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「傭兵たちの影」

王国全土に、ダグラス家とアーメット家の衝突の噂が広がっていた。

ノア・アーメット伯爵は追い詰められ、戦う意思のある傭兵なら誰でも雇い入れる勢いで、莫大な報酬を提示していた。


その情報を耳にしたマーカスは、すぐにある考えに至る。


――これは好機だ。


「正面から勝てないなら……

傭兵として潜り込めばいい」


彼は配下の報告書を眺めながら、冷静に判断した。

数名の精鋭を傭兵に偽装して送り込み、

内側からダグラス家を削ぐ。


この戦争を――

実験場として利用するつもりだった。


表向きには、

また一つの貴族同士の争いに見えたこの戦争。


だが、実態はまったく違う。


ダグラス公爵領は、

王国随一とも言われる軍事力を誇り、

時には王都直属軍すら凌ぐほどだった。


その名を聞くだけで、

正面から敵対することを躊躇する者も多い。


ノア伯爵自身も、それを理解していた。


力では勝てない。

だからこそ、残された手段は一つ――傭兵。


だが、どれほどの金を積んでも、

多くは依頼を断るか、

現実離れした条件を突きつけてきた。


――最初から、負け戦に見えたからだ。



一週間後。


魔王教団による襲撃後の修復が完了し、

王立学院の全生徒に、授業再開の通達が出された。


ルシアンはウンバーを伴い、

久しぶりに学生寮へ戻る。


その変化は、誰の目にも明らかだった。


強化された城壁。

重ねがけされた防御結界。

巡回する兵士の数も増えている。


今や、

どの建物も緊急時には即座に防護結界を展開し、

王都からの援軍が到着するまで耐えられる仕様になっていた。


訓練記録を確認していたルシアンのもとへ、

柱の影からクララ教官が姿を現した。


慎重な足取りで近づき、

かつて魔王教団の襲撃から命を救われたことへの

感謝を、直接伝えるためだった。


古書の香りと、

淡く揺らぐマナの光が空間を満たす中、

二人は短く言葉を交わす。


そのとき――

視界の端に、カラの姿が映った。


学院指定のワンピース姿で、

廊下を歩いている。


普段は動きやすい服装を好む彼女にしては、

どこか珍しい光景だった。


(……少なくとも、約束は守るらしい)


ルシアンは小さく笑った。

だが、

魔王教団の影は、まだ完全には消えていない。



学生寮に戻ったルシアンは、

彫刻の施された重厚な樫の扉の前で足を止めた。


貴族専用の個室――

その内部は、もはや一つの小宮殿だった。


ビロードの絨毯。

暖かな燭台の光を反射する高級家具。

壁一面を覆う古書の書架。


使用人たちは影のように静かに動き、

銀盆や蝋燭を整えながら、

空間の静寂を乱さない。


扉を押し開けた瞬間――

ルシアンは、予想外の存在に抱きつかれた。


「……っ!?」


エリザベスだった。


金色の髪が燭台の光を受け、

溶けた金のように輝く。


彼女は忍ぶように動き、

使用人にも気づかれぬまま彼に近づいていた。


次の瞬間、

彼女は腕の中に飛び込み、

唇を重ねた。


息が乱れるほど、

切実で、抑えきれない口づけ。


秘密の通路――

庭園と学生寮を繋ぐ隠し道を使って来たのだ。


気づかれる前に去るつもりで、

まるで影のように。


「……すごく会いたかった」

エリザベスは彼の胸に額を預け、囁く。

「母にずっと監視されてて……会えなかったの」


「分かってる」

ルシアンは優しく彼女の髪を撫でた。

「俺も同じくらい、辛かった」

「でも……今は、この時間を大事にしよう」


彼女は少し身を離し、

真剣な眼差しで彼を見る。


「あなたの動きは、全部追ってるわ」

「公園で戦ったでしょう。

カラ、相変わらずあなたに絡んでる」


「まあな……」

ルシアンは苦笑した。

「森の王の肉を食べてから、

強くなった分、厄介さも増えた」


「そういえば……」

彼は思い出したように尋ねる。

「母の贈り物、受け取ったか?」


「ええ」

エリザベスは静かに頷いた。

「五日間、力を与えてくれた」

「最初は辛かったけど……今は、前よりずっと強い」


ルシアンは再び彼女を抱き寄せた。


「難しい話はやめよう」

「一分一秒が、奇跡みたいな時間なんだ」


その瞬間、

世界は消えた。


使用人も、学院も、

王国の義務も。


ただ二人だけが、

盗まれた時間の中にいた。



「エミリー、待って!」


学院の廊下を、

アレハンドロが駆けてくる。


エミリーは立ち止まり、

深く息を吸って振り返った。


「……アレハンドロ」

「何度も言ったはずよ。

距離を保ってって」


穏やかな声。

だが、その一言一言は剣のように鋭い。


「不公平だ!」

彼は叫んだ。

「幼い頃から一緒だった!

