さまよえる森の子ら
カルパティア王国と国境を接する森の奥深くに、王国にも帝国にも「蛮族」と呼ばれる一つの部族が暮らしていた。
彼らは、マナが呼吸する大地で生きる術を身につけてきた人々だった。そこでは魔力の密度が絶えず変動し、自然も気候も、そして獣の振る舞いさえも歪められる。
その不安定さゆえに、部族は休むことなく移動を続けねばならなかった。
森の奥で眠る魔獣たちが、濃密なエネルギーに引き寄せられて目覚める前に、安全な土地を探し続けるためだ。
周辺諸国の村人たちは、彼らを恐れていた。
時折、蛮族は嵐のように森から現れ、略奪を行い、軍が動く前に霧の中へと消えていく。だが彼らを追って森へ踏み込むことは、自殺行為だった。
森に入った者で、生きて戻った者はいない。
こうして幾世代にもわたり、その部族は伝説となった。
他者が恐れる魔法そのものに守られた、野蛮なる民として。
だが、彼らの社会は決して無秩序ではなかった。
厳格な掟があり、明確な序列があり、深い精神文化が根づいていた。
長老たちは若者に戦いの技を授け、森の精霊と語ることのできるシャーマンたちは、古き魔法の秘奥を伝えてきた。
儀式は厳かで、歌は自然に守護を乞い、
その砦は原始的ながらも、決して揺るがぬ強さを誇っていた。
――だが、その力はいま、試されていた。
山の頂に、A・オメガ級の魔獣が巣を構えたのだ。
その襲撃は絶えず、夜明けには影が野営地を覆い、通った後には廃墟だけが残された。
さらに追い打ちをかけるように、帝国がアスカビンへ侵攻し、部族の者たちを捕らえて奴隷にするため、軍団を送り込んできた。
何世紀ものあいだ避難所だった森は、もはや逃げ場のない檻と化していた。
部族の長、レフルヴォルル・インヴァルド・ベッケルは、中央の焚き火の周りに長老たちを集めた。
年輪を刻んだ顔に、炎の揺らめきが映る。
「このままでは――」
インヴァルドは低く告げた。
「我らの部族は滅びる」
「それは許されぬ」
第一長老アレクサンダーが応じる。
「魔獣と帝国、双方に対抗する術を見つけねばならん」
「精霊に頼るのはどうだ」
ヨアールが提案する。
「獣の本質を理解できれば、弱点が見えるかもしれん」
「警戒も怠るな」
インゲルドが続けた。
「軍団は魔獣に壊滅させられたが、帝国は必ず戻ってくる」
「同盟を探す手もある」
ゴランが言った。
「どこかの王国に身を寄せられれば、時間は稼げる」
「団結こそが我らの力だ」
リンが静かに断言する。
「それを失えば、神々ですら救えぬ」
インヴァルドはゆっくりと頷いた。
その瞳には、深い悲しみの影が宿っていた。
「数年前――」
彼は語り始める。
「長女がカルパティアの貴族に捕らえられた。永遠に失ったと思っていたが……最近、連絡が取れた。いまは王国内で重要な地位にいるらしい。
手紙を送った。助けると、約束してくれた」
長老たちは無言で視線を交わす。
危険だが、それでも唯一の希望だった。
「血に忠実であれば……」
アレクサンダーが呟く。
「我らを救えるかもしれん」
「あるいは、破滅を招く」
ゴランが警告する。
「まだ自分が何者か、覚えているかどうか……」
族長の妻、リンが声を上げた。
「交渉団は私が率いる。罠なら、その代償は私が払う」
インヴァルドは頷いた。
「信じている。君を……そして、娘を。裏切るはずがない」
焚き火が弱まり、会合は終わった。
外では細かな雨が、皮の天幕を打っていた。
自らの小屋に戻ったインヴァルドを、末娘のブリギルが不安げに待っていた。
「決まったの?」
彼女が尋ねる。
「ああ。カルパティアへ使節を送り、盟約を交渉する」
ブリギルの瞳が輝いた。
「お父さん、私も行かせて。姉さん……シルヴィに会いたい」
リンは即座に身を強張らせた。
「だめよ。危険すぎる。あなたがオメガの女性だと知られれば、標的になる」
「自分の身くらい守れる!」
ブリギルは抑えた怒りに震える声で言い返す。
「皆が命を賭けているのに、私だけ隠れてなんていられない!」
インヴァルドは近づき、娘の肩に手を置いた。
「ブリギル……神々は、お前をいつか民を導く者として遣わした。今、危険を冒すわけにはいかない。
兄のヒッポが次代を継ぐが……お前は、未来そのものだ」
「私は指導者になりたいわけじゃない……」
彼女は小さく呟く。
「ただ、姉さんに会いたいだけ」
「その話は、また後で」
リンは疲れた溜息とともに言った。
「今は、部族を救うことが先よ」
その夜、長老たちが遠征の準備を進める中、ブリギルは眠れず、山々を見つめていた。
A・オメガの咆哮が遠くに響き、森はそれに応えるように、どこか人の声にも似た深い反響を返す。
彼女は指の間に、小さな白い羽根を握りしめた。
姉シルヴィの形見だ。
――必ず、また会う。
たとえ、そのために地獄を越えることになろうとも。




