庭園と懇願
カーター邸の庭園は、静寂に満ちて息をしているようだった。
蔦に覆われたアーチの間を歩くと、ライラックの香りはより濃密に感じられ、まるで花々自身が、これから起こることに息を止めているかのようだった。
エミリーは、ルシアン・ダグラスと共に歩を進める。
足取りは慎重で、表情は平静を装っていたが、内心ではほとんど砕けそうな緊張が支配していた。
ルシアンは白い大理石の噴水の前で立ち止まった。
水面には、鉛色の空が曇った鏡のように映っている。
すぐには彼女を見ず、周囲を慎重に見回し、計算し、あるいは接近する危険を警戒しているかのようだった。
「カーター嬢」
ようやく口を開いたその声は、落ち着いていたが、同時に哀しみを帯びていた。
それは、同情を求めるものではなかった。
「私は、この婚約を続けたくありません」
言葉は乾いた衝撃のように落ちた。
エミリーは世界が足元から傾くのを感じ、背筋を刺す冷たさに息を呑んだ。
「え、ええ……?」
思わず声が震える。信じられない、という感情がその小さな声に滲んだ。
ルシアンは水面の反射を見つめたまま話す。
まるで、真実を直接彼女に告げるよりも、鏡に語る方が安全だとでも言うかのように。
「個人的な感情ではありません」
声の端には緊張が絡む。
「ただ……お互い、別々の道を行く方が良いと思うのです。
強制された結びつきも、便宜上の婚約も、私は望んでいません」
一瞬、世界が止まったように感じた。
エミリーはドレスのレースに指を添え、息を止めた。
平静を保たねばならない。恐怖を見せてはいけない。
「承知いたしました、ダグラス様」
言葉は礼儀正しく、しかし一言一言が無言の叱責のように重かった。
「それでも……突然のご決断は、誤解を生む可能性があります。
名家は常に、注視されています」
ルシアンは瞬きした。
その社会的圧力を、完全には考慮していなかったのだ。
「誤解、ですか?」
エミリーは視線を伏せ、唇の震えを隠す。
しかし、決して服従は示さない。
「はい、御身。これほどの決断は、双方の家族……特に私の家族の評判に影響を与えかねません。
どうか……少しだけ時間をお与えください」
ようやく彼は顔を上げる。
驚きだけではなく、警戒が混じっていた。
彼女が自分の未来に何を意味するか、理解しているからこそだ。
それでも、彼女の意思の強さに、ほんの一瞬だけ警戒を解く。
エミリーは一歩踏み出す。
暗く輝く瞳に映るのは、運命に抗おうとする女性の意思そのもの。
「お見せいたします、御身に不快を与えることは決してありません」
柔らかく、しかし決然と告げる。
「どうか……私に示させてください。御身の傍にふさわしい者であることを。
私は、御身の望む妻になれることを」
その懇願は言葉にはない。
瞳に、息遣いに、恐怖に抗う誇りに宿る。
ルシアンは瞬きをする。
少女が懇願しているのではない。
自身の深淵と対峙する女性だ。
そして、将来彼を殺すかもしれぬ相手の存在を前に、警戒と興味が入り混じる。
「カーター嬢……」
声の調子を和らげる。
「御身に、証明する必要はありません」
「それでも……」
彼女は言葉を遮り、震えつつも決然と微笑む。
「お許しください。
もし、御身の決断が変わらなければ、その時は従います。
ですが、それまで……私に示す機会をください」
ライラックの香りが風に揺れ、金髪と裾を軽く揺らす。
その瞬間、ルシアンの視界にはもはや伯爵家の娘ではなく、
運命に立ち向かう女性が映っていた。
警戒を緩めてはならぬ、と本能が告げる。
ついに、彼はゆっくりとうなずいた。
「わかった、カーター嬢。今は決めない」
エミリーは完璧な礼で頭を下げ、呼吸の震えを隠す。
「ご理解いただき、ありがとうございます。
決して御身を失望させません」
二人は無言で広間へと戻る。
花々が道すがら揺れ、空は柔らかい光を差し込む。
まるで世界が息を潜めて見守るかのように。
屋敷の扉をくぐり、足音が消えた瞬間、エミリーは小さく呟く。
「少しの時間……それだけで十分」
