『仮面の宴』
数時間後、ルシアン・ダグラスはカーター邸の前で足を止めた。
ランプの灯りが大理石の柱と、甘い香りを放つ庭園を柔らかく照らしている。
そこへエミリーが姿を現した瞬間、空気がふっと静止したように感じられた。
彼女は象牙色のドレスに身を包み、月光の糸のようにきらめく繊細なレースが灯りを受けて揺れていた。
栗色の髪は肩に沿って柔らかな波を描き、悲しみの名残でわずかに赤みを帯びた瞳には、それでも穏やかな憂いが宿っている。
「……こんばんは、エミリー」
ルシアンは思わず、少し驚いたように声をかけた。
「このドレス……変じゃない?」
彼女は不安そうに視線を落とす。
「全然」
ルシアンは心からの笑みを浮かべた。
「とても綺麗だ。……調子はどう?」
「少し良くなったわ」
そう言って微笑もうとする。
「でも……まだ、悲しい。けど、きっと乗り越える」
ルシアンは手を差し出し、エミリーはそれを取って馬車に乗り込んだ。
石畳を叩く蹄の音だけが、二人の沈黙を優しく包んでいた。
王宮の大広間は、無数の水晶灯に照らされて眩いほどに輝いていた。
貴族たちは笑い声と杯を交わし、優雅な旋律が空間を満たしている。
ルシアンとエミリーが入場すると、視線が一斉に集まった。
好奇の目、羨望の目、そして値踏みするような目。
人混みの中からクラリスが気づき、急いで駆け寄ってくる。
彼女はエミリーを温かく抱きしめ、ルシアンに挨拶すると、顔なじみの小さな輪に二人を迎え入れた。
その奥で、ルシアンはエリザベスの姿を見つける。
影の中に咲く百合のように、ひときわ眩しい存在だった。
――だが、彼女は一人ではない。
隣に立つのは、威圧的な存在感を放つ男。
第十二軍団将軍、マーカス・ヴァレンタイン。
“ジャッカル”の異名を持つ、ルシアンがゲームの記録で知る宿敵。
未来の帝国侵攻において、必ず倒すべき戦争指揮官。
空気が張り詰める。
ルシアンは視線を逸らした。
ちょうどその時、皇子レオポルドが三度目の“攻略”に出ていた。
帝国貴族はイザベラ・アーメットに手を差し出し、作り物の優雅さで微笑む。
「姫君、この一曲を私に?」
イザベラはちらりと見るだけで、氷のように答えた。
「踊る気分ではありません、殿下」
周囲の貴族たちは聞こえないふりをした。
レオポルドは笑みを貼り付けたまま――だが、彼女の視線の先に気づいた瞬間、その表情が変わる。
イザベラが見ていたのは、今しがた到着した青年。
ルシアン・ダグラス――そして、その腕に寄り添う美しいエミリー・カーター。
嫉妬か、それとも好奇心か。
皇子の瞳に、不穏な光が宿った。
――なるほど。
あの傲慢な平民に、姫は興味を示しているというわけか。
いいだろう。
“選ばれし者”と“取るに足らぬ者”の差を、思い知らせてやる。
そう心に決め、レオポルドは上着を整え、完璧な笑みを作って歩き出した。
宴は始まったばかり。
そして、本当の仮面が剥がれ落ちるのは――これからだった。
贅沢と危険の香りが混じる空気の中、
傲慢な笑みと探るような視線を携えた
レオポルド・フェルッシ・ファブリーニ皇子が、ルシアンとエミリーのいる一団へ近づいてきた。
「なんと美しい方だ」
甘ったるい声で言い、手を差し出す。
「よろしければ、一曲いかがかな?」
「申し訳ありません」
エミリーはきっぱりと答えた。
「あなたがどなたか存じませんし、婚約者もここにいます」
そう言って、彼女はルシアンの側へと寄り添う。
その仕草は、周囲の注目を一気に集めた。
「それは残念だ」
皇子は計算された笑みを浮かべる。
「私はイタカ帝国の皇子、レオポルド・フェルッシ・ファブリーニだ」
エミリーの体が強張る。
外国の皇子に無礼を働けば、外交問題になりかねない。
――だが、その前に。
ルシアンが一歩前に出た。
「その肩書きが通用するのは、あんたの帝国だけだ」
声は静かだが、鋼のように鋭い。
「ここでは何の意味もない。客として来たなら、客らしく振る舞え」
ざわめきが一気に広がる。
レオポルドは眉をひそめ、信じられないものを見る目を向けた。
「……何を言った?
