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五十万の魂

デニッセ家の領地。

夜の帳が、主要都市を静かに覆っていった。


城壁の上から、トマス伯爵は地平線を見つめていた。

その瞳は冷たく、胸の奥では、彼を蝕む計画と同じ鼓動が鳴り続けている。


絶望と野心。

それらが彼を、誰も耐えられぬ契約へと導いた。


彼の前に差し出される無垢な命――

それはすべて、捧げ物だった。


一つの犠牲が、魔力を高め、

一つの命が、彼の力を肥大させる。


城壁の下では、領民たちが疑いもなく集まってきていた。

「安全を保証する」

そう約束された言葉を、誰一人として疑わなかったのだ。


用意されていたのは“避難所”。

松明に照らされた巨大な建物。


だが、その内側は――

死の檻だった。


即席の祭壇。

床一面に描かれた召喚陣。


そこに足を踏み入れた者が、

生きて外へ出ることはない。


やがて、

一つの建物から悲鳴が響き渡る。


鎖の音。

肉体が床へ叩きつけられる鈍い音。


影の中から、悪魔たちが姿を現した。

燃えるような瞳。

鋭利な爪。


彼らは絶望と恐怖を糧に、

夜を喰らっていく。


十五日間で、五十万の魂が消えた。

闇に溶けるように、誰にも知られぬまま。


そして――

トマスの力は、確実に膨れ上がっていった。



一方、ヴェイレンシティのカフェ。


温かな蝋燭の灯りに照らされ、

ケイタロウ、リチャード、エドワードの三人は、

低い声で言葉を交わしていた。


「……俺が見たことは、間違いない」


ケイタロウの声は冷静だったが、

その奥には、はっきりとした焦りが滲んでいる。


リチャードの顔色が、みるみる青ざめた。


「そんな……まさか……

人々を焼いているって言うのか?」


「それは表向きの話だ」


ケイタロウは首を振る。


「デニッセ家は“疫病”だと説明している。

だが違う。すべて計算されているんだ」


「一人一人の死に、意味がある。

すべてが――生贄だ」


「手遅れになる前に、真実を暴かなければならない」


エドワードは拳を握りしめ、震える声で吐き捨てた。


「……くそったれ。

悪魔と契約しやがったんだ……!」


「何千、何万もの無実の人間を……!」


そのとき――

遠くで雷が鳴り、空が一瞬、白く裂けた。


窓ガラスに映る光が、

街の裏で起きている惨劇を、無言で語る。


街は静かだった。

だが――


影の中で。

路地の奥で。


恐怖は、

飢えた獣のように育っていた。


三人は、無言で視線を交わす。


これから起こるのは、

単なる衝突ではない。


理屈を超えた闇。

世界ごと呑み込む力との戦争だ。


動かなければ――

すべてが喰われる。


時間は、残されていなかった。


*

学院の闘技場は、張りつめた沈黙に包まれていた。

まるで風さえも息を潜めているかのようだった。


観客の誰もが理解していた。

これから起こるのは、数週間待ち望まれてきた“因縁の再戦”。


――コンウィック・ブリッグス vs カスパー・ボーランス。


「ついに、また向き合うことになったな、カスパー」


コンウィックの低い声が、観客席に響き渡る。


「今度こそ――俺が勝つ」


カスパーは静かに彼を見つめた。

表情は穏やかだが、筋肉は張り詰め、妹と共に重ねた鍛錬の日々が脳裏をよぎる。


「悪いけど……君と僕の“差”を、はっきり見せることになる」


冷静で計算された視線。

唇は、ほとんど動かなかった。


次の瞬間――

コンウィックが変身を発動する。


闇の稲妻のように、金属の装甲が身体を覆い尽くした。

太陽光を反射し、目を焼くような眩い輝き。


筋肉は強化され、

呼吸の一つ一つが、太鼓のように重く響く。


「うおおおおおっ!!」


咆哮と共に、コンウィックが突進した。

拳が空気を切り裂き、凄まじい衝撃波が闘技場を揺らす。

砂が舞い、マントが大きくはためいた。


だが――

カスパーは、水のように動いた。


見えない流れの中を泳ぐような足取り。

軽く、しなやかで、無駄がない。


剣が描く軌跡は淡い蒼光となり、

古代の舞踏のような規則性で、コンウィックの攻撃を受け流していく。


金属同士がぶつかるたび、乾いた雷鳴が轟き、

