帰還なき伯爵(エル・コンデ・シン・レトルノ)
都市の内部では、トマス・デニッセ伯爵が落ち着きを失い、
将校たちの間を慌ただしく行き来しながら防衛の再編成を行っていた。
その動きには、普段の冷静さを裏切る焦りがはっきりと滲んでいる。
ヴァイレンシティの城壁が、
もはや長くは持たないことは明白だった。
ダグラス公爵軍の魔術師たちは数でも実力でも上回っており、
都市の魔法障壁を補強しようとするたび、
その試みは容易く打ち砕かれていく。
さらに、アーメット家の援軍の到着が、
防衛側をほぼ完全な包囲網へと追い込んでいた。
絶望は、徐々にすべての判断を染め始めていた。
数でも魔力でも圧倒的な敵を前に、
抜本的な手を打たなければ都市は確実に陥落する――
トマスはそれを痛いほど理解していた。
彼の視線は、人影の消えた街路や静まり返った屋根の上を彷徨う。
その一つひとつの影が、敗北の近さを突きつけてくるかのようだった。
今残された希望は、侵攻者を弱体化させる広域魔法と、
召喚された悪魔たちが戦場へ戻ってくる可能性のみ。
だが、その魔物たちは都市の外で力を蓄えており、
トマスは直感的に理解していた――
自分が、それを見届けることはないだろう、と。
彼は自身の運命と、行き過ぎた野心を呪った。
わずか三代の歴史しか持たない若い伯爵家では、
王国建国以来続く公爵家の威光には到底及ばない。
その劣等感が、
彼を危険な同盟へと駆り立てた。
帝国と、そして――悪魔と。
ダグラスに並ぶ力を得たい。
その一心で踏み込んだ道の代償が、
今、彼の前に突きつけられていた。
もし現状を維持していれば、
都市はここまで追い詰められなかっただろう。
だが、もはや後悔するには遅すぎた。
震える手で地図と作戦書を見つめる。
一つの判断ミスが、
数百の命と、都市そのものを失わせかねない。
それでも、彼の思考は逃げ道を探し続けていた。
しかし、ローレンスとの交渉は不可能に近い。
若き公爵が息子カレブを深く愛していること、
そしてすでに戦場で示した覚悟を、
トマスは誰よりも理解していた。
その時、
埃にまみれた兵士が部屋へ駆け込んできた。
「は、伯爵様……!
城壁が……崩れました。
ダグラス軍が都市へ侵入を開始しています。
撤退し、再編成するのが――」
トマス・デニッセは兵士を睨みつけた。
その瞳には、怒りと絶望が渦巻いている。
拳が机を叩き、
羊皮紙が激しく揺れた。
「撤退だと?
どこへ行けと言うのだ?」
彼の声が、執務室に反響する。
「王の前に跪けと?
あの忌々しい男は、
私を殺し、首をローレンスに差し出すだろう……」
彼は息を荒げ、唇を強く噛み締めた。
「……いや。
最後まで戦う」
「全員、出撃しろ!
侵入者を迎撃し、
デニッセ家の城へ近づけるな!」
兵士たちは一斉に下がり、
室内には張り詰めた沈黙が残された。
怒りで蒼白になった顔のまま、
トマスは隣の部屋へと足を踏み入れる。
そこには、
影そのものが脈打つような空間で、
一つの存在が椅子に腰掛けて待っていた。
ガルグラネルトの笑みは、
見る者の血を凍らせるほど歪んでいた。
まるで、トマスの恐怖をすべて見透かし、
それを楽しんでいるかのように。
「ひどい顔だな、人間」
低く、落ち着いた声が響く。
「何度も言っただろう。
そう心配するな。
あの虫けらどもは必ず潰れる。
貴様に指一本触れることすらできん」
トマスは一瞬、目を閉じ、
手の震えを抑えようとした。
「……お言葉、心強く存じます。
我が主」
必死に声を整える。
「悪魔公爵が傍におられるなら、
何も恐れることは……ありません。
ただ、この都市が、
あまり苦しまぬことを願うばかりです」
ガルグラネルトは身を預け、
指を組んだ。
まるで世界すべてが、
自らの盤上にあるかのように。
「我が兄弟たちも、間もなく到着する。
安心しろ、人間。
すべては――
我らにとって、都合よく終わる」
重苦しい沈黙が部屋を支配した。
それを破るのは、
すでにヴァイレンシティの街路へと広がり始めた、
戦いの轟音だけだった。




