王国の交渉
交渉の間に漂う緊張は、息をするのも困難なほど濃密だった。
レフヴォルル族の長・リンと、王の直轄代表であるフェリペは、表面上は冷静さを保ちながらも、誇りと生存を懸けた静かな戦いを繰り広げていた。
リンは背筋を伸ばし、表情一つ変えない。
その瞳には、血と炎で領土を守り抜いてきた幾世代もの執念が宿っている。
「我らの民は谷を離れない。最初の王国が城壁を築くより前から、ここは我らの故郷だ」
低く重い声で断言する。
「一時的な条約のために、我らの根を差し出すつもりはない」
外交官としての冷静さを保ちながらも、フェリペは卓の下で拳を握り締めていた。
この頑なさが、何千もの命を危険に晒す可能性があることを理解していたし、王国にはもはや北方で戦争を続ける余力はない。
「降伏を求めているわけではない。慎重さを求めているのだ」
彼はそう返す。
「動かぬというなら、軍は君たちを守れない。近隣の土地、再建支援、そして王の庇護を提供しよう。必要なのは協力と忠誠だけだ」
その後の沈黙は、鉛のように重かった。
部族の者たちは、伝統への忠誠と生き延びたいという本能の間で視線を交わす。
王国の提案は理にかなっている……だが、それは同時に膝を屈することを意味していた。
リンは数秒間、目を閉じてから口を開いた。
「提案には感謝する、フェリペ。しかし我らの自由に値段はない。いかなる王座にも従属しない」
静かに、しかし疲れを滲ませながら目を開く。
「……だが、君の立場も理解している。妥協の道があるかもしれない」
その頃、カラとブリギルがブルランス邸に戻ると、館内の空気はいつも以上に重苦しかった。
妙なエネルギーが空間を震わせ、マナ灯はまるで呼吸するかのように明滅している。
「お父様、聞いてほしいの」
書斎に飛び込むなり、カラは訴えた。
「外で起きていることについて、知っておくべきことがあるの」
リンは書類から顔を上げ、数多の急務に対処してきた者の忍耐で娘を見つめる。
「物事はそう単純ではない、カラ。すべてには時が必要だ」
穏やかな声だった。
それでもカラは食い下がったが、場の空気を変えたのはブリギルだった。
彼女は低い声で、ルシアンという若き貴族のこと、森を知り、マナの増大と迫る危険について語った。
視線が交錯する。
それまで沈黙していた公爵でさえ、眉をひそめた。
「……あのダグラス家の若者か?」
慎重に問う。
「本当に、そこまで確かな話なのか?」
「間違いない」
ブリギルは即答した。
「炎を見た者の話し方だった。熱を感じる前に、な」
リンは少し考え、前兆を無視しない指導者としての声で言った。
「彼と会いたい。もし本当に未来を知っているのなら、我らの民の行く末を決める助けになる」
カラは期待に目を輝かせた。
「私が手配できるわ。彼は私を信じてる」
だが、公爵の声がそれを遮った。
冷たい威厳が部屋を凍らせる。
「ならん。正式な貴族のルートで行う」
きっぱりと言い放つ。
「ダグラス家とこれ以上関わることは許可しない。今はな」
その後の沈黙は張り詰めていた。
カラは悔しそうに視線を落とし、父は窓辺へと歩み去った。
一方その頃――
会合と責務に追われ疲弊したルシアンは、ダグラス邸の自室で安らぎを求めていた。
誰にも邪魔されない、ほんのひとときの静寂を。
だが、浴室を出た彼の目に映ったのは、居間でピアノに向かうイザベラの姿だった。
集中した横顔と、鍵盤をなぞる指の繊細な動きだけで、すでに一つの完成された光景だった。
その旋律は、ルシアンの心に眠っていた遠い記憶を呼び覚まし、喜びと郷愁を同時に満たしていく。
ピアノの音は部屋に柔らかく響き、穏やかで温かな空気を作り出していた。
一音一音が、忘れ去られた時代への扉を開くかのようだった。
「……随分、上達したな。イザベラ」
そう口にすると、彼女は完璧な礼をして応えた。
「お褒めにあずかり、光栄です。ご主人様」
ルシアンは、かつて彼女から贈られたフルートを手に取る。
最初の音は拙く、即興的で、練習不足と彼が楽器を一つしか扱えないことを如実に示していた。
だが、イザベラはその音の本質を即座に理解した。
彼女の指が鍵盤の上で舞い、揺らぐ旋律を豊かで情景的な音楽へと昇華させていく。
それは、まるでルシアンの記憶の音楽そのものだった。
二人の間に、言葉なき対話が生まれる。
ルシアンのフルートが感情を紡ぎ、イザベラのピアノがそれに形と命を与える。
命令も、要求も必要ない。
彼女は侍女としての立場をわきまえながらも、音楽だけは己の言語として解き放っていた。
その一音一音が、言葉に頼らぬ深い絆――
静かな共犯関係を、確かに刻み込んでいた。




