嫉妬と影
自室へ向かう途中、ルシアンはアンドリューと鉢合わせた。
「やあ、ルシアン」
アンドリューは笑顔で挨拶したが、その目はまったく笑っていなかった。
ルシアンは冷ややかに彼を見つめる。
計算された沈黙のあと、低く言い放つ。
「……君とは、まだ清算が終わっていないと思っている。アンドリュー王子」
アンドリューは眉をひそめた。
「僕と? 君に何かした覚えはないけど」
ルシアンは口元だけで笑った。
皮肉が滲む、短い笑みだった。
「調子に乗るなよ、ルシアン・ダグラス」
アンドリューの表情がわずかに強張る。
「ああ……その件か。
あれは、レオポルド王子が君をしつこくからかうのを止めさせるために言っただけだ。個人的な意味はない」
「トーナメントで情けは期待するな」
氷のような声だった。
それでもアンドリューは一歩踏み込み、圧をかける。
「おいおい、そんなに怒るなよ。
……母上に話そうか? 君がエリザベスと密会している件について」
その瞬間、ルシアンの脳裏に黒い感情が走る。
(――役立たずの王子が)
だが声に出すことはなかった。
感情を抑え、淡々と返す。
「……今回は君の勝ちだ。
だが、アンドリュー。代わりに一つ頼みがある」
アンドリューは瞬きをした。
「……話題を変えるのが早いな。相変わらず子どもっぽい。
ほら、少しは懇願してみろよ。ルシアン、お願いしてみな?」
ルシアンは咳払いし、冷たい視線を向ける。
「ふざけるな。
デニス家を調べてほしい。あいつらは……危険だ」
アンドリューの顔色が変わった。
「待て……冗談じゃないよな?」
声が低くなる。
「それが本当なら、ただ事じゃない。すぐ報告すべきだ」
「この件で冗談を言うと思うか?」
否定の余地はなかった。
アンドリューは唾を飲み込む。
「……分かった。もう冗談だとは思わない。
くそっ……貴族が、あんな連中と繋がっているなんて。
人を回して調べる。これは……想像以上に深い問題だ。
放置すれば、王国全体が危険に晒される」
ルシアンは片眉を上げ、その反応を注意深く観察した。
「その様子だと……確証があるんだな?」
アンドリューが問いかける。
「証拠があるなら、君に頼む必要はない。バカか」
空気を切り裂くような率直さ。
「必要なのは、君が証拠を掴むことだ。
一つだけ確かなのは、デニス家は――もう限界を超えている」
アンドリューは深く息を吐いた。
「……分かった。信じよう」
少し離れた場所から、二人の会話を見ていたレオナルドは驚いていた。
彼らに、これほど親密な関係があるとは思っていなかったのだ。
ルシアンが立ち去ったあと、レオナルドはアンドリューに近づく。
「兄上……いつから、あいつとあんなに親しかったんだ?」
探るような視線。
アンドリューは即座に否定した。
「親しい? 冗談じゃない。
今回は少し礼儀正しくしただけだ。何か用か?」
レオナルドは苛立ちを滲ませながら、正直に切り出す。
「……イザベラの家族を助けたい。
彼らは無実だ。だが、父上は聞く耳を持たなかった。
頼む……兄上の力を貸してほしい」
アンドリューはしばらく黙考した。
「……努力はする。ただし、約束はできない。
微妙な問題だ。何か分かり次第、連絡する」
翌日。
学院の食堂へ向かう途中、ルシアンは朝の光の下で談笑するジーンとアデラに出会った。
「ご機嫌よう、ルシアン様」
アデラは軽く一礼し、明るく微笑む。
「ボディガード役に戻ったのか、アデラ?」
ルシアンは控えめに笑い返す。
「よう、訓練仲間」
ジーンには気さくに声をかけた。
ルシアンは屈み、アデラの相棒――アウレウスの頭を撫でる。
「最近、ずいぶん強くなったようですね。
ウンバーが油断したら、私たちがその座を奪いますよ?」
冗談めかした言葉に、ウンバーが不満げな視線を向ける。
一瞬の間を縫って、ジーンが慎重に尋ねた。
「ソフィア公爵夫人に会いに行くと聞きましたが……何かあったのですか?」
ルシアンは落ち着いたまま答えた。
「大したことじゃない。
ただ……いくつか、片付けるべき問題があるだけだ」
その声は穏やかだったが、
その背後には――確実に、影が伸びていた。
レストランの視線と真実の神殿
レストランに足を踏み入れた瞬間、ルシアンは店内を静かに見渡した。
そして――エミリーの姿を見つけた。
その瞬間、彼の瞳がわずかに輝く。
迷うことなく立ち上がり、まっすぐ彼女のもとへ向かった。
エミリーが近づいてくるのを見つめながら、ルシアンの鼓動は普段よりも速くなる。
彼女の一歩一歩が、まるで時間そのものを引き延ばしているかのように感じられた。
その光景を、店の隅からエリザベスとカラがじっと見つめていた。
グラスと皿の陰に身を隠しながら、二人の視線は一瞬たりとも離れない。
エリザベスは、ほとんど聞こえないほど小さな声で吐き捨てる。
「……くそったれの女狐」
カラは眉をひそめ、首をかしげた。
「え? 今、何か言った?」
エリザベスは肩をすくめ、
艶やかで、同時に毒を含んだ笑みを浮かべる。
「別に。何も言ってないわ」
そして身を乗り出し、興味深そうに囁いた。
「それより……どうして最近ドレスを着てるの?