全部を分かち合ってきたのに!」

「婚約者が近くにいるからって、

急に突き放すなんて……!」


エミリーは答えなかった。


視線を逸らし、

一歩、また一歩と前へ進む。


感情に流されるつもりはない。

それが、彼女の覚悟だった。


言葉を残さず、

彼女は優雅に去っていく。


「……くそっ、ルシアン!」

アレハンドロの怒声が廊下に響く。

「会ったら、ただじゃおかない!」


長年積もった嫉妬と憎しみが、

その声に滲んでいた。



一年A組の教室で、

クララ教官が生徒たちに告げる。


「先日の事故を受けて、

ランク戦を前倒しで実施します」


ざわめく教室。


「トーナメントはすでに決定済みです」

「各自、戦闘日程は後日通知します」


嵐の前の静けさ――

学院にも、確実に戦いの影が差し込んでいた。


「黄昏の決闘」


一日の終わりが近づく頃、

ルシアンはエミリーと並んで学院の回廊を歩いていた。


沈みゆく太陽が古い石壁を金と紅に染め、

そよ風が舞い上げた埃と枯葉が、二人の足元で踊る。


足音はやけに大きく響き、

この空間だけ時間が止まったかのようだった。


「ルシアン、

ランク戦で決闘を申し込む」


背後から、

強い足取りとともにアレハンドロの声が響く。


エミリーは立ち止まり、

ルシアンの袖をぎゅっと掴んだ。


眉をひそめ、

不安を隠さない声で言う。


「アレハンドロ、お願い……やめて。

ここで騒ぎを起こさないで」


「学院だぞ!

正式なルールに従って戦えるじゃないか!」

アレハンドロは一歩踏み出し、

視線をルシアンに向けた。


「どうだ、ルシアン?」


ルシアンは腕を組み、

風に揺れるマントを気にも留めず、

冷ややかに彼を見下ろす。


「……疲れてる。

お前の声を聞くだけで眠くなる」


その言葉は、

剣のように鋭く、無感情だった。


アレハンドロは歪んだ笑みを浮かべる。


「へえ……

お前がそんな臆病者だとは知らなかったな」


ルシアンは小さく、

心底面倒そうに溜息をついた。


そして、ゆっくりと中庭の中心へ歩き出す。

すでに学生たちが集まり始めていた。


「……本当に鬱陶しいな」

「カラの真似をしたいなら、好きにしろ」

「どれほどやれるか、見てやる」


その声には、

揺るぎない決意が宿っていた。



クララ教官が淡々と決闘の準備を整える。


正確で無駄のない動作。

学生たちは円を作り、

息を詰めて見守る。


夕暮れの光が伸びる影を落とし、

空気が張り詰める。


そこへ――

慣れないワンピース姿のカラが駆け込んできた。


少し躓きながらも、

戦いの気配に目を輝かせる。


「……どうして、そこまで俺に敵意を向ける?」

ルシアンが問う。

その声は、ざわめきを切り裂いた。


「俺は何もしていないはずだが」


アレハンドロは剣を握り締め、低く答える。


「……ダグラス家の人間は、

自分たちが何をしているのかすら知らない」


重く、意味深な言葉。


(……はぁ。

知らない脇役の過去話とか、読む気しないんだけど)


ルシアンは内心で呆れ、

その言葉を完全に無視した。



次の瞬間――

アレハンドロが踏み込む。


剣が空を切り、鋭い風切り音が走る。


ルシアンは冷静にそれを受け止め、

一歩後退しながら距離を取る。


詠唱。

魔力が収束する。


夕日の中、

彼の動きはまるで舞踏のように洗練されていた。


戦いは、

魔法と鋼が交錯する激しい応酬へと変わる。


ルシアンの魔法は、

効率的で、無駄がない。


一方、

アレハンドロは目に見えて消耗していく。


彼の魔力適性はデルタ級。

消費魔力の軽減は四割が限界。


対して、

ルシアンはイプシロン級。


同じ魔法でも、

必要な魔力はほぼ半分だった。


「卑怯だぞ!」

アレハンドロが叫ぶ。

「魔法の後ろに隠れてばかりじゃないか!」


息は荒く、

後退を余儀なくされている。


「黙れ」

ルシアンは淡々と返す。

「騒ぎを起こしたのはお前だ」

「今は……

俺の魔法練習の的になってもらってるだけだ」


空中、背後、死角――

あらゆる方向から魔法が飛ぶ。


投射、衝撃波、防壁。

組み合わされた攻撃は、

回避不可能な連撃となる。


アレハンドロの呼吸は乱れ、

魔力は枯渇寸前。


ルシアンの魔力は、

まだ澄み切っていた。


地面が揺れ、

光と火花が中庭を照らす。


カラは唇を噛みしめ、

理解していた。


――同じ段階の実力でも、

適性の差は決定的だ。



接近戦に持ち込もうとしたアレハンドロを、

ルシアンは軽く受け流し、再び距離を取る。


魔力は尽き、

身体も言うことを聞かない。


そして――

ルシアンは静かに詠唱を始めた。


「礼儀として、

新しい術式の練習台になってもらおう」


アレハンドロが止めようとするが、

もはや立ち上がる力すら残っていない。


影が、地面から這い出す。


黒い投射体が幾重にも形成され、

容赦なく彼を打ち据える。


一撃、一撃が示していた。


――魔力効率の差。

それこそが、敗北の理由だと。



すべてを見届けたカラは、

以前の自分との戦いを思い出していた。


結果は違えど、

本質は同じ。


(……次は、必ず)


夕日の光が彼女の瞳に宿る。

静かな闘志が、確かに燃えていた。



戦いの後。


まだ熱を残す砂の上を、

エミリーが静かに歩み寄る。


「……怪我はない?」

その声には、隠しきれない心配が滲んでいた。


「ない」

ルシアンは穏やかに答える。

「……それより、怒ってないのか?」


エミリーは一瞬驚いたが、

すぐに首を振る。


「どうして?」

「彼が勝手に挑んだだけよ」


ルシアンは小さく息を吐き、

柔らかな視線を向ける。


「……友達まで遠ざける必要はない」

「俺との因縁で、

君が悲しむのは嫌だ」


エミリーは静かに頷いた。


夕暮れの風が二人を包み、

戦いの余韻だけが、

静かに消えていった。

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