その剣は、父の怒りだった
ローレンスは、まず一歩を踏み出した。
次に、もう一歩。
そして三歩目――その瞬間、剣が天へと掲げられる。
振り下ろされた一撃は、嵐のような威力を帯びていた。
だが――本来あるはずの手応えは、訪れなかった。
トマスは流れるような動きで剣先を逸らし、
刃と刃がぶつかり合った衝撃が、大広間全体に轟音となって響き渡る。
ローレンスは眉をひそめた。
トマスから放たれる気配は異常だった。
不浄で、歪み、まるで“生きている”かのようなオーラ。
「……魂を売ったか」
吐き捨てるように、ローレンスは呟く。
トマスは口元を歪め、嗤った。
「誰もが生まれながらに力を持つわけじゃない、ローレンス。
中には、自分の手で――奪い取らなきゃならない者もいるんだ」
彼が腕を上げると、空気が凍りついた。
周囲に氷の杭が次々と形成され、
指先の一振りと共に、鋭利な嵐となって公爵へと放たれる。
だがローレンスは、一歩も退かなかった。
剣が正確無比に空を切り裂き、
氷の槍を一本、また一本と叩き砕く。
砕け散った氷片は、悪魔の赤い光を受けて、
砕けた水晶のようにきらめきながら床に散った。
大仰な詠唱など、必要ない。
マナは呼吸のように自然に身体を巡り、
意志の延長として、剣へと流れ込んでいる。
その一挙手一投足は、無駄がなく、鋭く、致命的だった。
決闘は始まったばかりだというのに、
空気はすでに震えていた。
それは、生死を超えてなお重いもの――
運命、血統、そして長く抑え込まれてきた復讐の重さだった。
広間では、ローレンスに随行してきた騎士たちと悪魔が激しく交戦を続けていたが、
次第に形勢は公爵側に不利へと傾きつつあった。
トマスは距離を保ち、的確な魔法で攻め立てる。
その眼に宿る狂気じみた怒りは、
もはや感情ではなく、破壊のための機構と化していた。
そのとき――
新たな、圧倒的な存在が闇を裂いて現れた。
巨躯の悪魔。
その姿を現しただけで、松明の火は揺らぎ、
空気のざわめきすら折れ曲がる。
誰一人として、進路を遮ろうとする者はいない。
黒きマナを纏った手が振り下ろされ、
一人の騎士が断末魔を上げる暇もなく、
炎の爆発と共に蒸発した。
灰は不気味な雨のように舞い落ち、
その場にいた者たちの心を、恐怖が支配する。
怪物は、ガルグラネルトの前に立った。
二つの視線が交錯する。
まるで剣と剣がぶつかり合うかのように。
大広間全体が息を呑み、
まるで混沌そのものが、この“意志の衝突”を見届けようとしているかのようだった。
周囲の戦闘は、ひとつ、またひとつと鎮まり、
新たに現れた存在が、怒りと血のすべてを吸い取っていくかのようだった。
戦っていた位置から、ローレンスは歯を食いしばった。
――状況が、完全に制御を逸脱している。
トマスが放っているのは、もはや魔法だけではない。
デニスが連れてきた“力”が、実体を伴って牙を剥いていた。
戦いは、破滅的な段階へ踏み込もうとしている。
「いい加減にしろ、愚か者! さっさと片をつけるぞ!」
怒りで歪んだ、悪魔の怒号が響く。
「この状況が見えないのか!?
三つの大軍が、すでに俺たちの退路を塞いでいる……!
それなのに、お前はまだそんな馬鹿面をしているのか!」
「落ち着け」
ガルグラネルトは、虫でも払うかのように吐き捨てる。
「こんな人間どもが、俺たちに何かできると――」
言葉は、最後まで続かなかった。
轟音。
悪魔の巨躯が放った一撃が、ガルグラネルトを叩き飛ばしたのだ。
衝撃は壁を震わせ、調度品を跳ね上げ、
空気にはオゾンと死の匂いが満ちる。
新たに現れた悪魔公爵――イルゴルドは、
虚栄に溺れぬ者の、冷え切った怒りを露わにした。
「ここは下界じゃない、愚図が!」
咆哮が大広間を裂く。
「魔獣に跨った狂女が一人いるだけで、
俺たちは地獄に叩き落とされかねないんだ!
アスタロトの件で失敗すれば、待っているのは処刑だ!」
鋭い視線が突き刺さる。
「――自分が無敵だと、思い上がるな」
ガルグラネルトはゆっくりと身を起こした。
頬にははっきりと打撃の痕が残り、
その双眸には血のように赤い光が燃え上がっている。
「クソが……!」
咆哮が広間を震わせた。
「俺たちは魔族の公爵だぞ!
この程度の場所で、敵うものなどいるはずがない!」
だが、イルゴルドは一瞥すらくれず、吐き捨てるように言った。
「好きにしろ、愚か者。
俺は他の者たちと共に撤退し、与えられた使命を果たす」
その言葉を聞いた瞬間、
トマス・デニスの顔から血の気が引いた。
誇りと引き換えに得たはずの“守護の約束”が、
自分の名を賭けたこの広間で、音を立てて崩れ落ちていく。
「ま、待ってくれ……!」
トマスはテーブルの縁に縋りつき、
掠れた声で叫んだ。
「約束しただろう!
