「公爵の怒り」
広間の大きな窓越しに、公爵領の中央庭園が見渡せた。
数百の兵士が隊列を組んで行進し、
騎兵たちは魔獣を駆って訓練を重ね、
鍛冶場の炉は夜になっても赤く輝き続けている。
――戦争は、まだ始まっていない。
だが、ダグラス公爵はすでに導火線に火をつけていた。
*
二日後。
夜の帳がダグラス邸を包み込む。
松明とランタンが廊下を照らし、
溶けた蝋と煙の匂いが空気に漂っていた。
副広間では、将校たちが地図を広げ、
緊張した表情の使者から報告を受けている。
動員は、静かに――しかし確実に進んでいた。
*
ソフィアは、エミリーを夕食に招いていた。
ルシアンと三週間も会っていないことを、彼女は案じていた。
距離が、二人の関係を冷ましてしまわないか――。
貴族の社交期は、わずか四か月。
それが終われば、各家は領地へ戻り、
顔を合わせる機会は激減する。
控えめながらも気品ある装いのエミリーは、
部屋に入ると丁寧に一礼した。
「ご機嫌麗しゅう、偉大なる大公妃様。
ご旅行は、実りあるものでしたでしょうか」
「久しぶりね、エミリー」
ソフィアは、淡い微笑みを浮かべる。
「ご家族のご様子は?」
「おかげさまで、落ち着いております。
お気遣い、ありがとうございます」
ソフィアは頷き、
穏やかだが芯のある声で続けた。
「まもなく、ルシアンの十六歳の誕生日よ」
「婚約者であるあなたが、式典を取り仕切りなさい」
「貴族家を招待して構わないし、
必要な資源は自由に使っていいわ」
一瞬言葉を切り、優しく付け加える。
「今は辛い時期でしょう。
でも、忙しくしていた方が、気も紛れるものよ」
エミリーは、少しだけ表を明るくして頷いた。
「仰せのままに、デュケッサ。
ご配慮、感謝いたします」
*
大広間では、マルタとカタリナが廊下を横切っていた。
マルタは、ソフィアに鋭い視線を投げかける。
息子を失った悲しみが、
怒りと共に彼女を蝕んでいた。
その感情は、隠しきれていない。
ソフィアは、それに気づきながらも動じなかった。
「同情はするけれど」
冷たい声で言い放つ。
「無礼は、決して許さないわ」
慌てて、カタリナが割って入った。
「失礼いたしました、デュケッサ。
通りがかっただけですので……これで失礼いたします」
彼女は深く頭を下げ、
マルタの腕を引いてその場を離れた。
*
回廊の陰から様子を見ていたルシアンは、
二人の背中を見送ってから、母のもとへ近づいた。
「……何の用だったんだ?」
「同情を買いに来ただけでしょうね」
ソフィアは、軽くため息をつく。
そして、息子の顔に浮かぶ痣に視線を落とした。
「それより――」
「アルベルト、あなたの訓練で少し行き過ぎていない?」
そう言って、
彼女は静かに、だが鋭く問いかけた。
ルシアンは疲れ切った様子で肩をすくめた。
「新しい魔法を見せてから、ずっと離してくれないんだ。
完成させるまで、徹底的にやれってさ」
そのとき、エミリーが近づき、控えめな笑顔で挨拶した。
「こんばんは、ルシアン。
……その、怪我の手当て、私がしてもいい?」
「ぜひ頼むよ」
彼は心からの感謝を込めて答えた。
「ありがとう」
夕食は穏やかに進んだが、途中でエミリーの様子が変わった。
彼女は胸元に手を当て、眉をひそめる。
「……なに、これ?」
ソフィアは落ち着いた声で彼女を安心させた。
「心配しなくていいわ。害はないの」
「ただ、マナ核の強化を身体が吸収するのに時間がかかっているだけ」
「料理には、キュモペリアの森の王の肉を使ったのよ。
それ自体が、宝物みたいなものだから」
エミリーは目を見開いた。
「森の王……!?
そんなものを、討伐したんですか?」
「うん」
ルシアンは少し誇らしげに答えた。
「母さんのおかげだ」
*
エミリーの体調が落ち着いた後、
ルシアンは彼女を王都北区にある《秘源の聖域》へと案内した。
ルーンに照らされた水盤に囲まれたその場所は、
急激なマナ強化の後に核を安定させることで知られている。
「ここなら、楽になるはずだ」
「この場のエネルギーが、マナ核を整えてくれる」
「連れてきてくれて、ありがとう」
エミリーは深く息を吸い、少し安心したように言った。
「……キュモペリアの森は、危険だった?」
「正直、かなりきつかった」
ルシアンは苦笑する。
「帰りは……もっと最悪だったしな。
色々あってさ」
そのとき、静寂を破る声が響いた。
「――ルシアン!」
振り向くと、カラが護衛を引き連れて歩み寄ってくる。
「あなたも、マナの安定化に来たみたいね」
彼女の背後の物々しい護衛を見て、
ルシアンは眉を上げた。
「ずいぶん厳重だな」
「俺が君の父親だったら、
数年は地下牢に放り込んでるところだ」
「相変わらず、うるさいわね」
カラは即座に言い返す。
「それに、あなたも一度逃げ出したって聞いたけど?