あなた、ああいうの嫌いだったでしょ。
もしかして……誰かを落とそうとしてる?」
カラの頬が一気に熱くなる。
手がぎゅっとテーブルを掴んだ。
「……だ、誰を狙ってると思ってるのよ!
あのバカに決まってるでしょ!」
エリザベスは面白そうに片眉を上げ、
少し間を置いてから、刃物のように正確な問いを投げた。
「……ルシアンと賭けをしたのね?」
カラは視線を落とし、恥ずかしさを滲ませながら答える。
「……うん。
あのバカに、また負けた。
本当に……強くなってる。
負けたら一週間ドレスを着る、って賭けだったの」
エリザベスの目が冷たく細まる。
それは忠告という名の宣告だった。
「覚えておきなさい。
王国の四大貴族家は、決して交わってはならない。
ルシアンには……近づかないことね」
カラは顔を上げ、
その全身から闘志を滲ませる。
「分かってるわ。
言われなくても。
……あいつを倒せば、それでいいのよ」
正午。
ルシアンはイザベラを伴い、学院を後にした。
その足取りは迷いなく、まるで一歩ごとにデニス家の計画を踏み潰していくかのようだった。
イザベラも隣を歩きながら、
緊張と決意を胸に宿していた。
二人が辿り着いたのは、
真実の神・サングスの神殿。
高くそびえる柱と、
すべてを見透かすかのような彫像が、静寂の中で彼らを迎えた。
しばらくして、
ソフィアとローレンスの張り詰めた声が聞こえてくる。
ローレンスはイザベラを見るなり、怒りを爆発させた。
その瞳には、今にも力を振るわんとする殺気が宿っていた。
瞬時に、ルシアンとウンバーが前に出る。
イザベラを守る、揺るぎない盾となって。
ルシアンは深く息を吸い、毅然と告げた。
「落ち着いてください、父上。
あなたが知らなければならないことがあります」
「分かっていないのはお前だ!」
ローレンスは怒鳴り返す。
「どけ!」
「彼女の安全を守るのは、俺の義務です」
ルシアンは一歩も引かなかった。
「危害は、決して許しません」
一瞬、ローレンスが言葉を失う。
「……お前まで、その魔女に惑わされたか!
なんて失望だ!」
そのとき、ソフィアが前に出た。
腕を組み、冷然と告げる。
「いい加減にしなさい、ローレンス。
罪が確定していない少女に危害を加えようとするなんて、恥ずべき行為よ」
ルシアンは静かに続ける。
「ここは真実の神の神殿です。
彼女は嘘をつけません。
話を聞けば、事態があなたの思うほど単純ではないと分かるはずです」
神殿の内部では、
ステンドグラス越しの光が石床に歪な模様を描いていた。
僧がサングス神の像の前に立ち、
イザベラに魔法を施す。
青白く、幽玄な光が彼女を包む。
もし虚偽を語れば――即座に、苦痛に満ちた死が訪れる。
ローレンスは腕を組み、
顎を固く噛み締めながら聞いていた。
イザベラの告白が進むにつれ、
彼の表情から怒りが徐々に消えていく。
アーメット家の失踪。
その背後にあった、利益を得る貴族家の存在。
帝国が王国を揺るがすために張り巡らせた策略。
そして――ケイレブが、無辜の犠牲者であったこと。
告白が終わると、
イザベラは力尽きたように俯いた。
ローレンスは拳を強く握り締め、
怒りと諦念を滲ませたまま、無言で神殿を後にした。
ソフィアはルシアンに近づき、
優しく頬をつまむ。
「よくやったわ、私の可愛い子」
「……これで、意味はあったのでしょうか?」
ルシアンは不安を隠せず尋ねた。
ソフィアはそのまま頬をつまみ続け、
優しさと強さを併せ持つ声で言う。
「ええ、もちろん。
ローレンスは愚かじゃない。
ちゃんと理解したわ」
ルシアンは安堵の息を吐いた。
「……なら、イザベラと彼女の家族は」
「そう簡単な話ではないわ」
ソフィアの視線が、イザベラを射抜く。
「アーメット家の侮辱は、償われなければならない。
彼女は深く関わっている以上、責任から逃れられない」
一拍置き、淡々と告げる。
「選択肢は三つ。
死。
奴隷。
そして――奉公」
「意図していなかったとしても、結果は変わらない」
ソフィアは真っ直ぐにイザベラを見る。
「罰は、自分で選びなさい」
イザベラは唾を飲み込み、震える声で問う。
「……今、決めなければ……?」
「一週間あげるわ」
ソフィアは背を向ける。
「それでも決まらなければ――私が選ぶ」
重い沈黙が、
神殿全体を覆い尽くした。
夕暮れの約束と嫉妬の稲妻