無知にもほどがある。言葉の重みを知らんのか」
「もちろん知ってるさ」
ルシアンは挑むように言い返す。
「だからこそ――教えてくれよ。帝国の皇子様」
張りつめた沈黙が、広間を支配した。
その瞬間――
一人の女性が割って入り、皇子を乱暴に押しのける。
「おい、ガキ」
低く荒っぽい声。
「もう治ったのか?」
カラだった。
彼女はルシアンの前に立ち、獣のような笑みを浮かべていた。
ルシアンは思わず顔を覆い、笑いをこらえた。
――彼女がドレスを着ている姿を見るなんて、ほとんど奇跡だ。
煌びやかな装いに身を包んだカラは、どう見ても場違いだった。
華やかな舞踏会を忌み嫌う、あの恐るべき剣士。
レースやリボンに囲まれた彼女は、まるで戦場に迷い込んだ獣のようだった。
「……どうしてここにいるんだ?」
ルシアンは楽しそうに尋ねる。
「こういう場は嫌いだろ?」
「まず一つ」
カラは挑むように笑った。
「どうしてそれを知ってる?
それから二つ目……明日の午後、闘神ダイナムスの円形闘技場で、あたしが勝つ」
「悪いけど無理だ」
ルシアンは肩をすくめる。
「明日はキュモペリアの森への討伐に参加する。
お前の敗北は、また別の日だな」
緊張した空気に耐えきれず、エミリーが彼の耳元で小さく囁いた。
「……皇子様には、もう少し礼儀正しくしたほうが……」
「皇子?」
ルシアンはとぼけた顔で言う。
「どの皇子のこと?」
「逃げる気?」
カラが腕を組み、不満げに言った。
「どうしてお前は討伐に行けて、あたしは駄目なんだ?
不公平だろ!」
「……貴様ら、本気で私を無視するつもりか?」
ついにレオポルドが爆発した。
怒りで顔を真っ赤に染めている。
広間の端で、アンドリューはその様子を見つめていた。
懸念と計算が入り混じった視線。
彼は一歩前に出て、威厳ある声を響かせる。
「ルシアン・ダグラス・ザ・モンドリング。
客人を侮辱すべきではない」
ルシアンは静かに彼を見返した。
「客人に注意を払わなければ……“事故”が起きるかもしれません。
そして、誰かが怪我をする」
空気が重く沈む。
アンドリューは小さく息を吐いた。
「やめろ、ルシアン。
一線を越えるな」
(そう言って、彼はレオポルド皇子の腕を取り、その場から引き離した。
低い声で何かを囁き、必死に宥める。)
去っていく二人を、貴族たちは恐怖と興味の入り混じった視線で追った。
王族の側室、アレッシア・フェルッシには、密かに忌み嫌う役目があった。
――弟、レオポルド皇子の衝動を抑えること。
皇帝である父は、武器を戦場に配するかのような冷淡さで、その任を彼女に与えた。
最も扱いづらく、最も傲慢な皇子を制御せよ、と。
だが、レオポルドは救いようがなかった。
己をすべてに優越する存在だと信じ、運命さえも見下している。
ほんの一瞬の油断が、彼の傲慢さを暴走させ、この国で最も危険な者たちとの衝突を招いた。
玉座の間。
ソフィア・ダグラス・ザ・モンドリング公爵夫人は、生きた彫像のように立っていた。
その存在だけで、空気は凍りつく。
「お兄様に代わっての謝罪、確かに受け取りました」
氷のような声で、アレッシアに告げる。
「ですが、皇子には一刻も早く、この国の流儀を理解していただく必要があります。
さもなくば……今日のような事態は、再び起こるでしょう。
その時、結果が同じとは限りません」
「重々承知しております、公爵夫人」
アレッシアは完璧な礼を取った。
「必ず教育いたします。この国の礼節と伝統を。
自らの立場……そして行動の結果についても」
ソフィアはわずかに頷いた。
表情は変わらない。
だが、その警告は、宙に浮かぶ剣のように残った。
少し離れた場所で、エリザベス・ダグラスが楽しげにその様子を眺めていた。
好奇心に輝く瞳でルシアンを探し、目が合うと、さりげなく合図を送る。
一方その頃、アンドリュー・カーターはレオポルドに付き添い、必死に空気を和らげていた。
「……あの少年とは、これ以上関わらないほうがいい」
外交的な口調を保ちながら言う。
「かなり問題のある性格だ」
レオポルドは苦々しく笑った。
「なぜ貴様は部下を制御できない?
