表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
88/183

エミリーの舞踏会

一週間後――

エミリーは、自分の緊張をどうしても隠すことができなかった。


これほど大規模な社交の場に立つのは初めてだった。それも、王国でも屈指の影響力を持つ家門を迎える催しである。

すべてが完璧でなければならない。

大公妃の前で失敗するわけにはいかなかった。


使用人たちが行き交い、最後の調整を進める中、エミリーは何度も何度も広間を見渡した。

テーブルの配置、花の位置、壁を飾る金色の紋章――

少しでも乱れがないかを確認するたび、胸が締めつけられる。


短い呼吸。

大理石の床に響く足音が、背負った責任の重さを突きつけてくる。


そのとき、扉の向こうにソフィアが現れた。いつもと変わらぬ気品をまとい、隣にはルシアンの姿があった。


「エミリー」

凛とした声でソフィアが告げる。

「今日は、あなたが婚約者と共に主催者です。決して彼の側を離れないように」


「……はい」


エミリーは即座に頷いた。

胸に広がるのは、不安と誇りが入り混じった複雑な感情だった。


やがて、各家門が次々と到着する。

家紋の盾が水晶灯の光を反射し、貴族たちは慎重に計算された微笑みと挨拶を交わしていた。


華やかなざわめきの裏側には、微かな緊張が漂っている。

最近の不穏な噂、揺らぐ同盟、疑念の影――それらが空気に溶け込んでいた。


そのとき、伝令の声が響く。


「王家御一行、御入場――」


空気が一変した。

全員が一斉に頭を垂れ、王と王妃が厳かな足取りで進んでくる。


エミリーの隣に立つルシアンは、思わず視線を奪われていた。


エリザベスだった。


皇紫の絹のドレスは、磨き上げられた床に光の川のように流れ落ちている。

腰元の銀糸の刺繍は動くたびにきらめき、深い青の真珠の耳飾りは、夜空を閉じ込めたかのようだった。


エリザベスもまた、彼に気づいた。


一瞬だけ、視線が交わる。

言葉のないその一秒は、許されぬ感情を孕み、時間を止めたかのようだった。


彼女はすぐに表情を整え、優雅にエミリーへ歩み寄る。


「お会いできてうれしいわ、エミリー」

完璧な微笑みでそう言い、続けてルシアンを見る。

「そして、お誕生日おめでとう、ルシアン」


丁寧で、よそよそしい声。


だが、すれ違いざま、エミリーの耳元に顔を寄せ、低く囁いた。


その言葉を聞いた瞬間、エミリーは凍りついた。

顔色が失せ、唇がわずかに開いたまま動かない。


気づけば、エリザベスは人混みに紛れて姿を消していた。

ルシアンは、何が起きたのか理解できず、ただエミリーを見つめる。


――その後、別室。


氷のように冷たい視線で、エリザベスは問いかけた。


「あなた、自分がなぜここに呼ばれたのか分かっている?

それとも……私が説明してあげる?」


エミリーは震えながら深く頭を下げた。


「……いいえ、王女殿下。存じません」


エリザベスは計算された動作でカップを手に取る。

磁器のかすかな音だけが、沈黙を切り裂いた。


「あなたが婚約を破棄したいと思っている、と――

あなたの“親しい友人”から聞いたわ」


視線が鋭く突き刺さる。


「でも、怖いのでしょう? 結果が」


一拍置き、言葉を毒のように落とす。


「だから呼んだの。

危険を負わずに、その婚約を終わらせる手助けをしてあげる」


エミリーの胃が締めつけられる。


(友人……? まさか、アレハンドロ……)


それでも、彼女は姿勢を崩さなかった。


「ご提案には感謝いたします、王女殿下」

震えを抑えた声で言う。

「ですが、私は家と自分の責務を果たします」


その瞬間、エリザベスの表情がわずかに歪んだ。

抑え込んでいた怒りが、瞳に宿る。


「臆病者ね!」

鋭く吐き捨てる。

「愛する人の腕に戻れる機会を与えているのに……恐怖で逃げるなんて」


エミリーは、初めて真正面から彼女を見た。


「彼が何を言ったのか分かりませんが……」

はっきりと告げる。

「私は彼に恋心を抱いていません。友情だけです。それ以上を望んだこともありません」


エリザベスは目を細める。


「……では、ルシアンが好きなの?」


一瞬の沈黙。

そして、エミリーは小さく、しかし確かな声で答えた。


「……親しい友人です。

そして、いつか……愛するかもしれません」


膝の上で指を絡めながら、続ける。


「それだけではありません。

彼がどれほど孤立し、追い詰められているかを見てきました。

私が離れたら、この冷たく虚飾に満ちた公爵領で、彼は一人になってしまいます」


エリザベスは長く彼女を見つめた後、静かに背もたれに身を預けた。


(愚かな子……

力に飲み込まれる前に、目を覚まさせないと)


「……もう下がっていいわ」


逆らう余地のない声音だった。


――夜が更け、舞踏会は終わりを迎える。


帰り際、エリザベスはルシアンに近づき、甘い声で囁く。


「あなたの誕生日の贈り物は、また今度」

「……二人きりで。邪魔なしで、ね」


ルシアンは頷いたが、胸の奥に冷たい違和感が残った。


ローレンスはほとんど姿を見せなかった。

蒼白な顔と落ちくぼんだ目は、カレブを失った痛みを物語っている。

彼の存在は場を重くしたが、ルシアンの胸に湧いたのは、かすかな同情だけだった。


一方で、エミリーはようやく息をつけた。

準備、命令、詮索の視線――

それらが、すべて無事に終わったという事実とともに、少しずつ消えていく。


最後の客が去った後、ソフィアが彼女を呼び、執務室へ案内した。

暖炉の火が、柔らかな影を壁に揺らしている。


「よくやったわ、エミリー」

穏やかな声だった。

「すべて予定通りよ」


エミリーは安堵の笑みを浮かべる。


だが、ソフィアは続けた。

今度は、低く重い声で。


「家族と過ごす時間を大切にしなさい。

それが……最後になるから」


「……最後、ですか?」


「ええ」

大公妃は頷いた。

「学院の期が終わったら、あなたはこちらへ移る。

ルシアンの婚約者としての役目を果たし、

次期公爵夫人となるための準備を始めるのよ」


言葉は、逃れようのない運命のように、空間に重く残った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