『王都散策と、避けられぬ再会』
リンとその戦士たちが王宮でフェリペ王と謁見しているあいだ、
カラとブリギルは時間を利用して王都を歩き回っていた。
市場の喧騒、黄金の旗で飾られた通り、行き交う人々のざわめき――
そこには、王国の心臓部らしい活気が満ちていた。
カラは楽しげに、古い路地へと叔母を案内する。
噴水、花屋の露店、そして学院での休暇日にこっそり抜け出していた店々。
一つひとつ指さして説明する彼女に、ブリギルは目を輝かせ、思わず微笑んでいた。
もっとも、周囲の視線はすぐに二人へ集まった。
北方の氏族特有の衣装に身を包んだブリギルは、王都ではあまりに目立つ存在だったからだ。
だが、誰一人として声に出して何かを言う者はいない。
近くを巡回する衛兵の制服に掲げられた公爵家の紋章――
それだけで、十分すぎるほどの抑止力だった。
宝飾店を出たあと、カラは食事を提案した。
彼女がよく知る、飾り気のない店。
貴族席ではなく、一般客が集まる場所を選んで腰を下ろす。
「ここの料理、絶対気に入るよ」
カラは笑顔で言い、カウンターへ向かった。
「この区画で一番美味しいシチューがあるんだ」
――その、まさに同じ瞬間。
二階から階段を下りてきたのは、ルシアンとエミリーだった。
二人は貴族専用区画からの帰りで、少し後ろではソフィアが満足そうな表情で様子を眺めている。
彼女は知っていた。
ほどなくして、ルシアンとエミリーは八か月もの長い別離を迎える。
だからこそ、この数週間、彼女は意図的に二人を引き合わせ続けていた。
エミリーを屋敷に招き、
ルシアンには「気分転換だ」「笑わせてあげて」「兄を亡くした悲しみを忘れさせてあげて」と、
半ば強引に連れ出していたのだ。
ルシアンとエミリーが店を出ようとした、そのとき。
テーブルへ戻る途中だったカラの足が、不意に止まった。
人混みの向こう――
入口越しに見えたのは、巨大な狼のような気配。
見間違えるはずがない。
「……ルシアン」
思わず漏れたその声は、驚くほどはっきりと響いた。
ルシアンは一瞬で体を強張らせ、気づかぬふりをして足を速める。
だが、もう遅かった。
カラは駆け出していた。
瞬く間に彼の前へ躍り出て、挑むような笑みで行く手を塞ぐ。
「もう回復したみたいね」
挑発するような声音で言う。
「じゃあ……私のリベンジ、受けてもらえるでしょ?」
ルシアンは目を細め、苛立ち混じりに息を吐いた。
「おい、頭のおかしい女」
低く吐き捨てる。
「ここは学院じゃない。それに、お前のその不細工な顔を見るのは気分が悪い。
さっさと消えて、元の用事に戻れ」
王都の喧騒の中で、
二人の視線が、鋭く火花を散らした。
カラは拳を強く握りしめ、怒りで頬を赤く染めた。
「……失礼ね!