帝国なら、あれほどの無礼者は即刻処刑だ」
「そうかもしれません」
アンドリューは平然と答える。
「ですが、あなたの父上が同じ立場なら……同じ判断をされたでしょう」
「違うな」
皇子は胸を張る。
「父なら、その場で首を落とす」
アンドリューは、皮肉とも賞賛とも取れる微笑を浮かべた。
「それは勇敢ですね。
ソフィア・ダグラス公爵夫人に逆らう者こそ、敬意に値します」
「……なぜ、ここで公爵夫人の名が出る?」
不審そうな皇子に、アンドリューは楽しげに言った。
「分かっていないようですね。
あなたは彼女の息子に手を出した。
もし指一本でも触れていたら……今頃、魔獣の餌ですよ」
レオポルドは言葉を失った。
初めて、自分に覆いかかる“影”の重さを理解したのだ。
その夜。
ルシアンはダグラス家の居室へ戻った。
大理石の壁の奥に隠された秘密の部屋で、エリザベスが待っていた。
蝋燭の光が、彼女の金髪を揺らす。
「ふふ……あの愚か者をからかうあなた、面白かったわ」
いたずらっぽく微笑み、近づく。
「……君に近づいたのは、全然面白くなかった」
ルシアンの声は低く、真剣だった。
「嫉妬してるのね」
彼女は軽く笑う。
「意外。でも……これで分かったでしょう?」
「……ああ」
彼は一歩踏み出す。
抗えない力に引き寄せられるように。
「信じられないほど、嫉妬してる」
「ルシアン……だめ……」
囁きは、唇によって遮られた。
時間が止まったかのような口づけ。
王族側室の私室では、雷鳴のような音が響いた。
怒りに任せて叩きつけられた拳が、重厚な机を震わせる。
「クソッ! 下劣な連中め!」
レオポルドは吠えた。
「身の程を知らん野蛮人どもが!」
長椅子に身を預けた兄弟は、冷笑を浮かべていた。
「派手にやったな、弟」
毒を含んだ声。
「父の命に従う気がないなら……お前の死は、戦争の口実になる」
「父が、こんな場所でそれを許すとでも?」
誇りと恐怖が混じった声。
香の匂いが漂う部屋の奥で、アレッシアは静かに立っていた。
「ええ。許すわ」
冷たい断言。
「お前の運命は、魔力適性が判明した日に決まった。
ガンマ級であるお前は……父にとって道具よ。
息子ですらない。
血の純潔に、あの人は狂っている」
さらに冷酷な声音で続ける。
「魔力の限界は母の血が決める。
子は、母を超えられない。
運命が介入しない限り――百万に一人の例外を除いて。
……お前は、ただ“凡庸”だった」
レオポルドは拳を握り締めた。
「……それでも、俺は皇子だ」
掠れた声。
「道は……自分で切り開く」
アレッシアは苦笑する。
「まだ帝国の栄光を信じているのね。
後継者は、イプシロンのナイラ・フェルッシ・ベッカー。
父は彼女を神のように崇めている。
お前の居場所は……ない」
乾いた音が沈黙を裂いた。
闇から現れたのは、マーカス・ヴァレンタイン――“ジャッカル”。
「姫君」
嘲りを帯びた低い声。
「皇子に厳しすぎる。
彼の死は……帝国に利益をもたらす」
「……貴様も俺を見下すのか?」
「事実を見ているだけです、殿下」
悠然と煙草に火をつける。
「帝国は、個人より重い。
従えぬなら……邪魔をするな」
重苦しい沈黙。
アレッシアは弟に近づき、哀れみと軽蔑の混じった視線を向ける。
「最後の機会よ、レオポルド。
姫を落としなさい。
その顔を使って。
油断させるの。
――それが皇帝の命令」
「……もう試した」
彼は唸る。
「完全に無視された。
それに、あのガキ……」
アレッシアは、囁くように言った。
「知ってる?
あの“ガキ”は、ルシアン・ダグラス。
ソフィアの息子。
イプシロン。
父は、彼を欲している」
顔色が消える。
「ナイラとの間に、完璧な血を残すために」
「……あいつが……イプシロン……」
叫びが天井に響く。
怒りと共に、深い痛みが混じる。
――忘れ去られた者の苦悩。
アレッシアの瞳に、一瞬だけ憐憫が宿り、消えた。
帝国に、弱さの居場所はない。
黄金の光に満ちた広間。
エミリーは両親と話していると、アレハンドロが近づいてきた。
「……一曲、いかがですか?」
彼女は迷い、遠くを見る。
ルシアンの姿を探す。
「……話があるの。二人きりで」
廊下へ。
静寂。
「何かあった?」
「……距離を置きましょう」
理由。
誤解。
沈黙。
別れ。
戻るエミリー。
柱のそばに立つルシアン。
「戻ったんだね」
「ええ……アレハンドロとは……もう友達ではいられない」
困惑。
「……そんなつもりじゃ……」
「私は、約束を守る」
ルシアンは理解した。
善意だけでは、守れないものがある。
彼女は孤立し――
その原因は、自分だった。




