「傭兵たちの影」
王国全土に、ダグラス家とアーメット家の衝突の噂が広がっていた。
ノア・アーメット伯爵は追い詰められ、戦う意思のある傭兵なら誰でも雇い入れる勢いで、莫大な報酬を提示していた。
その情報を耳にしたマーカスは、すぐにある考えに至る。
――これは好機だ。
「正面から勝てないなら……
傭兵として潜り込めばいい」
彼は配下の報告書を眺めながら、冷静に判断した。
数名の精鋭を傭兵に偽装して送り込み、
内側からダグラス家を削ぐ。
この戦争を――
実験場として利用するつもりだった。
表向きには、
また一つの貴族同士の争いに見えたこの戦争。
だが、実態はまったく違う。
ダグラス公爵領は、
王国随一とも言われる軍事力を誇り、
時には王都直属軍すら凌ぐほどだった。
その名を聞くだけで、
正面から敵対することを躊躇する者も多い。
ノア伯爵自身も、それを理解していた。
力では勝てない。
だからこそ、残された手段は一つ――傭兵。
だが、どれほどの金を積んでも、
多くは依頼を断るか、
現実離れした条件を突きつけてきた。
――最初から、負け戦に見えたからだ。
*
一週間後。
魔王教団による襲撃後の修復が完了し、
王立学院の全生徒に、授業再開の通達が出された。
ルシアンはウンバーを伴い、
久しぶりに学生寮へ戻る。
その変化は、誰の目にも明らかだった。
強化された城壁。
重ねがけされた防御結界。
巡回する兵士の数も増えている。
今や、
どの建物も緊急時には即座に防護結界を展開し、
王都からの援軍が到着するまで耐えられる仕様になっていた。
訓練記録を確認していたルシアンのもとへ、
柱の影からクララ教官が姿を現した。
慎重な足取りで近づき、
かつて魔王教団の襲撃から命を救われたことへの
感謝を、直接伝えるためだった。
古書の香りと、
淡く揺らぐマナの光が空間を満たす中、
二人は短く言葉を交わす。
そのとき――
視界の端に、カラの姿が映った。
学院指定のワンピース姿で、
廊下を歩いている。
普段は動きやすい服装を好む彼女にしては、
どこか珍しい光景だった。
(……少なくとも、約束は守るらしい)
ルシアンは小さく笑った。
だが、
魔王教団の影は、まだ完全には消えていない。
*
学生寮に戻ったルシアンは、
彫刻の施された重厚な樫の扉の前で足を止めた。
貴族専用の個室――
その内部は、もはや一つの小宮殿だった。
ビロードの絨毯。
暖かな燭台の光を反射する高級家具。
壁一面を覆う古書の書架。
使用人たちは影のように静かに動き、
銀盆や蝋燭を整えながら、
空間の静寂を乱さない。
扉を押し開けた瞬間――
ルシアンは、予想外の存在に抱きつかれた。
「……っ!?」
エリザベスだった。
金色の髪が燭台の光を受け、
溶けた金のように輝く。
彼女は忍ぶように動き、
使用人にも気づかれぬまま彼に近づいていた。
次の瞬間、
彼女は腕の中に飛び込み、
唇を重ねた。
息が乱れるほど、
切実で、抑えきれない口づけ。
秘密の通路――
庭園と学生寮を繋ぐ隠し道を使って来たのだ。
気づかれる前に去るつもりで、
まるで影のように。
「……すごく会いたかった」
エリザベスは彼の胸に額を預け、囁く。
「母にずっと監視されてて……会えなかったの」
「分かってる」
ルシアンは優しく彼女の髪を撫でた。
「俺も同じくらい、辛かった」
「でも……今は、この時間を大事にしよう」
彼女は少し身を離し、
真剣な眼差しで彼を見る。
「あなたの動きは、全部追ってるわ」
「公園で戦ったでしょう。
カラ、相変わらずあなたに絡んでる」
「まあな……」
ルシアンは苦笑した。
「森の王の肉を食べてから、
強くなった分、厄介さも増えた」
「そういえば……」
彼は思い出したように尋ねる。
「母の贈り物、受け取ったか?」
「ええ」
エリザベスは静かに頷いた。
「五日間、力を与えてくれた」
「最初は辛かったけど……今は、前よりずっと強い」
ルシアンは再び彼女を抱き寄せた。
「難しい話はやめよう」
「一分一秒が、奇跡みたいな時間なんだ」
その瞬間、
世界は消えた。
使用人も、学院も、
王国の義務も。
ただ二人だけが、
盗まれた時間の中にいた。
*
「エミリー、待って!」
学院の廊下を、
アレハンドロが駆けてくる。
エミリーは立ち止まり、
深く息を吸って振り返った。
「……アレハンドロ」
「何度も言ったはずよ。
距離を保ってって」
穏やかな声。
だが、その一言一言は剣のように鋭い。
「不公平だ!」
彼は叫んだ。
「幼い頃から一緒だった!
