エミリーの舞踏会
一週間後――
エミリーは、自分の緊張をどうしても隠すことができなかった。
これほど大規模な社交の場に立つのは初めてだった。それも、王国でも屈指の影響力を持つ家門を迎える催しである。
すべてが完璧でなければならない。
大公妃の前で失敗するわけにはいかなかった。
使用人たちが行き交い、最後の調整を進める中、エミリーは何度も何度も広間を見渡した。
テーブルの配置、花の位置、壁を飾る金色の紋章――
少しでも乱れがないかを確認するたび、胸が締めつけられる。
短い呼吸。
大理石の床に響く足音が、背負った責任の重さを突きつけてくる。
そのとき、扉の向こうにソフィアが現れた。いつもと変わらぬ気品をまとい、隣にはルシアンの姿があった。
「エミリー」
凛とした声でソフィアが告げる。
「今日は、あなたが婚約者と共に主催者です。決して彼の側を離れないように」
「……はい」
エミリーは即座に頷いた。
胸に広がるのは、不安と誇りが入り混じった複雑な感情だった。
やがて、各家門が次々と到着する。
家紋の盾が水晶灯の光を反射し、貴族たちは慎重に計算された微笑みと挨拶を交わしていた。
華やかなざわめきの裏側には、微かな緊張が漂っている。
最近の不穏な噂、揺らぐ同盟、疑念の影――それらが空気に溶け込んでいた。
そのとき、伝令の声が響く。
「王家御一行、御入場――」
空気が一変した。
全員が一斉に頭を垂れ、王と王妃が厳かな足取りで進んでくる。
エミリーの隣に立つルシアンは、思わず視線を奪われていた。
エリザベスだった。
皇紫の絹のドレスは、磨き上げられた床に光の川のように流れ落ちている。
腰元の銀糸の刺繍は動くたびにきらめき、深い青の真珠の耳飾りは、夜空を閉じ込めたかのようだった。
エリザベスもまた、彼に気づいた。
一瞬だけ、視線が交わる。
言葉のないその一秒は、許されぬ感情を孕み、時間を止めたかのようだった。
彼女はすぐに表情を整え、優雅にエミリーへ歩み寄る。
「お会いできてうれしいわ、エミリー」
完璧な微笑みでそう言い、続けてルシアンを見る。
「そして、お誕生日おめでとう、ルシアン」
丁寧で、よそよそしい声。
だが、すれ違いざま、エミリーの耳元に顔を寄せ、低く囁いた。
その言葉を聞いた瞬間、エミリーは凍りついた。
顔色が失せ、唇がわずかに開いたまま動かない。
気づけば、エリザベスは人混みに紛れて姿を消していた。
ルシアンは、何が起きたのか理解できず、ただエミリーを見つめる。
――その後、別室。
氷のように冷たい視線で、エリザベスは問いかけた。
「あなた、自分がなぜここに呼ばれたのか分かっている?
それとも……私が説明してあげる?」
エミリーは震えながら深く頭を下げた。
「……いいえ、王女殿下。存じません」
エリザベスは計算された動作でカップを手に取る。
磁器のかすかな音だけが、沈黙を切り裂いた。
「あなたが婚約を破棄したいと思っている、と――
あなたの“親しい友人”から聞いたわ」
視線が鋭く突き刺さる。
「でも、怖いのでしょう? 結果が」
一拍置き、言葉を毒のように落とす。
「だから呼んだの。
危険を負わずに、その婚約を終わらせる手助けをしてあげる」
エミリーの胃が締めつけられる。
(友人……? まさか、アレハンドロ……)
それでも、彼女は姿勢を崩さなかった。
「ご提案には感謝いたします、王女殿下」
震えを抑えた声で言う。
「ですが、私は家と自分の責務を果たします」
その瞬間、エリザベスの表情がわずかに歪んだ。
抑え込んでいた怒りが、瞳に宿る。
「臆病者ね!」
鋭く吐き捨てる。
「愛する人の腕に戻れる機会を与えているのに……恐怖で逃げるなんて」
エミリーは、初めて真正面から彼女を見た。
「彼が何を言ったのか分かりませんが……」
はっきりと告げる。
「私は彼に恋心を抱いていません。友情だけです。それ以上を望んだこともありません」
エリザベスは目を細める。
「……では、ルシアンが好きなの?」
一瞬の沈黙。
そして、エミリーは小さく、しかし確かな声で答えた。
「……親しい友人です。
そして、いつか……愛するかもしれません」
膝の上で指を絡めながら、続ける。
「それだけではありません。
彼がどれほど孤立し、追い詰められているかを見てきました。
私が離れたら、この冷たく虚飾に満ちた公爵領で、彼は一人になってしまいます」
エリザベスは長く彼女を見つめた後、静かに背もたれに身を預けた。
(愚かな子……
力に飲み込まれる前に、目を覚まさせないと)
「……もう下がっていいわ」
逆らう余地のない声音だった。
――夜が更け、舞踏会は終わりを迎える。
帰り際、エリザベスはルシアンに近づき、甘い声で囁く。
「あなたの誕生日の贈り物は、また今度」
「……二人きりで。邪魔なしで、ね」
ルシアンは頷いたが、胸の奥に冷たい違和感が残った。
ローレンスはほとんど姿を見せなかった。
蒼白な顔と落ちくぼんだ目は、カレブを失った痛みを物語っている。
彼の存在は場を重くしたが、ルシアンの胸に湧いたのは、かすかな同情だけだった。
一方で、エミリーはようやく息をつけた。
準備、命令、詮索の視線――
それらが、すべて無事に終わったという事実とともに、少しずつ消えていく。
最後の客が去った後、ソフィアが彼女を呼び、執務室へ案内した。
暖炉の火が、柔らかな影を壁に揺らしている。
「よくやったわ、エミリー」
穏やかな声だった。
「すべて予定通りよ」
エミリーは安堵の笑みを浮かべる。
だが、ソフィアは続けた。
今度は、低く重い声で。
「家族と過ごす時間を大切にしなさい。
それが……最後になるから」
「……最後、ですか?」
「ええ」
大公妃は頷いた。
「学院の期が終わったら、あなたはこちらへ移る。
ルシアンの婚約者としての役目を果たし、
次期公爵夫人となるための準備を始めるのよ」
言葉は、逃れようのない運命のように、空間に重く残った。