私に言い寄ってくる男がどれだけいるか知ってたら、そんなこと言えないはずよ。顔が可愛いって、いつも母が言ってくれるんだから。
それに――あの大会であなたが私にしたこと、忘れたとは言わせないわ。あれは、なかったことにはできない」
ルシアンは、苛立ちを押し殺すように彼女を見つめた。
「もう終わった話だ。忘れろ。今さら蒸し返す意味はない」
だが、カラが簡単に引き下がるはずもなかった。
ルシアンが距離を取ろうとした、その瞬間――
彼女は一歩踏み込み、彼の胸元をつかんで引き寄せる。挑むような視線が、間近に迫った。
「簡単には逃がさないわ、ルシアン」
低く、しかし揺るぎない声で告げる。
「私があなたを倒すまで……絶対にね」
店内のざわめきが一気に大きくなった。
何人かの給仕が足を止め、好奇の視線が集まる。
ルシアンは眉をひそめたが、言い返す前に――
新たな声が、鋭く割り込んできた。
「カラ、どうしたの?」
入口から現れたのは、彼女によく似た若い女だった。
だが、髪はより濃く、眼差しは野生そのもの。
王国の様式とは明らかに異なる装い――毛皮、厚手の布、そしてルーンが刻まれた革の腕当て。
「その男に、手助けが必要?」
彼女はルシアンを頭から足先まで値踏みするように見つめた。
ルシアンは思わず振り返り、女とカラを見比べる。
一瞬、自分の目を疑った。
――あれほど似ているのに、カラに姉妹がいた記憶はない。
カラは舌打ちし、ルシアンの服を放して腕を組んだ。
「何でもないわ」
苛立ちを隠そうともせず言う。
「自分を大物だと思い込んでる、最低な男ってだけ」
それまで一歩引いていたエミリーが、ため息をついて前に出た。
穏やかな口調だが、その瞳には“慣れ”がにじんでいる。
「カラ、挨拶くらいは丁寧にしたほうがいいわ」
そしてルシアンに視線を向ける。
「ルシアンも、女性に対してもう少し礼儀を持つべきよ。女の人に“不細工”なんて、言うものじゃないわ」
ルシアンは目を細めたが、何も言わなかった。
沈黙が流れかけた、そのとき――
新たに現れた女、ブリギルが一歩前へ出る。
警戒に満ちた視線がルシアンに突き刺さり、
ほとんど反射的に、彼女の手が腰の斧へ伸びた。
その殺気に、客の何人かが席を立つ。
だが、刹那。
巨大な影が二人の間に割って入った。
ルシアンの巨狼が、ブリギルの前に立ちはだかり、
低く唸りながら牙をむき出しにする。
床板が、重低音で震えた。
ブリギルは思わず息を呑み、胸元に手を当てた。
一目で分かった――ただの獣ではない。
「……ちくしょう」
驚きと敬意が入り混じった声で呟く。
「なるほど。獣使いってわけか」
カラは叔母の肩に手を置き、なだめるようにしながらも、皮肉は忘れない。
「違うわ。ただのマザコンのバカよ」
ブリギルは片眉を上げ、面白そうに笑った。
「もったいないな」
嘲るように言う。
「魔獣に守られてなきゃ生きられないなんて……この国の子どもは、自立心が足りないらしい」
ルシアンは無表情のまま、低く問いかけた。
「……で、お前は誰だ?」
答えるより早く、カラが口を挟んだ。
「この人は私の叔母よ。
帝国の軍団ですら恐れ、敬う――戦士の部族の出身」
空気が張り詰めた。
店内の喧騒が嘘のように遠のき、
巨狼の唸りも、より低く抑えられる。
ルシアンは目を細め、嘲笑を浮かべてカラを見た。
「叔母、ね……」
毒を含んだ声。
「なるほど。どうりで、頭のおかしい野蛮人みたいな性格なわけだ」
カラが反論しようとした瞬間、
ルシアンは彼女に背を向け、冷たく言い放つ。
「行こう、エミリー。
せっかくの――“平和な”散歩だ」
その言い方が、火に油を注いだ。
「ちょっと!