人のこと言える立場じゃないでしょ」
混乱した様子で、エミリーが二人を交互に見る。
「あの……失礼ですけど、
いつから、そんなに仲が良いんですか?」
二人は同時に答えた。
「仲良くない」
エミリーは眉を上げる。
「……そうは見えませんけど」
カラは口元を歪め、意地悪く笑った。
「ベッドの上で、あんなに動き回る人と
友達になるわけないでしょ」
エミリーは真っ赤になり、
ルシアンは歯を食いしばる。
「おい! 誤解だ!」
「それに、誤解を招く言い方はやめろ!
元を辿れば、お前のせいだろ!」
「大げさね」
カラは挑発的に肩をすくめた。
「それより……今のあなたが、
もう私の敵じゃないって証明してあげようか?」
「やる気か?」
ルシアンは口元を吊り上げる。
「ちょうどいい。
一発、叩きのめしてやりたかった」
「私が負けたら?」
カラが目を細める。
「一週間、学院の制服で過ごせ」
「じゃあ、あなたが負けたら」
彼女は即答した。
「一週間、私の命令に従いなさい」
*
その直後、
ダグラス家とブルランス家の騎士たちが周囲を囲み、
即席の闘技場が出来上がった。
ルシアンは剣を抜き、
決意の光を瞳に宿す。
「少し力が上がったくらいで、
俺に勝てると思ってるのか?」
「……がっかりだな」
「力だけじゃないわ」
カラは剣の柄を握り直し、不敵に笑う。
「すぐに、分かる」
合図もなく、カラが踏み込んだ。
剣と剣がぶつかり合い、
金属音が公園全体に響き渡る。
――重い。
ルシアンの手が震えた。
カラの身体強化魔法は、
想像以上に彼女の力を引き上げている。
油断すれば、致命傷。
ルシアンは即座に判断し、
剣と魔法を組み合わせた戦法に切り替えた。
黒い棘が地面から噴き出し、
闇の魔力弾が稲妻のように飛び、
地中から槍が正確に突き上がる。
すべては、
カラの広範囲攻撃を封じるための布石。
カラはルシアンの成長を察知し、
眉をひそめた。
戦術を切り替え、
父から教わった《マナ装甲》を展開する。
全身を覆う輝く魔力の鎧。
物理攻撃を吸収し、
魔法ダメージを大きく軽減する。
そして、反撃。
剣を振るうたび、
二重のマナ斬撃が空気を震わせ、
ルシアンを後退させた。
激しい打ち合いの最中、
ルシアンは剣で攻撃を防いだ――が。
顔面への蹴り。
視界が揺れ、
カラはその隙を逃さず、広域攻撃を解放した。
爆発的な魔力波動が炸裂し、
土と木の葉が舞い上がる。
ルシアンは反射的に雷撃を放ち、
衝撃の一部を逸らしたが――
それでも、衣服と皮膚が裂け、
口元から血が滴った。
*
ルシアンの瞳に、決意が刻まれる。
アルベルトとの訓練で磨いた、
あの魔法を起動した。
闇のマナで形成された二本の剣が、
彼の周囲に浮かび上がる。
交互に現れ、
背後から斬りつけ、
消えては戻る。
休む暇を与えない圧力。
マナ装甲がダメージを軽減するとはいえ、
傷と疲労は、確実に蓄積していった。
*
そして――決着。
マナを限界まで使い切り、
カラは全力の一撃を放つ。
地面が震え、
剣は眩い光に包まれた。
ルシアンは迷わない。
全身を闇のマナで覆い、
二本の剣を一つに束ねて迎撃する。
衝突。
衝撃波が公園全体を駆け抜け、
木の葉と瓦礫が舞い上がった。
やがて、
ルシアンの攻撃は止まらなくなる。
正確な斬撃と、
執拗なマナ剣の連携。
カラは、ついに膝をついた。
額から血を流し、
荒く息をつきながら叫ぶ。
「……あんた!」
「反則よ!」
「どうして……まだマナが残ってるの!?」
「どんな魔法適性なのよ、卑怯者!」
「秘密を教えるほど、
俺はお人好しじゃない」
ルシアンは剣を下ろし、
疲労と勝利の入り混じった笑みを浮かべた。
「……君みたいな、狂犬にはな」
*
戦いを見ていたエミリーは、
使用されたマナ量と効率を瞬時に分析していた。
――カラ。
レベル56、魔法適性デルタ。
――ルシアン。
レベル54、魔法適性イプシロン。
数値では劣るはずなのに、
マナ運用と効率で、完全に上回っている。
「……なるほど」
彼女は、すぐに結論に至った。
*
「二人とも、そこまで」
エミリーが一歩前に出る。
「治療します」
カラは視線を逸らしつつ、
少しだけ柔らいだ声で言った。
「ありがとう」
「……あなた、優しいのね」
「ルシアンも、見習えばいいのに」
「骨は折れてない?」
エミリーはルシアンを確認する。
「着てる服が違うんだ」
ルシアンは苦笑する。
「学院の安物と違って、
高位防御魔法が仕込まれてる」
カラは誇らしげに鼻を鳴らす。
「ふん。私はそんなものいらない」
「実力だけで十分よ」
「でも――殴られてたけどな」
ルシアンは意地悪く言った。
「学院に戻ったら、
ドレス姿を楽しみにしてる」
アルベルトが横から近づき、
満足そうに頷いた。
「良い戦いだった、カラ」
「確実に、強くなっている」
エミリーは小さく息をついた。
――力とは、数字だけじゃない。
戦略、マナ制御、
そして身体と魔法の支配。
そのすべてが、
勝敗を分けるのだと。




