森の王
一週間後――
ソフィアは、魔獣が残した痕跡を追いながら森の奥へと進んでいた。
空気は重く、濃密すぎる魔力が満ちている。
熟練の騎士や魔導士ですら顔をしかめ、次第に足を止めていった。
ソフィア自身でさえ、魔力核が悲鳴を上げているのを感じていた。
「ルシアン、大丈夫?」
凛とした声の奥に、隠しきれない不安が滲む。
「……胸が……」
ルシアンは息を荒げた。
「今までで、一番痛い……」
「この周辺は、魔力密度が異常なの」
ソフィアは冷静に説明する。
「私たちの魔力核は、まだこの環境に適応できていない」
ルシアンは目を閉じ、深く呼吸した。
高地の都市を巡っていた頃を思い出す。
だが――これは違う。
十倍以上だ。
「……これ以上、進めない」
かすれた声で言う。
「どうする、母上……?」
「待つわ」
ソフィアは即断した。
「身体が順応するまで、進軍は中止。
無理をすれば、命を落とす」
一方その頃、森の別の区域では――
スナイダー家の指揮官、ゴンサロ・スナイダーが、裏切りの湿地を進んでいた。
一歩ごとが罠。
一音ごとが警告。
木々の影には、すでに多くの死が潜んでいる。
飛行魔獣が突如として襲いかかり、部下たちは一瞬で空へと引きずり上げられた。
彼は、ただ叫び声が樹冠に消えていくのを聞くしかなかった。
次の瞬間――
水面が割れ、巨大な顎が姿を現す。
反応する暇もなく、ゴンサロは捕らえられ、
湖の底へと引きずり込まれた。
――その姿を、二度と見る者はいなかった。
ブリッグス隊の副官が前に出る。
「ゴンサロ指揮官は戦死した。
全員、冷静を保て。
これより、私が指揮を執る。
――ここは、想像以上に危険だ」
四日後。
開けた平原に、ブールランス隊が集結していた。
その最中――
戦闘の只中に、ひとりの少女が転がり込む。
「お嬢様!? 何をしているのですか!」
ウィルバー・ブールランス指揮官が叫ぶ。
「……何も見てないでしょ?」
カラは落ち着き払った様子で兜を被り直した。
「……了解?」
「ご令父は、このことを――」
「何の話?」
彼女は何事もなかったように隊列へ戻る。
「お願いです、戻ってください。護衛を――」
その時、地面が激しく揺れた。
B級魔獣の巨大な鹿の群れが、子を連れて平原を横切っていく。
恐怖に駆られ、盲目的に逃げ惑っていた。
騎士たちは即座に迎撃態勢に入る。
混乱の中、数体が討ち取られた。
――貴族にとって、最高級の食肉。
回収しない理由はない。
だが、その瞬間。
『人間ども……』
声が、直接脳裏に響いた。
『我が獲物を奪い、我が森を侵すか。
――皆殺しだ』
「……喋った?」
カラが息を呑む。
そこに現れたのは――
バシルコ。
森の王。
高さ八メートル、全長十五メートルの魔獣。
原初の怒りを宿した眼で睨みつけ、
口を開き、光の奔流を放つ。
一瞬。
二百二十一名の騎士、七十六名の魔導士が、
跡形もなく消え去った。
生存者たちは必死に魔法を放つが、無意味だった。
一切のダメージが通らない。
巨体が、確実に距離を詰めてくる。
ウィルバーは即座に救援信号を発動した。
カラを抱え、戦場の中心から離脱する。
魔力密度の影響で、多くの騎士が満足に動けない。
再び、光。
また一隊が消滅した。
「助けなきゃ!」
カラが叫ぶ。
「このままじゃ、全滅する!」
「お嬢様、あなたの安全が最優先です!」
ウィルバーは必死に制止する。
救援信号を確認したソフィアは、即座に出撃を命じた。
遠くに見える、圧倒的な巨影。
ルシアンが一歩前に出る。
「……あれは、バシルコだ」
静かな声。
「待って、母上」
「どういうこと?」
ソフィアは焦りを隠せない。
「森の王だ。
兵を送れば、ただの自殺になる。
数は意味を持たない。
――でも、倒す方法はある」
「話しなさい。
だが、兵は後方待機よ」
「本名は《サルコスクス・インペラトル》。
全属性耐性。
最強の攻撃は、口から放つ光線だ」
ルシアンは続ける。
「倒す方法は二つ。
圧倒的な物理力か、同等以上の闇魔法。
ただし――弱点がある」
ソフィアは息を呑む。
「光線を放つ直前、
脚部の四か所に魔力が集中する。
その瞬間、闇魔法を叩き込めば、
一瞬だけ動きを止められる」
彼はまっすぐ母を見る。
「アンバーと連携すれば、
その“一瞬”を作れる」
ソフィアの表情に、誇りと不安が交錯した。
「……危険すぎるわ」
優しく言う。
「あなたは、ここに」
「母上」
ルシアンは一歩も退かない。
「俺しか、アンバーを支援できない。
信じて。
でも、危険なら必ず退く」
――沈黙。
「……分かったわ」
ソフィアは頷いた。
「でも約束して。
危険なら、即座に離脱すること」
五つの小隊が編成される。
騎士十、魔導士五。
残りは後方警戒。
その頃、バシルコは依然として蹂躙を続けていた。
突如――
獅子が飛びかかる。
次の瞬間、地面を伝う雷撃。
ダグラス家の水魔法で湿った地形が、
電撃を増幅する。
硬直。
その隙を突き、ソフィアとサンダーが突撃した。
怒り狂い、魔力を集中するバシルコ。
――その瞬間。
闇魔法が、集中点を貫く。
絶叫。
ラリエットが跳躍し、
その眼を粉砕する。
噛みつこうとした瞬間、再び雷撃。
再度の魔力集中。
再度、闇。
動きは乱れ、隙が増える。
追い詰められたバシルコは逃走を図るが、
獅子と狼が脚に食らいつく。
ソフィアは獣を強化する領域魔法を展開し、
一直線に突進。
槍が、最後の眼を貫いた。
――森に、初めて響く悲鳴。
恐怖。
無敗の王が、初めて知った感情。
生まれてから一度も、敵を持たなかった存在。
光の吐息で、すべてを屈服させてきた支配者。
だが今日、
その時代は――終わった。