誰が野蛮人ですって!?」
ブリギルは腕を組み、誇らしげに笑う。
「母親に守られてるだけじゃ飽き足らず、
今度は敵から逃げるのか。情けないな」
彼女の声には、部族の誇りが宿っていた。
「私たちの部族なら、とっくにガルドロクの餌だ」
――その名が落ちた瞬間。
雷が落ちたかのように、空気が震えた。
ルシアンの足が止まる。
嘲りは消え、驚愕が浮かぶ。
ゆっくりと振り返り、ブリギルを見据えた。
「……ガルドロク?」
信じられないというように呟く。
「モングルルの森の、氷竜のことか?」
ブリギルの表情が一瞬で硬直する。
「なぜ……それが氷竜だと知っている?」
今度は、完全に本気の声だった。
二人の間に、冷気のような緊張が走る。
エミリーは本能的に一歩退き、
カラは驚きと興味が入り混じった視線でルシアンを見つめた。
市場の喧騒は、もはや遠い。
頭上の空は、不安定な紫に染まり始めていた。
ルシアンは、慎重に言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。
「噂を聞いた」
視線は、どこか遠くを見つめている。
「それと……少し前に起きた、奇妙な出来事のあとで、
いろいろな魔物について調べていた」
カラが、いつもの鋭さで割り込む。
「……森の王のこと?」
ルシアンは首を横に振った。
包帯の巻かれた手に、微かな光が走る。
「それだけじゃない」
低く続ける。
「近くの村で休んでいたとき、魔族崇拝者の痕跡を見た。
あれは、ただの狂信者じゃない。
“波”や、“マナの増大”について語っていた……
大地が、かつての支配者たちを吐き戻すほどの、な」
どこまで話すべきか、一瞬だけ迷う。
狂人扱いされず、しかし警告としては十分な線――
その均衡を測り、彼はかすかに笑った。
エミリーが、彼の腕を強くつかむ。
声には、はっきりとした不安が滲んでいた。
「それで……あの人たちは、あんな行動を?
本当なの? いったい、どこでそんな――」
ルシアンは彼女を見つめ、落ち着かせるように答える。
「神話書だ」
静かな声。
「滅びた王国の文献に残されている。
マナが雨のように溢れた時代の記録……
そこに書かれている兆候が、
俺の見たもの、そして尋問で聞いた内容と一致している」
言葉は静かだったが、
その意味は、重く、深く、胸に沈んでいった。
ブリギルは、それまで沈黙を守っていたが、喉を鳴らして唾を飲み込み、部族の誇りを言葉に乗せた。
「……もし、お前の言っていることが本当なら」
低く呟き、視線を落とす。
「ガルドロックの復活と、そのマナの増大は……我らの民にとって、最悪の前兆になる」
ルシアンの表情が引き締まった。
もはや貴族の前で身をすくめる少年ではない。
目の前にあるものを、救える限り救おうとする声だった。
「その時、お前たちがまだあの森にいるなら――」
ブリギルをまっすぐに見据える。
「死ぬ。これは脅しじゃない。予測だ」
そしてエミリーへと向き直る。
その声音は、初めてはっきりとした――どこか父性的なものだった。
「おそらく、そう遠くない」
静かに続ける。
「尋問した教団員たちの話では、悪魔や、もっと古い存在も現れるらしい。父上に伝えてくれ。領地の防衛を強化しろ。巡回を増やし、マナの井戸を封じ、避難所を用意するんだ」
エミリーは頷いた。
それは簡単には背負えない命令を受け取った者の表情だった。
「……分かったわ」
一拍置いて、彼女は言った。
「必ず伝える。ルシアン……警告してくれて、ありがとう」
会話が静かに途切れると同時に、冷たい風が木々の梢を撫でた。
遠くの空では、かすかに虹色を帯びた雲が、地平線に溜まり始めているように見えた。
ルシアンはそれ以上留まらず、エミリーと共にその場を後にした。
重い情報を聞かされ、呆然としたままのカラは、遠ざかる背中を見つめていた。
ブリギルは彼から視線を外さず、疑念を含んだ声で呟く。
「……あの少年を、信じていいのか?」
カラは迷わず頷いた。
「ええ。彼の家は王国でも有数の名家よ。それに、ルシアンは最近、本当に危険な事件に関わってる。こんなことで嘘をつく人じゃない」
拳を握りしめる。
「父に伝えるわ。叔母さんは……部族に言って。すぐに森を出るべきだって」
ブリギルはすぐには答えなかった。
空を見上げる。そこでは、淡く光る霧が雲の間に溶けるように消えていく。
やがて、静かに頷いた。
「……我らの民は、もうこれ以上の災厄に耐えられない」
低く囁く。
「もしあの少年の言葉が真実なら……森が我らを呑み込む前に、動かねばならん」




