夕暮れの約束と嫉妬の稲妻
学院へ戻る道すがら、ルシアンはイザベラと並んで歩いていた。
その横顔には、安堵と拭いきれない不安が入り混じっている。
小さく息を吐き、彼は申し訳なさそうに口を開いた。
「……正直、あそこまで厳しいとは思っていなかった」
イザベラは控えめな微笑みを浮かべ、感謝の色を宿した瞳で答える。
「ありがとうございます、ルシアン様」
歩きながら、ルシアンは母ソフィアを説得し、
少しでもイザベラの処罰を軽くできるよう尽くすと約束した。
だがイザベラは、これ以上問題を広げたくないと、静かに首を振る。
どんな結果であれ、受け入れる覚悟はできている――
そう言葉にせずとも伝わってきた。
「大切なのは、できるだけ早く解決することだ」
そう語るルシアンの視線は、いつになく柔らかい。
その優しさに触れ、イザベラの胸の奥が小さく揺れた。
――もしかして、この人は……。
浮かびかけた想いを振り払うように、
彼女は深く頭を下げる。
「……本当に、ありがとうございます。ルシアン様」
学院に戻る頃には、空は橙と紫に染まり、
建物の影が中庭に長く伸びていた。
イザベラは胸の緊張を押し隠すように、足早に寮へ向かう。
その途中、心配そうな表情で二人の兄が駆け寄ってきた。
ベンジャミンが眉をひそめ、震える声で尋ねる。
「姉さん、大丈夫か?
あの怪物に何かされなかったか?」
イザベラは立ち止まり、深く息を吸ってから、
安心させるように穏やかに微笑んだ。
「大丈夫よ。
ルシアン様は……とても親切だったわ」
腕を組んだコーウィンが、疑わしそうに続ける。
「どうしてあの人と一緒だったんだ?
脅されてるんじゃないのか?」
一瞬だけ視線を落とし、
そしてイザベラは真っ直ぐ二人を見据えた。
「私たちの問題を解決しようとしてくれたの。
まだ完全じゃないけど……
戦争を避けられるかもしれない」
ベンジャミンが一歩前に出る。
「……そのために、
姉さんは何を支払うんだ?」
イザベラは、静かな決意を宿した微笑みで首を振った。
「あなたたちは何もしなくていい。
……私が、引き受けるから」
沈黙が三人を包む。
夕暮れの光が、学院をやさしく染めていた。
状況は依然として厳しい。
だが――解決への道は、確かに存在している。
その代償を、イザベラが背負うことになったとしても。
ほとんど人影のない廊下を、
ルシアンはポケットに手を入れ、思考に沈みながら歩いていた。
その瞬間――
バチッ、と空気が弾ける音。
電撃が背後をかすめる。
即座に身体をひねると、
次の光弾が壁に叩きつけられ、青白い火花が散った。
薄暗い廊下に立っていたのは――
エリザベスだった。
怒りに燃える瞳。
きつく結ばれた唇。
彼女は何も言わず、指先で「来い」と合図する。
ルシアンは小さく溜息をついた。
逆らっても無駄だと、直感で理解していた。
人のいない空き部屋へと連れて行かれ、
中に入った瞬間――
エリザベスは彼を壁に突き飛ばした。
鈍い音が響く。
吐息が触れるほどの距離で、彼女が囁く。
「……随分と、女の子に囲まれるのが好きなのね。
私の可愛い人」
ルシアンは両手を上げ、なだめるように言う。
「違う、エリ。
少し落ち着いてくれ」
エリザベスの表情は、怒りと疑念の間で揺れ動く。
「私が勘違いしてるだけかしら?
婚約者がいて、カラに追い回されて、
今度はイザベラと“デート”?」
「説明しなさい。
じゃないと……覚悟しなさいよ」
「……エミリーとの婚約は、俺の望んだものじゃない。
カラは戦うことしか考えてない。
イザベラは……争いを止めるためだ」
「両親に会わせて、事情を説明しただけだ」
数秒の沈黙。
次の瞬間――
エリザベスは身を寄せ、彼の耳に軽く歯を立てた。
罰のようで、
同時に挑発するかのような仕草。
離れようとしたその腕を、
ルシアンが掴み、引き寄せる。
唇が重なった。
溜め込まれていた感情が、一気に弾ける。
エリザベスは彼の胸を叩きながら、息を乱す。
「……何してるのよ!
