「弱き者が倒れる場所」
同時刻――
ヴァイレンシティの王都では、トマス・デニッセ伯爵が将校たちの間を歩き回り、軍の準備を指揮していた。
静まり返った街は不気味なほど空虚で、
その沈黙の裏には、警告のような異変が満ちていた。
街路のあちこちから悪魔のマナが噴き出し、
召喚された魔物たちが、教団の司祭の支配下で悶え蠢いている。
一方、陣営の中心では、
ソフィアが黒き軍馬に跨り、騎兵と魔獣たちに囲まれていた。
獣たちは命令を待つかのように鼻を鳴らし、地を蹴る。
彼女の声が、ざわめきを切り裂く。
「都市周辺を徹底的に偵察しなさい。
奇襲は許されない。罠、伏兵、悪魔――
異変があれば、すべて報告を」
騎兵たちは即座に散開し、
森や丘へと影のように消えていった。
ローレンスは、
作戦机の上に広げられた地図を確認しているケイタロウへと向き直る。
「街の状況は?」
だが答えたのは、戻ってきたソフィアだった。
「周辺の村はすべて無人。
住民は全員、領都へ避難したようです。
……これは長期の包囲戦になります」
ローレンスは小さく息を吐いた。
「予想通りだな。
城壁は高くないが、一手のミスが命取りになる」
その時、伝令が駆け込んできて、
王フェリペの印章が押された書簡を差し出した。
ローレンスがそれを開く間、
ソフィアは腕を組み、苛立ちを隠さずに吐き捨てる。
「また悪魔教団……。
計画を邪魔して、私に息子の誕生日を逃させるつもりなら、
その時は――楽には死なせない」
偵察隊が戻り、
さらに不吉な報告がもたらされた。
――焼かれた死体。
――悪魔召喚に使われたと思しき痕跡。
黒馬に跨ったまま、
ソフィアはデニッセ領の埃立つ地平線を睨みつけていた。
魔獣の不安げな嘶きと、乾いた風が混じり合い、
張り詰めた沈黙を作り出す。
陣営へ戻ると、彼女は馬を降り、
マントを翻しながらローレンスの天幕へ入った。
「広範囲を確認しました。
敵軍の待ち伏せはなし。村も完全に無人。
……住民は全員、都へ集められています」
ローレンスは眉を寄せ、拳で机を軽く叩く。
「やはりな。
都の“安全”に縋っているわけだ」
ソフィアは腕を組み、唇を引き結んだ。
「なら、包囲戦は避けられない。
数日……場合によっては数週間。
でも――私は息子の誕生日を逃す気はない。
迅速に終わらせる方法を考えなさい」
その声には、はっきりとした殺気が込められていた。
ローレンスは顔を撫でるように手を滑らせ、
集まった将校たちを見渡す。
「我々には、城壁を破壊できるだけの魔導士がいる。
都市は小規模だが……
内部を甘く見るな」
彼は高官と上級魔導士を呼び集め、
作戦会議を開始した。
地図の上に引かれた線一本一本が、
命の重みを帯びている。
「最優先事項は――
魔法防衛と悪魔召喚の無力化だ」
ローレンスは杖で地図を指し示す。
「偵察では、悪魔マナの痕跡と焼死体が確認された。
召喚儀式が進行している可能性が高い」
ざわめきが走る。
将校たちは不安を隠せず、視線を交わした。
背筋を伸ばし、ソフィアが言い放つ。
「部隊を分ける。
魔獣騎兵は包囲と脱出阻止、
同時に城壁の弱点を突く」
一人の将軍が、震える指で地図を指した。
「魔導士は区画ごとに集中攻撃を。
一地点につき五人編成。
干渉と事故のリスクを下げます」
ローレンスは頷いたが、
その視線は鋭く全員を射抜く。
「撤退路と安全地点も必須だ。
強力な悪魔が出れば、
市内で孤立する危険がある」
年配の将校が低い声で続ける。
「主攻撃の前に、都市周囲へ魔法罠と結界を張りましょう。
悪魔の行動範囲を制限できます」
ソフィアは机に拳を置いた。
肩の緊張が、その覚悟を物語っている。
「よし。
部隊分割、進路と撤退路の確保、
魔導攻撃の準備。
一つのミスも許されない。
――この都市は、決して楽な相手じゃない」
ローレンスは静かに息を吐き、
重く、しかし揺るがぬ声で締めくくった。
「準備こそがすべてだ。
連携、規律、速度。
それが――
生き残る者と、死ぬ者を分ける」
沈黙が天幕を支配した。
それは、ほとんど耐えがたいほどの静けさだった。
空気はまるで帯電しているかのように重く、
未知への恐怖が、その場にいる全員の間を漂っているようだった。
将校たちは静かに頷いた。
この戦いが、人間同士の争いだけではないことを、誰もが理解していた。
相手は儀式であり、闇の魔法であり、
そして――都市の影に潜む、予測不能な何かだった。
その瞬間、
天幕の布が激しく揺れ、一人の兵士が息を切らして飛び込んできた。
顔は汗で濡れ、必死さがありありと伝わってくる。
「ご報告します、閣下!