学院へ戻る道すがら、ルシアンはイザベラと並んで歩いていた。
その表情には、安堵と心配が入り混じっている。
小さく息を吐き、彼は申し訳なさそうに言った。
「……あそこまで厳しいとは、正直思っていなかった」
イザベラは控えめな微笑みを浮かべ、感謝に満ちた瞳で答える。
「ありがとうございます、ルシアン様」
歩きながら、ルシアンは母ソフィアを説得し、
イザベラの処罰を少しでも軽くできるよう尽くすと約束した。
だがイザベラは、これ以上問題を起こしたくないと静かに首を振る。
どんな結果であれ、受け入れる覚悟はできている――そう言わんばかりだった。
「大切なのは、できるだけ早く解決することだ」
そう語るルシアンの視線は、いつになく優しかった。
その視線を受け、イザベラは胸の奥が小さく揺れるのを感じる。
――もしかして、この人は……。
そんな考えを振り払うように、
彼女は再び深く頭を下げた。
「……本当に、ありがとうございます。ルシアン様」
学院に戻る頃には、空は橙と紫に染まり、
建物の影が中庭に長く伸びていた。
イザベラは緊張を振り払うように足早に寮へ向かう。
その途中、二人の兄に呼び止められた。
心配そうな表情で駆け寄ってくる兄たち。
ベンジャミンが眉をひそめ、震える声で尋ねる。
「姉さん、大丈夫か?
あの怪物に何かされなかったか?」
イザベラは立ち止まり、深く息を吸うと、
安心させるように穏やかに微笑んだ。
「大丈夫よ。
ルシアン様は、とても親切だったわ」
腕を組んだコーウィンが、疑わしそうに続ける。
「どうしてあの人と一緒だったんだ?
脅されてるんじゃないのか?」
イザベラは一瞬だけ視線を落とし、
そしてまっすぐ二人を見据える。
「私たちの問題を解決しようとしてくれたの。
まだ完全じゃないけど……
戦争を避けられるかもしれないわ」
ベンジャミンは一歩前に出る。
「……そのために、
姉さんは何を支払うんだ?」
イザベラは、静かな決意を宿した微笑みで首を振った。
「あなたたちは何もしなくていい。
……私が、引き受けるから」
沈黙が三人を包む。
夕暮れの光が、学院をやさしく染めていた。
状況はまだ厳しい。
だが――解決の道は、確かに存在していた。
その代償を、イザベラが背負うことになるとしても。
ほとんど人のいない廊下を、
ルシアンはポケットに手を入れ、考え事をしながら歩いていた。
その瞬間――
バチッ、と空気が弾ける音とともに、
電撃が背後をかすめる。
即座に反応し、身体をひねる。
次の光弾が壁に叩きつけられ、青白い火花が散った。
薄暗い廊下に立っていたのは――
エリザベスだった。
怒りに燃える瞳。
きつく結ばれた唇。
何も言わず、指で「来い」と合図する。
ルシアンは小さく溜息をついた。
逆らっても無駄だと分かっていた。
彼女の後を追い、
人のいない空き部屋へ。
中に入った瞬間――
エリザベスは彼を壁に突き飛ばした。
鈍い音が響く。
吐息が触れるほどの距離で、
彼女は囁く。
「……随分と、女の子に囲まれるのが好きなのね。
私の可愛い人」
ルシアンは両手を上げ、落ち着こうとする。
「違う、エリ。
少し落ち着いてくれ」
エリザベスの表情は、怒りと疑念の間で揺れる。
「私が勘違いしてるだけかしら?
婚約者がいて、カラが追い回してて、
今度はイザベラと“デート”?」
「説明しなさい。
じゃないと……覚悟しなさいよ」
「……エミリーとの婚約は、俺の本意じゃない。
カラは戦うことしか考えてない。
イザベラは……争いを止めるためだ」
「両親に会わせて、事情を説明しただけだ」
数秒の沈黙。
次の瞬間――
エリザベスは身を寄せ、彼の耳に軽く歯を立てた。
罰のようで、
挑発のような仕草。
離れようとしたその腕を、
ルシアンが掴み、引き寄せる。
唇が重なった。
溜め込まれていた感情が、一気に弾ける。
エリザベスは胸を叩きながら、息を乱す。
「……何してるのよ!
今、そんな気分じゃないの!」
それでもルシアンは離れなかった。
今度は、優しく。
包み込むように口づける。
「……君だけだ」
低く、真剣な声。
「ずっと前から、強く想ってる。
そんなふうに嫉妬する君を見ると……
もっと、大切にしたくなる」
言葉の余韻が、部屋に残る。
エリザベスは彼を見つめたまま、
荒い呼吸を整えようとしていた。
誇りと感情が交錯する瞳で――。