巻き上がる砂塵が渦を巻く。


砕けた結晶のような光が、

コンウィックの装甲に映り込んだ。


「何度殴られようと関係ない!!」


息を荒げながら、コンウィックが叫ぶ。


「俺は……全部、耐えられるんだ!!」


カスパーは答えなかった。


ただ、目を細め――

マナを集中させる。


蒼い光が全身と剣を駆け巡り、

抑え込まれた雷のように、静かに弾けた。


次の瞬間、

彼は踏み込む。


流れるような動き。

速く、正確で、迷いがない。


一撃一撃が、金属の防御を上回る。

装甲が軋み、腕と脚が震え、

火花が砂塵と混ざり合って宙を舞う。


コンウィックは必死に耐え、押し返そうとするが、

カスパーはすべてを先読みしていた。


打ち、回し、叩き落とす。


最後の一撃で、

コンウィックの身体は宙を舞い、

数メートル先の砂地へと叩きつけられた。


舞い上がった砂が太陽光を捉え、

砕けた装甲に、きらめく光を映す。


カスパーは一歩前に出る。

剣は抑え込まれた雷のように輝き、

呼吸は乱れず、風で乱れた髪だけが戦いを物語っていた。


全身の筋肉が、

“最後の一撃”のために張り詰める。


――そして。


乾いた雷鳴のような衝撃と共に、

決着はついた。


コンウィックは、完全に戦闘不能となった。


闘技場は、一瞬の完全な静寂に包まれる。


倒れ伏すコンウィック。

砂と砕けた金属にまみれた身体。


その前に、

カスパーは静かに立っていた。


歓声が爆発する。

だが、彼の胸にあったのは一つの確信だけ。


――衝動的な力は、

絶対的な制御には勝てない。



ルシアンは、この瞬間を何日も待ち続けていた。


イザベラの件で言い争って以来、

エリザベスは彼を避け続けていた。


沈黙の一秒一秒が、

胸の奥を焼く。


そして――

人目のない廊下で、彼女を見つけた瞬間。


迷いはなかった。


ルシアンはそっと彼女の腰に手を回し、

誰にも邪魔されない隅へと導く。


エリザベスは抵抗したが、

その力は象徴的なものに過ぎなかった。


ルシアンが顔を近づけ、唇を求めると、

彼女はすぐに顔を背けた。


苛立ちと戸惑いに揺れる瞳。


「……使用人に飽きて、今度は私?」


強い言葉。

だが、その奥には、かすかな脆さが滲んでいた。


「違う……」


ルシアンは息を詰まらせながら答える。


「俺が間違ってた。

話すべきだった……全部が壊れる前に」


「だから……お願いだ。

こんな形で罰しないでくれ」


エリザベスは腕を組み、必死に平静を保とうとする。


「罰しなかったら……

次は何人、あなたと関わるの?」


声が、わずかに震えた。


「……誰とも、共有したくない」


その言葉に、ルシアンの胃が締めつけられる。


彼女を傷つけるつもりなどなかった。

それでも――

現実は残酷だった。


彼は慎重に彼女を抱きしめる。

近すぎず、遠すぎず。


「……許してくれるか?」


囁くように問い、

その瞳に、かすかな希望を探した。


エリザベスは視線を落とす。


怒りと想いが交錯し、

自分自身すら混乱させる感情。


「……無理よ」


そう言いながら、

彼の胸を軽く叩く。


「本当に……恥知らずな女たらしなんだから」


だが、身体は言葉を裏切っていた。


ルシアンは抱擁を緩め、

震えるほど真剣な声で告げる。


「違う……他の誰でもない」


「エリザベスだ。

俺が守りたいのは……

俺にとって、何より大切なのは」


「……君なんだ」


彼女は、一瞬だけ彼を見つめた。


そこには、

後悔、欲望、失うことへの恐怖――

彼が言葉にできなかったすべてがあった。


ためらいながらも、

彼女は心の壁を下ろす。


そして――

そっと、唇を重ねた。


慎重で、緊張に満ちた、

それでも確かな温もりのあるキス。


唇が離れた後、

沈黙は、言葉にならない約束で満ちていた。


エリザベスは、もう否定できなかった。

彼を想う気持ちも、

触れ合うたびに溢れ出す感情も。


そしてルシアンは、

自らの過ちの重さを抱えながらも、

彼女を手放せないという確信を、

強く胸に刻んでいた。

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