王よりの使者が到着しました!」
ケイタロウが素早く前に出て、
深く一礼しながら、赤い蝋で封じられた書簡を差し出した。
巻物を握る指は、わずかに震えている。
この場に漂う緊張が、否応なく彼を包んでいた。
ローレンスは封を切り、
王フェリペの言葉を声に出して読み上げた。
そこには、諜報部が掴んだ最新情報が記されていた。
敵軍の動き、悪魔召喚の可能性、
そして都市内部で進められている密かな準備――。
ローレンスは眉をひそめ、
重々しくその書簡をソフィアへと渡す。
「……どうやら、想定以上に厄介な戦いになりそうだ」
ソフィアは机の縁を強く掴んだ。
腕の筋肉が張りつめ、
その瞳には苛立ちと、抑え込んだ怒りが燃えている。
「また、あの忌々しい悪魔教団……!」
低く唸るように吐き捨てた。
「もしあの狂信者どもが、
私に息子の誕生日を逃させるようなことがあれば――
その時は、絶対に楽には殺さない」
ローレンスは両手を上げ、宥めるように言った。
声は落ち着いているが、芯は強い。
「大丈夫だ。
アルメット伯の援軍が来る。
彼らが前衛として動き、我々の負担を軽減してくれる」
ソフィアは唇を噛みしめ、
顎に溜まった緊張を抑え込むようにしてから、ゆっくりと頷いた。
「……なら、残り六日。
援軍が到着するまで、ここで待機ね」
その時、
ケイタロウが小さく咳払いをし、不安を宿した目で公爵夫人を見た。
「ですが……公爵夫人。
今すぐ攻撃した方がいいかもしれません。
デニッセ家は悪魔を召喚しています。
時間を与えれば与えるほど、
奴らは、さらに強くなってしまいます」
――一方、その頃。
ヴァイレンシティでは、
トマス・デニッセ伯爵が、
自らに向けられた“悪魔教団との関係”という噂を抑えるため、
配下たちに指示を飛ばしていた。
そこへ、一人の側近が報告する。
「閣下。
女神シーラの修道士たちが調査を行いましたが、
疫病は存在しないとのことです。
それどころか――
都市内部で悪魔のマナを検知したそうです」
トマスは驚きと焦りを隠せない様子で言い返した。
「そんなはずはない……!
すぐに街中を捜索し、悪魔の存在を確認しろ。
同時に、あの忌々しいダグラス家との戦争準備も怠るな。
……奴らが攻めてくるまで、そう時間は残されていない」
側近が返事をする前に、
今度は兵士が血相を変えて部屋に飛び込んできた。
「閣下!
ダグラス家が到着しました!
すでに都市を包囲しています!」
その瞬間、
トマスの理性は完全に吹き飛んだ。
「なにぃぃっ!?
そんな馬鹿な!
あの家は王国の伝統を守らぬのか!?
……恥も知らぬ、名誉なき一族め!!」
怒号が、
静まり返った部屋に響き渡った。