ダグラス家の馬車の車輪の音は霧の中に消え、静寂だけが残った。
エミリーは呼吸を整え、部屋へ駆け上がる。
扉を閉めると、訪問の重みが全身にのしかかる。
床に崩れ落ち、顔を両手で覆う。
涙が止めどなく流れ、凍りつくような恐怖と混ざり合う。
頭に浮かぶのは一つ――ダグラス家は決して許さない、
そしてルシアンも、その一員であるという現実。
やがて母、エマ・ピアースが駆け寄る。
「エミリー……落ち着いて、お願い」
ひざまずき、そっと抱き寄せる。
エミリーは答えず、ただ母にすがり、震えをこらえながら泣く。
下の広間では、伯爵ダニエル・カーター、長男マヌエル、友人アレハンドロ・ジョーンズが沈黙を守る。
顔には深刻な影が落ちる。
ダグラス家の冷酷さを、誰よりも知る三人だった。
二か月前、ダグラス公国はルシアン・ダグラスとの婚約を正式に通達していた。
それ以来、屋敷は不安の雲に覆われていた。
ダグラス家への拒絶は死を意味する。
誰もが理解していた。特にアレハンドロ。
十九歳、彼の家族は十八年前、ダミアン・ダグラスの命令で皆殺しにされた。
幼い彼だけが騎士ウィリアム・ライオンに救われ、カーター家の保護のもと成長した。
青い翼の蛇の旗を思い出すだけで、怒りが体を燃やす。
「いつか、父の無念を晴らす」
その誓いが彼を支え、エミリーの危機が決意をさらに燃やす。
静寂が限界に達した時、マヌエルが声を上げた。
「父上……お願いです、王に助けを求めて、この婚約を破棄してもらいましょう」
伯爵ダニエルは疲れた表情で杯を握り、答える。
「息子よ……それをしても、弱い家族だと証明するだけだ。
弱い家族は……生き残れない」
「しかし、ダグラス家ですよ!」
マヌエルの声は怒りで震える。
「好き勝手に振る舞い、貴族や村人を虐殺しても誰も止めない!
なぜ従わねばならない? 我らは王国十三家の一角。権利がある!」
伯爵はため息をつき、指先で杯を握る。
「分かっている。しかし、王国は内乱を許せない。
もし他の家が立ち上がり、奇跡的に勝ったとしても……代償は混沌だ。
王も知っている。ダグラス家は悪ではあるが、王国を守る必要がある」
「ではエミリーは?」
マヌエルは絶望の色を帯びて尋ねる。
「その悪魔に差し出すのですか?」
ダニエルは目を閉じ、落ち着こうとする。
「マヌエル……我らは貴族だ。義務がある。
エミリーは家族と王国のために、やるべきことをする」
「でも……不公平です」
マヌエルはつぶやく。
足音が彼らを遮る。
エミリーと母が階段を降りてきた。
目は腫れているが、佇まいは崇高だった。
広間に入ると、エミリーは兄に抱きつく。
「大丈夫、マヌエル」
声はわずかに震える。
伯爵は悲しみを浮かべて見つめる。
「何と言われた?」
エミリーは視線を落とす。
「ルシアン……婚約を解消したいと」
部屋に氷のような沈黙が訪れる。
だが安心ではない。恐怖だ。
エマは胸に手を当て、マヌエルは青ざめ、アレハンドロは歯を食いしばる。
皆、意味を理解していた。
ダグラスは婚約を破棄しない。
ダグラスは問題を消すのだ。
カーター家の者にとって、その言葉は自由ではなく、死の宣告だった。
ダニエルは一瞬息を詰める。
そしてゆっくりと、娘の手を握る。
その指は冷たく、大理石のようだった。
「エミリー……」
めったに見せぬ震えで囁く。
「全力で彼の心を掴みなさい。
この婚約を破らせてはいけない。
お願い……家族のために」
エミリーはゆっくりうなずく。
喉の詰まりを飲み込む。
「わかりました、父上。
御身にふさわしい妻であることを、証明します」
ダニエルは力強く抱きしめ、絶望を隠す。
「許してくれ、娘よ。守れずに」
エミリーは優しく微笑む。
だが瞳は虚ろだ。
「許すことなどありません。
これも……私の務めです」
片隅で、アレハンドロは拳を握りしめ、黙って見守る。
一言一言が、無力を突きつける。
他の者が静かに涙を流す中、彼の胸に燃えるのは一つ――
いずれ、ダグラスは報いを受ける。




