷酷で計算高い男だった。
彼はソフィアが持つ魔力適性――オメガ級を見抜いた。
一世代に一度しか現れぬ、特別な資質。
彼にとって、それは祝福ではなかった。
ただの資源だった。
「お前の血の力を、我が息子と結びつける」
「公爵領に必要なのは、強き後継だ。恋に溺れる詩人ではない」
その一言で、運命は定まった。
ローレンス・ダグラス。
別の女性を愛していた若き男は、
サグムス神の誓約のもと、彼女の夫となった。
誓約は結婚だけでなく、服従をも保証する。
息子の意思も、妻の嘆願も、
神に祝福された契約を破ることはできない。
あの日のローレンスの顔を、ソフィアは忘れない。
若く、美しく……
そして、完全に空虚だった。
自分の顔も同じだった。
外は冷たく、内は砕け散っていた。
やがて現れたのがマーサ。
いつも、マーサだった。
彼女の笑い声が城を満たし、
ローレンスが隠そうとする視線、
沈黙の夜。
拒まれた愛は、
決して消えぬ、静かな憎しみに変わった。
老公爵の死後、ローレンスは爵位を継ぎ、
そして心を解放した。
密かにマーサと結婚し、彼女を側室として迎え、
使用人たちは囁いた。
――禁じられた愛から生まれた子、カレブの名を。
正妻であるソフィアは、触れられることすらなかった。
世界にとっては公爵夫人。
ローレンスにとっては、誓約。
名だけを持つ影だった。
屈辱は、長年にわたって彼女を養った。
だがカレブの誕生が、沈黙を破らせた。
ダグラスの血は、彼女の胎内にも流れるべきだ。
そうして、半ば強制的にローレンスは義務を果たした。
その結びから生まれたのが、ルシアンだった。
嵐の夜、城の窓を雨が叩く中、
彼女の腕の中で、子は初めて息をした。
その瞬間、ソフィアの中で何かが変わった。
ローレンスへの愛ではない。
マーサへの許しでもない。
それは――空虚に走った、ひび割れ。
目的という名の、火花。
ルシアンは、彼女の遺産だった。
彼女の復讐だった。
選ばれなかった運命への、答え。
子の魔力適性は、公爵領の魔術師たちすら驚かせた。
エプシロン級――神域に触れるほどの資質。
彼女が軽蔑した結びから生まれた、完璧な結果。
笑顔の中で育つカレブの傍らで、
ルシアンは静かに、彼女の力の写し身となっていった。
こうして後継争いは始まった。
血の戦争は、常に静かで、そして毒を孕む。
ソフィアは息子に視線を向けた。
彼は目を閉じ、
共に旅する亡霊たちなど知らぬ顔で眠っている。
クーリアの景色が広がる。
焼きたてのパンの香る村。
隊列を見て立ち止まる農民たち。
古き神々を祀る神殿。
ソフィアは馬車の窓に手を置いた。
映るのは、
結婚と屈辱と、己のものではない名を生き抜いた女の顔。
ルシアン。
彼女の息子。
彼女の理由。
ローレンスのものでも、
ダグラスのものでもない。
――彼女のものだ。
彼女は彼を、世界すら触れるに値しないかのように守り育てた。
産む前は、復讐になると思っていた。
だが、抱きしめ、息を感じ、成長を見るうちに、望みは変わった。
復讐など、もういらない。
ただ、彼が幸せになれる場所を。
誰にも意志を押し付けられない場所を。
自ら道を選べる未来を。
それは、彼女が決して与えられなかったもの。
カレブに勝ち、
ローレンスに勝ち、
自分を蔑ろにしたすべてに勝つこと。
それが目的だった。
だがその奥には、
誇りや怨恨を超えた、
より純粋で、より危険なものがあった。
――愛。
その時が来れば、
ソフィアは迷わず命を差し出すだろう。
正午前、一行は最初の村を通過した。
淡い石造りの家々。
疲れ切った草原。
窓に嵌められたマナ結晶は、
かつての淡い光ではなく、異様に濃い青で燃えていた。
魔力結晶で回る風車は、不規則に唸る。
子どもたちは小さな秘術球で遊んでいたが、
その光は強すぎた。
ソフィアはすぐに気づいた。
以前は、この谷のマナは乏しく、穏やかだった。
今は、皮膚の下で震えているのを感じる。
空気は重く、
制御を失った呪文の中で呼吸しているようだった。
「……流れが変わっている」
彼女は地平線を見つめ、呟いた。
景色もそれを証明していた。
ひび割れた土地。
内側から焼けた作物。
道の端には、本来いるはずのない存在たち。
三本角の鹿。
金属の羽を持つ鳥。
透き通る眼。
人を恐れない。
本能が歪められていた。
やがて太陽が傾いた頃、咆哮が響いた。
大地が震えるほど、深い音。
「アデル」
ソフィアの声は冷静だった。
騎士は手綱を引く。
サンダーが嘶き、空気が帯電する。
黄金獅子ラリエットが応え、
ウンバーは影に溶けた。
襲撃は一瞬だった。
黒い鱗の皮膚。
液体のようなマナを宿した眼。
三体の肉食獣が森から躍り出る。
一本は、木を砕く前にアデルの槍に貫かれ、
もう一本は、サンダーの蹄下で雷に裂かれ、
最大の一体は、ラリエットの燃える顎に喰い砕かれた。
――一分も経たず。
再び、静寂。
血とオゾンの匂いだけが道に残った。
ルシアンは窓からすべてを見ていた。
そして久しぶりに、風とは違う寒気を覚えた。
土に染み込む血を見つめながら、静かに呟く。
「……自然でさえ、自分の居場所を失っている」
歪んだ死骸から溢れるマナは凄まじい。
少なくとも、九十レベル。
こんな存在が、原初の森から遠く離れた場所にいるはずがない。
――現象は始まった。
草食獣はマナ過多の地から逃げ、
肉食獣はそれを追う。
人間は、その狭間に取り残される。
そして――
最初に滅びるのは、小さな村だ。