この領地を守ると……!」
「それは俺の知ったことじゃない」
イルゴルドは冷然と言い放つ。
その瞳には、上位の命令にのみ従う者の覚悟が宿っていた。
「俺の問題は一つだけだ。
――アスタロト、その名に尽きる」
それ以上、言葉はなかった。
次の瞬間、イルゴルドは窓から身を投げ、
風と闇の渦の中へと消えていく。
影が閉じ、彼の存在は夜空に溶けた。
広間には一瞬、
驚愕と怒りが宙吊りになったような沈黙が落ちる。
ガルグラネルトは、皮膚の下を這う怒りを抑えきれず、
トマス、そしてわずかに残った配下たちへと視線を巡らせた。
「安心しろ、人間」
毒を含んだような声で囁く。
「俺は臆病者じゃない。
この下等どもを皆殺しにして、
すべてが燃え尽きた後で立ち去ってやる」
その沈黙は、凍りつくほど重かった。
公爵の撤退、裏切りを含んだ宣言、
そして“人間の忠誠など取るに足らぬ”という現実。
そのすべてを目の当たりにし、
ローレンスは理解した。
――これはもはや、騎士や伯爵の争いではない。
古く、獰猛な意思が支配する盤上の戦争だ。
そしてその一手一手には、必ず血が支払われる。
次の瞬間、
ガルグラネルトがローレンスへ突進した。
凄まじい一撃。
悪魔のマナが爆発し、大広間が引き裂かれる。
ローレンスの身体は宙を舞い、
壁を突き破って数メートル先へ叩き落とされた。
瓦礫と粉塵が舞い、空気には金属と砕けた魔力の臭いが満ちる。
悪魔は倒れた公爵へ歩み寄り、
とどめを刺そうと腕を振り上げた。
――その瞬間。
右腕に、鋭い激痛が走る。
愕然として見下ろすと、
そこにあるはずの腕は、すでになかった。
雷光が奔った。
ソフィアが、
雷翼の魔獣サンダーと共に広間へ突入してきたのだ。
逃走する怪物の軌跡を追い、
純粋な雷そのものと化して。
「こっちよ!」
ソフィアが叫び、
雷を纏った槍を構える。
「逃がすな! 一体もよ!」
彼女の背後で、
十騎の騎獣兵が一拍で整列する。
嘶く魔獣、煌めく鎧、構えられた槍。
一つの鼓動のように、彼らは突撃した。
床が震え、空気が裂ける。
ソフィアの槍が、雷の怒りを宿して突き刺さる。
さらに彼女は古代の護符を引き抜き、
指先でルーンを描き、
言葉を叩きつけるように詠んだ。
「――純光、来たれ」
護符が爆ぜ、
闇を切り裂く白光が広間を貫く。
光はガルグラネルトを直撃し、
悪魔は苦悶の咆哮を上げた。
梁と柱が震え、その声が空間を歪ませる。
反撃しようとした、その瞬間――
虚空から現れた影が、背後から胸を貫いた。
鋭い爪。
巨大な力。
悪魔の身体は床に叩きつけられ、
鈍い破砕音と共に、完全に砕け散った。
「ラリエット、また出遅れたわね!」
ソフィアが叱ると、
雷獣は気まずそうに唸り声を上げた。
ローレンスは立ち上がり、
土埃と怒りを振り払う。
「助太刀感謝する」
短く、だが健在な声。
「……必要なかったがな」
ソフィアは鋭い視線で彼を見据え、
刃のように冷たい声で返す。
「もしカレブに会いに行きたいだけなら、
言って。私が楽にしてあげるわ」
ローレンスは眉をひそめ、腕を組む。
その笑みは、研がれた刃のようだった。
「ここは俺が片付ける。
お前は陣地へ戻れ」
ソフィアは踵を返すが、
その直後、新たな悪魔の群れが彼女に襲いかかる。
だが――
完璧な動き。
魔獣たちが引き裂き、焼き、感電させる。
火花と咆哮が広間を照らし、
彼女の通った後には、破壊だけが残った。
彼女に敵対することは、
炎と戯れるに等しい。
ローレンスは、トマスへと歩み寄る。
追い詰められた魔導士は、
狂ったように魔法を連射する。
だがローレンスは、
それらを正確に弾き、逸らし、切り捨てていく。
距離が詰まる。
次の瞬間――
剣が唸りを上げ、完璧な軌道を描いた。
トマスは反撃しようとしたが、
技量の差はあまりにも絶望的だった。
一閃。
左脚が斬り飛ばされる。
悲鳴が上がる前に、
二撃目がもう一方の脚を断つ。
トマスは床に崩れ落ち、
震える手で剣を掴もうとしながら、
心の中で呟いていた。
――こんなはずじゃ……。
ローレンスは一瞬、剣を止めた。
そこにあったのは怒りではない。
もっと冷たいもの――
“理解させる”という確信。
迷いはなかった。
一太刀で右腕を断ち、
続けて左腕を切り落とす。
沈黙。
響くのは、
瀕死の男の荒い息だけ。
ローレンスは動かず、
砕けた大理石の上で血を流し続ける敵を見下ろしていた。
その呻き一つ一つが、
彼自身の下した冷たい裁きの反響だった。
息子は戻らない。
それでも――
この瞬間だけは、奇妙な安らぎがあった。
それは、静かな弔い。
そして、相応しい罰。
怒りと悲しみを宿した瞳で、
ローレンスは立ち尽くす。
不正を決して許さぬ、
一人の父として。