全部を分かち合ってきたのに!」
「婚約者が近くにいるからって、
急に突き放すなんて……!」
エミリーは答えなかった。
視線を逸らし、
一歩、また一歩と前へ進む。
感情に流されるつもりはない。
それが、彼女の覚悟だった。
言葉を残さず、
彼女は優雅に去っていく。
「……くそっ、ルシアン!」
アレハンドロの怒声が廊下に響く。
「会ったら、ただじゃおかない!」
長年積もった嫉妬と憎しみが、
その声に滲んでいた。
*
一年A組の教室で、
クララ教官が生徒たちに告げる。
「先日の事故を受けて、
ランク戦を前倒しで実施します」
ざわめく教室。
「トーナメントはすでに決定済みです」
「各自、戦闘日程は後日通知します」
嵐の前の静けさ――
学院にも、確実に戦いの影が差し込んでいた。
「黄昏の決闘」
一日の終わりが近づく頃、
ルシアンはエミリーと並んで学院の回廊を歩いていた。
沈みゆく太陽が古い石壁を金と紅に染め、
そよ風が舞い上げた埃と枯葉が、二人の足元で踊る。
足音はやけに大きく響き、
この空間だけ時間が止まったかのようだった。
「ルシアン、
ランク戦で決闘を申し込む」
背後から、
強い足取りとともにアレハンドロの声が響く。
エミリーは立ち止まり、
ルシアンの袖をぎゅっと掴んだ。
眉をひそめ、
不安を隠さない声で言う。
「アレハンドロ、お願い……やめて。
ここで騒ぎを起こさないで」
「学院だぞ!
正式なルールに従って戦えるじゃないか!」
アレハンドロは一歩踏み出し、
視線をルシアンに向けた。
「どうだ、ルシアン?」
ルシアンは腕を組み、
風に揺れるマントを気にも留めず、
冷ややかに彼を見下ろす。
「……疲れてる。
お前の声を聞くだけで眠くなる」
その言葉は、
剣のように鋭く、無感情だった。
アレハンドロは歪んだ笑みを浮かべる。
「へえ……
お前がそんな臆病者だとは知らなかったな」
ルシアンは小さく、
心底面倒そうに溜息をついた。
そして、ゆっくりと中庭の中心へ歩き出す。
すでに学生たちが集まり始めていた。
「……本当に鬱陶しいな」
「カラの真似をしたいなら、好きにしろ」
「どれほどやれるか、見てやる」
その声には、
揺るぎない決意が宿っていた。
*
クララ教官が淡々と決闘の準備を整える。
正確で無駄のない動作。
学生たちは円を作り、
息を詰めて見守る。
夕暮れの光が伸びる影を落とし、
空気が張り詰める。
そこへ――
慣れないワンピース姿のカラが駆け込んできた。
少し躓きながらも、
戦いの気配に目を輝かせる。
「……どうして、そこまで俺に敵意を向ける?」
ルシアンが問う。
その声は、ざわめきを切り裂いた。
「俺は何もしていないはずだが」
アレハンドロは剣を握り締め、低く答える。
「……ダグラス家の人間は、
自分たちが何をしているのかすら知らない」
重く、意味深な言葉。
(……はぁ。
知らない脇役の過去話とか、読む気しないんだけど)
ルシアンは内心で呆れ、
その言葉を完全に無視した。
*
次の瞬間――
アレハンドロが踏み込む。
剣が空を切り、鋭い風切り音が走る。
ルシアンは冷静にそれを受け止め、
一歩後退しながら距離を取る。
詠唱。
魔力が収束する。
夕日の中、
彼の動きはまるで舞踏のように洗練されていた。
戦いは、
魔法と鋼が交錯する激しい応酬へと変わる。
ルシアンの魔法は、
効率的で、無駄がない。
一方、
アレハンドロは目に見えて消耗していく。
彼の魔力適性はデルタ級。
消費魔力の軽減は四割が限界。
対して、
ルシアンはイプシロン級。
同じ魔法でも、
必要な魔力はほぼ半分だった。
「卑怯だぞ!」
アレハンドロが叫ぶ。
「魔法の後ろに隠れてばかりじゃないか!」
息は荒く、
後退を余儀なくされている。
「黙れ」
ルシアンは淡々と返す。
「騒ぎを起こしたのはお前だ」
「今は……
俺の魔法練習の的になってもらってるだけだ」
空中、背後、死角――
あらゆる方向から魔法が飛ぶ。
投射、衝撃波、防壁。
組み合わされた攻撃は、
回避不可能な連撃となる。
アレハンドロの呼吸は乱れ、
魔力は枯渇寸前。
ルシアンの魔力は、
まだ澄み切っていた。
地面が揺れ、
光と火花が中庭を照らす。
カラは唇を噛みしめ、
理解していた。
――同じ段階の実力でも、
適性の差は決定的だ。
*
接近戦に持ち込もうとしたアレハンドロを、
ルシアンは軽く受け流し、再び距離を取る。
魔力は尽き、
身体も言うことを聞かない。
そして――
ルシアンは静かに詠唱を始めた。
「礼儀として、
新しい術式の練習台になってもらおう」
アレハンドロが止めようとするが、
もはや立ち上がる力すら残っていない。
影が、地面から這い出す。
黒い投射体が幾重にも形成され、
容赦なく彼を打ち据える。
一撃、一撃が示していた。
――魔力効率の差。
それこそが、敗北の理由だと。
*
すべてを見届けたカラは、
以前の自分との戦いを思い出していた。
結果は違えど、
本質は同じ。
(……次は、必ず)
夕日の光が彼女の瞳に宿る。
静かな闘志が、確かに燃えていた。
*
戦いの後。
まだ熱を残す砂の上を、
エミリーが静かに歩み寄る。
「……怪我はない?」
その声には、隠しきれない心配が滲んでいた。
「ない」
ルシアンは穏やかに答える。
「……それより、怒ってないのか?」
エミリーは一瞬驚いたが、
すぐに首を振る。
「どうして?」
「彼が勝手に挑んだだけよ」
ルシアンは小さく息を吐き、
柔らかな視線を向ける。
「……友達まで遠ざける必要はない」
「俺との因縁で、
君が悲しむのは嫌だ」
エミリーは静かに頷いた。
夕暮れの風が二人を包み、
戦いの余韻だけが、
静かに消えていった。