今、そんな気分じゃないの!」
それでもルシアンは離れなかった。
今度は、優しく。
包み込むように口づける。
「……君だけだ」
低く、真剣な声。
「ずっと前から、強く想ってる。
そんなふうに嫉妬する君を見ると……
もっと、大切にしたくなる」
言葉の余韻が、静かに部屋に残る。
エリザベスは彼を見つめたまま、
荒い呼吸を整えようとしていた。
誇りと感情が、複雑に交錯する瞳で――。
アデルが体勢を立て直すより早く、ルシアンは剣に闇のマナを流し込んだ。
刃から放たれたのは、実体を持たないエーテルの閃光――それは敵の左側へと一直線に走る。同時に、ルシアン自身は右へと踏み込み、二方向からの挟撃を仕掛けた。
アデルは辛うじて物理的な斬撃を防いだが、マナの衝撃までは防ぎきれなかった。
呻き声が漏れ、身体が大きくよろめく。
ルシアンは一切の躊躇を見せない。
剣を返し、流れるような一動作で――その刃を、アデルの喉元に突きつけた。
闘技場に、静寂が落ちる。
「見事だ。なかなかの腕前だな、アデル」
そう言ってルシアンは剣を引き、わずかに微笑んだ。
アデルは深く息を吸い、なおも主の速度に驚いた表情のまま、片膝をついて頭を下げる。
「……ありがとうございます、我が主。お褒めの言葉など、身に余ります」
観客席は息を呑み、しばしの間、風の音だけが闘技場を満たしていた。
学院の空気には、いまだ戦いの余韻が残っていた。
この一週間、闘技場では激しい決闘が続き、生徒も教師も固唾を呑んで見守っていた。
中でも話題となったのが、ジャンとウォーカー・ウォールの一戦だった。
ウォーカーは昇格したばかりのAクラス生。自らの実力を証明しようと果敢に挑んだが、数度の攻防で差は明白となる。
中級レギオネールとしての経験と力は圧倒的だった。
ジャンは驕ることなく、確実に勝利を収め、その背中で全てを語った。
一方、学院の反対側――魔術師用の闘技場では、また異なる緊張が渦巻いていた。
エミリーは、学院十四位の魔術師、メロディ・デニスと向かい合っていた。
多くの者が、エミリーの早期敗北を予想し、中には彼女に賭けない者すらいた。
だが、魔法陣が彼女の周囲に浮かび上がった瞬間、空気が一変する。
純粋で震えるようなマナの光が立ち上り、彼女の頭上で凝縮されていく。
次の瞬間――
神罰のような光の雨が、闘技場に降り注いだ。
メロディは防御結界を展開しようとしたが、その威力は想定を遥かに超えていた。
衝撃に呑み込まれ、完全に動きを封じられる。
静寂。
誰もが理解していた――今、特別な瞬間を目撃したのだと。
エミリーはゆっくりと壇上を降りた。
額には汗が滲み、呼吸は荒い。それでも、その表情には確かな達成感があった。
そして――彼女は気づく。
観客席に立つ、ルシアンの姿。
穏やかで、それでいて誇らしげな視線が、彼女と交わる。
「勝利おめでとう、エミリー。術式を完璧に仕上げたな。本当に才能ある魔術師だ」
近づいてそう言うルシアンの声は、静かで、心からの温かさを帯びていた。
エミリーは少し驚いたように瞬きをし、柔らかな笑みを浮かべる。
「ありがとう、ルシアン。応援に来てくれるなんて、思ってなかったわ」
ルシアンは軽く頷き、まだ残る魔力の光が鎧に反射する。
「当然だ。君の勝利を見届けたかった。勝つと信じていたし……今年、間違いなく上位に来るだろう」
確信に満ちた言葉だった。
エミリーは視線を落とし、手袋の指先を弄りながら、頬を赤らめる。
「……期待に応えられるよう、頑張るわ。もし負けたら……がっかりしない?」
かすかに震える声。
ルシアンは珍しく、心からの笑みを見せた。
「しないさ。敗北も成長の一部だ。大切なのは、全力を尽くし、そこから学ぶことだ」
次の試合を待ちわび、観客席は再び沸き立つ。
優雅な動きで、エリザベスが闘技台へと上がった。
魔力の風に髪を揺らしながら、構えに入る直前――彼女の視線は、無意識のうちに観客席へと向かう。
そこにいたのは、エミリーの隣に立つルシアン。
彼が何か囁き、エミリーが笑うのが見えた。
胸に、ちくりとした違和感が走る。
――嫉妬じゃない。
少なくとも、そう自分に言い聞かせた。
それは、言葉にできない苦味のような感情。
エリザベスはそれを誇りで押し殺し、深く息を吸って前を向いた。
審判の声が響く。
「エリザベス・エルクハン対ノラ・ライマー! 始め!」
閃光と轟音が交錯する。
ノラの放った雷の鎖を、エリザベスは冷静に受け流す。
杖を旋回させ、電撃の弧で攻撃を逸らした。
だが――彼女は、いつもと違った。
動きは鋭く、攻撃は苛烈。
周囲のマナは、抑え込まれた激情のように震えている。
何かを証明したい衝動。
誰かに――。
エリザベスの手に、荒々しく唸る雷の球体が形成される。
一閃。
直撃した衝撃波が闘技場を揺らし、旗が大きくはためいた。
光が消えた時、ノラは膝をつき、もはや立ち上がれなかった。
審判が手を挙げる。
「勝者――エリザベス・ダグラス!」
