カーター邸の影
ダグラス家の馬車の車輪が、湿った石畳を打つたびに――
胸の奥が、ひとつ強く跳ねた。
黒旗に描かれた二匹の狼。
その紋章の前で、いくつの家が沈んだのか。
噂だけではない。
現実だ。
エミリーは大広間の窓辺に立ち、そっと息を整えた。
カーター伯爵家は名門だ。
だが、ダグラス公爵家の前では――ただの一貴族にすぎない。
(失礼があれば、終わる)
自分がではない。
家が。
母の手が肩に触れる。
「エミリー。分かっていますね?」
「はい、母上」
短い返答。
余計な言葉は不要だった。
今日の訪問は礼儀ではない。
確認だ。
縁談という名の、選別。
扉が開く。
ダグラス公国公爵夫人、ソフィア・ザ・モンドリング。
柔らかな微笑み。
だが、その視線は鋭い。
後ろに立つのは、ルシアン。
飾り気のない装い。
しかし、その背筋には揺るがぬ自信がある。
――選ぶ側の人間。
視線が合う。
冷たいわけではない。
だが、決して油断していない目。
品定め。
値踏み。
一瞬で理解する。
これは、好かれる場ではない。
減点されないことが重要なのだ。
礼を尽くす。
声の高さ。
視線の角度。
間の取り方。
すべてが試験。
庭園へ出ることが提案されたとき、
それが「機会」ではなく「確認」であると悟った。
断れない。
灰色の空の下、二人で歩く。
ライラックの香りが漂う。
沈黙が重い。
何を話すべきか。
何を話してはいけないか。
失言ひとつで、未来が変わる。
いや――
未来ではない。
家の命運が。
隣を歩くルシアンは静かだった。
威圧はない。
だが、沈黙そのものが圧力になる。
(この方を敵にしてはならない)
それだけが、はっきりしている。
恋ではない。
夢でもない。
これは政治だ。
エミリーはゆっくりと息を吸い込む。
微笑みを崩さず、歩幅を合わせる。
完璧であること。
目立たないこと。
刺激しないこと。
それが、カーター家を守る唯一の道。
心の奥で、静かに誓う。
――失敗は、許されない。