歓声が渦巻く中、彼女の耳にはほとんど届いていなかった。
その視線は、ただ一人を探していた。
そして――見つける。
ルシアンは静かに頷き、ほんの小さな合図を送った。
二人だけの、無言の共有。
エリザベスは笑みを堪えたが、唇の端に悪戯な輝きが漏れる。
誇らしく、挑発的な微笑み。
その瞬間、二人の間を、微かな電光が走った――。
ローレンスとフィリップ王による決定的な会談から三日後、空気は不吉な沈黙に満ちていた。
ノア・アーメットは身じろぎ一つせず、ダグラス家が突きつけた条件を聞いていた。その表情は、必死に抑え込んだ苛立ちの仮面だった。
ソフィアは、アーメット軍を完全にダグラス家の指揮下に置くこと、そしてイザベラをその家に引き渡すことを宣告した。
一言一言が、冷たい打撃となってノアの胸に突き刺さる。
降伏は避けられない。
それでも、誇りは燃え続けていた。
今できることは、時間を稼ぐことだけ。
その間にも、緊張は地域全体へと広がっていく。
誰も予想しなかった動きが起こる。
ローレンスが――デニス家に対して、宣戦布告を行ったのだ。
その知らせは、夜空を裂く雷のようにトーマス・デニスを打ち抜いた。
彼が想定していたのは、怒りに身を任せ、アーメット家を無慈悲に踏み潰すローレンスだった。
だが、現実に立ちはだかったのは――
冷静で、計算高い戦略家。
最悪の想定すら上回る存在だった。
「……いつ、ノアはローレンスと接触した?」
トーマスは額を押さえ、眩暈を覚える。
両者が顔を合わせれば、流血と死は避けられなかったはずだ。
それなのに、ローレンスは完璧な一手で、彼の計画を粉砕してみせた。
恐怖が、黒い川のように背筋を這い上がる。
築き上げてきた全てが、今にも崩れ落ちそうだった。
「人間よ……決断したようだな?」
低く、苛立ちを孕んだ声が玉座の間に響く。
ブラーゴズだった。
トーマスは唾を飲み込み、かすかに震える声で答える。
「……ああ。もし、お前と契約を結べば……俺の望みを叶えてくれるのか?」
ブラーゴズは首を傾け、燃えるような瞳で彼を値踏みする。
「それは、お前の行動次第だ。真に力を欲するなら、与えてやろう」
「今、必要なのは力だけじゃない」
トーマスは拳を握りしめる。
「兵だ……大軍が必要だ。でなければ、我が一族は滅びる」
「ならば、人間の命を生贄として捧げよ」
ブラーゴズの声に、交渉の余地はなかった。
「そうすれば、止められぬ軍勢を授けよう」
背筋に寒気が走る。
「……必要な人数は用意できる。ただし、猶予は三十日しかない。ダグラス家は必ず攻めてくる」
重苦しい沈黙が落ちる。
一つ一つの呼吸が、刻一刻と迫る戦争へのカウントダウンだった。
デニス家の運命と、ダグラス家の落とす影は、もはや避けられない嵐となっていた。
午後の光が大広間の窓から差し込み、木の床に黄金の帯を描いていた。
ルシアンは落ち着いた足取りで歩いていたが、背中に突き刺さる視線をはっきりと感じていた。
ため息、囁き声――それら全てが、まるで彼の決断を裁くかのようだった。
席に着くと、コーウィン・アーメットが腕を組んで待ち構えていた。
その瞳には、怒りと恐怖が入り混じっている。
「……それが、お前の計画だったってわけか」
非難と、姉を守ろうとする感情が滲んだ声。
ルシアンは眉を上げ、歩調を崩さずに答えた。
「誤解があるようだが、俺はそれを受け入れるつもりはない」
コーウィンは一歩踏み出し、拳を震わせる。
「姉さんを手に入れるつもりだったんだろう……卑劣な――」
その瞬間、ウンバーが飛びかかり、致命傷を与えぬ力でコーウィンを持ち上げた。
ルシアンはその隙に歩みを続ける。
教室に広がるざわめきを無視しながら。
イザベラを守るための行動は、誰の目にも歪んだ欲望にしか映らない。
勇気ではなく、背徳だと。
エミリーが机の間を抜け、彼の隣に腰を下ろした。
「……それが、あなたなりの答えだったの?」
好奇心と、わずかな非難を含んだ声。
ルシアンは深く息を吐き、椅子にもたれかかる。
「皆に裁かれるのは分かってる。でも、気にしていられない。俺は助けたかっただけだ。理解されなくても……君が、俺を信じてくれた。それで十分だ」
エミリーは穏やかで、どこか共犯者のような笑みを返す。
「それはそうと……ウンバー呼んでくれる? コーウィン、下で窒息しそうよ」
ルシアンが合図すると、ウンバーはコーウィンを解放した。
赤くなった顔で立ち上がる彼に、ルシアンは冷たい視線を向ける。
「二度と無礼な真似はするな。学院にいようと、立場は分かっているはずだ」
コーウィンは黙って席に崩れ落ちる。
教室は重苦しい沈黙に包まれ、誰も言葉を発しなかった。
ルシアンは一瞬、目を閉じる。
鈍い痛みが額を走った。
“本来のルシアン”を演じることは、どんな戦闘や魔法よりも消耗する。
心の奥では、ただ一つの願いが渦巻いていた。
――自室に戻り、パソコンの電源を入れて、
しばらくの間、何もかも忘れてしまえた、あの頃へ。




